8嫌われている
何かの間違いであって欲しい。
恋する乙女を腕の中に閉じ込めていたアイザックは、その肩に手を置いてゆっくりと引き離す。
腰をかがめて真正面から確認したが、妹は間違いなく頬を染めてぽおっとしていた。
「ごめん、駄目だ」
「え、何が?」
大切な妹がいつの日か恋をして、兄の手を離れるのは予想していた。
父親は生まれた時からいない。母親が死んでからアイザックとクラーラは二人きりの家族だ。
アイザックは兄として、クラーラだけを大切にしてくれて甲斐性のある男と添い遂げてほしいと常々思っていた。
過去には同期で友人であるフランツをそれとなく紹介したこともある。
クラーラはフランツになついてフランツもクラーラを気に入ってくれたが、アイザックの目論見空しく、二人の間に恋愛感情は生まれなかった。
原因はフランツの年上好きにあったのだが、幼いころから綺麗で大人びたクラーラならフランツも心を動かされるのではないかと思っていただけに、アイザックはとてもがっかりしたものだ。
それから数年。
恋愛に興味がなかったことやアヒムに付きまとわれたこともあり、クラーラに浮いた話はまるでなかった。告白は多々受けているようだがクラーラが相手にしない。
なのに突然、恋というものはアイザックが予想しないところからやってきてしまった。
「エイヴァルトは駄目だ」
「だから何が駄目なの?」
クラーラは不思議そうに首を