26 開戦前夜
ポツポツと雨が降り始めてきた。
先ほどまであった青空は影を潜め、いまや、どす黒い雲が空を覆っている。 色の黒さから、雨脚が強くなる事が予想できた。
それは、セシリア達には好都合だった――。
領民の避難が完了次第、エヴァーグリムを取り巻く川の一部の堤を決壊させる事になっている。
そうする事で、国境から続く街道を湿地帯の一部に変え、敵の侵入を防ぐのだ。 その後は、ジワリジワリと街全体が水没していく事で、王都への敵の侵入を遅らせる。 エヴァーグリムはその最初の砦とされていた。
だから、私たちは逃げてはいけない。 そう、父から教えられていた。 私たちが生き延びる事で、家族や大切な人々の命を守れるのだから。
というのは建前で、セシリアは今すぐに逃げ出したい気持ちを必死に抑え込んでいた。
執務室の窓から見下ろす街並みは静まり返っていて、誰一人歩いていない。 雨脚が強くなったせいではない。
当たり前に聞こえていた音が一切聞こえてこない。 耳の奥でキーンと鳴り続ける静寂がセシリアを襲う。
――三日、三日持ちこたえれば良い。 たしか、父はそう言っていた。 たかが三日、されど三日。
だが、今のセシリアの精神状態では、とても三日も持ちそうに無かった。
緊張からか、恐怖からか。 それとも、急な雨で気温が下がったのか。 セシリアは、足元から冷たい蛇がユックリと這い上がってくる感覚に陥り、背筋がゾワリとする。
自分自身を抱きしめるように腕を組んでいる彼女だが、爪が食い込んでいるのにさえ気が付かずに、窓に打ち付ける雨粒を、ボンヤリと眺めていた。
「アレクに会いたい」
思わず、弱音が漏れた。 その時、知らず知らずのうちに、アレクシウスに依存している自分に気が付いた。
あの、霧に覆われた丘の向こうに隣国の旗がはためいた時、セシリアの運命は決まる。
エヴァーグリムと街道を繋ぐ橋は落とした。 下を流れる川は、この雨で濁流となっているはず。 たが、天候が回復すれば、可愛らしい川に戻ってしまう。
街の入口の門塔は、それなりの強度はあるが、もって一日だろう。 後は、湿地帯へと装いを変えた街の一部と、受け継いできた防御壁が、どこまで敵の侵入を遅らせてくれるかだ。
住宅街にまで入り込まれれば、ひとたまりもない。
その時、ノックも無しに執務室の扉が、激しい音と共に開け放たれた。 ヒンヤリとした空気がセシリアを襲った。
「嬢ちゃん。 申し訳ない、ニールの奴、逃げ出したようだ」
「橋も堤も準備できてませんッ」
市長とアンナだった。 二人は、肩で大きく息をしている。 乱れた髪に、裏返った声。 市長に至っては、なりふり構わず走ってきたのだろう。 泥だらけの靴に、ズボンの裾は泥水で汚れている。
「なんですって?」
セシリアは焦る。 その二つは、防衛の要なのだ。何においても最優先事項なのだ。
駆け出そうとするセシリアを、アンナが止める。
「ニルスが向かってます。 じきに、戻ってくるはずです」
「ごめんな、嬢ちゃん。 あいつ、子供が産まれたばかりなんだよ……」
膝に手を付いたまま、顔を上げた市長が、申し訳なさそうに謝ってくる。 汗で髪が額に張り付いている市長のその様が、セシリアの憐憫の情をあおってくる。
「だからって……」
だからと言って、自分の……、自分達の安全の為に、エヴァーグリムに残り防衛戦を決意した『領民たちの安全』を脅かして良い訳がない。
「アンナ……」
「はい。 お嬢様」
「今すぐ、残っている領民をここ集めて」
賑やかな足音と泥汚れを残し、市長とアンナの二人は弾かれたように、部屋を飛び出した。
そんな二人を、頼もしく感じながら見送ったセシリアは、再び視線を雨で曇る窓の外に向けた。
逃げ出したい程の恐怖が、無くなった訳ではない。 けれども、胸の奥から湧き上がってくる『エヴァーグリムを守りたい』という想いは嘘ではないし、手放す事はできない。
思えば、今までは必ず誰かに守られていた。 両親に、マグヌスに、そしてアレクシウスに。
でも、今度は、私が守る側に立たないとならないのだ。
瞳を閉じ「――アレク」と呟く。
今ほど彼を切望した事はないだろう。 それが、愛なのか庇護なのか、今はわからない。
でも、彼の名を呼ぶと温かい何かが湧き上がってくる。
ゆっくりと瞳を開けると、世界が少しだけ違って見えた。
(私は……、今から大切なモノを守りぬく為の戦いをするの。 また、アレクに会うために)
もう、震えは止まった。




