9悩める兄
翌日、出勤するなりエイヴァルトを捕まえたアイザックは直角に腰を折って頭を下げた。
「どうか妹を振ってくれ。頼む!」
急な出来事にエイヴァルトは目を剥いている。周囲も何事かと騒ぎ立て始め、アイザックはエイヴァルトに腕を引かれて人気のない場所へと連れて行かれた。
「唐突にどうした?」
「妹と交流を持っているんだろ?」
エイヴァルトが息を呑む。アイザックは「やっぱりそうなのか」とがっくりと肩を落とした。
「俺のことが気に入らないのは分かっている、人には相性があるから仕方がない。だが妹を弄ぶのはやめて欲しい」
アイザックの弱点はたった一人の家族であるクラーラだ。それに気付いたエイヴァルトは自分に惚れさせて襤褸布のように捨てる気でいるに違いない。
クラーラ自身は淡い恋を楽しむつもりでいるようだが、物語の中にでてくる王子様のような見た目のこの男に手のひらで転がされたらどうなることか。
そうなるのを阻止するためにアイザックは頭を下げている。
「まず私の話を聞いてくれないか?」
「ああ、聞こう。クラーラを傷つけないでくれるならなんでもする」
と言ったものの運悪く、遠くからアイザックを呼ぶ声がする。遠征から戻ってやることが多く、まだしばらくは忙しいのだ。
「今から出るのか?」
「夕方には戻る」
「その頃訪ねよう。先に言っておくが、私はクラーラを弄ぶつもりはない」
そこへ「部隊長、こんなところにいたんですか!」と部下の一人が顔を覗かせた。
「急がないと遅れますよ」
「分かった、すぐに行く!」
去り際にアイザックは睨みつけるような視線を向けたが、エイヴァルトは静かな瞳で受け止めていた。
なんだか調子が狂う。
この後アイザックは視察に出た高官の護衛として都中をついて回った。
本来なら部隊の一つを充てがえば済むことだったが、この高官、一度アイザックに命を助けられたこともあって、公務で外出するときは必ず指名されるのだ。
今回はアイザックが戻るまで視察の日を延ばしたほどで、断ることはできなかった。
仕事だし、万一があってはならないので真面目に勤めるが、今日ばかりはエイヴァルトの思惑が気になって仕方がない。
こんな時に限って視察の終了が大幅に伸びたものだから、騎士団に戻るのが暗くなってからになった。
もう残っていないかもしれないと思いつつ捜していると、正面からエイヴァルトが姿を見せたのでほっとする。
「遅くなってすまない」
「いや、仕事なら仕方がない」
やはりエイヴァルトの様子がおかしい。「愛人の子は時間も守らないのか」くらいの嫌味は言われると予想していただけに、本当に調子が狂ってしまう。
恐らく、アイザックが戻るのを気にかけて待っていたのだろう。本当に何が起きているのか。一気に不安になった。
個人的なことで人目につきたくないので執務室に入る。
まずは騎士の任務に忠実に従い、クラーラを助けてくれたことに礼を言おうとしたら、なんとエイヴァルトが先に頭を下げた。
「これまで申し訳なかった」
驚きのあまり「は?」と、目と口が丸くなる。
「私はこれまで未熟な己を認められず、上手くいかないことの全てをお前のせいにしてきた。アイザック、お前は何も悪くない。全ては優れたお前に対する八つ当たりだ。本当に申し訳なかった」
頭を下げるだけでなく、膝まで突いたエイヴァルトを前にして、アイザックは「ちょっと待て、やめろ!」と引きずってむりやり椅子に座らせる。
こいつはいったい何を企んでいるのか。俯く顔を覗き込んだら、弱々しく碧い瞳を揺らす様に衝撃を受けた。
これは……本気の謝罪だ。
「すまない、ちょっと意味が分からない。俺はお前がクラーラに何かしようとしているのではないかと思っていたんだ」
それがなぜか過去についての謝罪になってしまっている。
エイヴァルトの態度急変にアイザックは驚き過ぎてついていけなかった。
「クラーラの気持ちには気づいている。だが私は受け入れるつもりはないし、弄ぶなどもっての外だ」
「本当か?」
「ああ、本当だ。手のひら返しの私の言葉など信じられないだろうが、生まれの問題もある。私は彼女の気持ちを受け入れない」
「生まれか……そうだな。俺たちは卑しい売女の……」
これまで投げつけられた言葉が何気に出てきてしまった。すると言い終える前にエイヴァルトが「済まなかった!」と言葉を遮った。
「お前の母君をも貶める言葉だった。一度口にしたことは消えないが、本当に後悔している。生まれの問題と言ったのは、この想いを叶えてしまうとクラーラを悲しませることになるからしないと言いたかったんだ」
「この想いを叶えると?」
それはクラーラのためにならないから受け入れないと言っているのか? ならば言い回しとして少しおかしいように思えて、アイザックは首を傾げた。
「すまない。私はクラーラに懸想している」
「はあっ!? 冗談はやめてくれ!」
「申し訳ない……」
深々と頭を下げたエイヴァルトのつむじを見おろして、アイザックは「嘘だろう?」と洩らした。
「駄目だ。お前は絶対に駄目だ……」
「分かっている。私は人として最低だ」
「いや、そうじゃなくて……」
お前が貴族だから……。
そう出かかった言葉はなんとか飲み込んだ。
「だが彼女への気持ちは本物だ。想いを伝えるつもりはないし、彼女を傷つけるつもりも弄ぶつもりもない。離れなければならないのも分かっている。なのに……止められないんだ」
つい最近まで自分を嫌っていた男が項垂れ懺悔めいた告白を始めた。しかも内容はクラーラに惚れている……恋をしているというもの。二十ニ歳の、高位貴族の三男が、平民で見下して嫌っていた男の妹に懸想しているなんて……。
「それをなぜ俺に言うんだ……」
「すまない。私はお前たちに不誠実だった。だからせめて今後は正直に告白しようと」
「しなくていいから! クラーラには伝えるつもりじゃないんだろ? それでいいよ!」
「そのつもりだが……どうしても心配でつい足を向けてしまう。お前に許されないと承知しているのに、彼女の笑顔を見たくて止められないんだ」
その気持ちは大変よく理解できる。クラーラが笑うと赤や金を帯びた紫の不思議な瞳が虹色に輝いたように見えて、生まれた時から一緒にいるアイザックでさえ、見惚れてしまうことが度々あるのだ。
「職務以上のことはしてくれなくていい。一騎士として接するなら、俺からは何も言えない」
四六時中アイザックが一緒にいられるわけじゃない。アヒムの件もある。クラーラに何かあってはいけないので完全に拒絶できない。
「確認だが、お前はクラーラをどうこうしようなんて思っていないんだな?」
「彼女を日陰者になんてするくらいなら貴族の立場を捨てる」
「そんなこと無理だろう?」
爵位のある家に生まれるということは相応の責任が伴う。貴族と平民が職場を同じくしてやっていても貴賤結婚は許されていない。特にエイヴァルトは高位貴族で、自身の結婚一つにしても本人に決定権はないのだ。
「そうだな。だから絶対にこの気持ちはなくしてみせる」
エイヴァルトは俯いたまま、とても辛そうに吐き出した。
二人の関係を認めることができないアイザックでさえ、なんとかならないかと同情するほど、目の前にいるエイヴァルトは落ち込んでいたのだ。
見たところ、クラーラよりもエイヴァルトのほうが強く相手を思っているようだ。
確かにクラーラは美人で惚れられやすいが、相手はとんでもなく綺麗な顔をしたエイヴァルトだ。そんな男がこれほど気持ちを持っていかれるなんて……。
アイザックはエイヴァルトの様子に、すでにこの世にいない父と母を重ねた。
妻子ある父と、商家の娘だった母。絶対に結ばれてはいけなかった二人は、目の前のエイヴァルトのように恋に苦しんだのだろうか。
成人して後も父のことは、母を捨てた不誠実な男だとずっと思っていた。子供に会いにも来ない薄情な、血の通っていない貴族なのだと。
しかし実際には来ることができなかったのだ。
それを知ったのは母親が死んで数ヶ月が過ぎてから。
父に仕えたという初老の男が接触してきて、アイザックに両親の真実を伝えた。それから二つの選択肢を与えられて、アイザックはクラーラに相談することなく、全てを隠匿することを選んで今の生活を続けている。
そうして選んだ今は、クラーラにとって障害になっているのだろうか。もう一つの道を選んでいたら、叶えてはいけない想いに悩み、項垂れているエイヴァルトはいなかったのかもしれない。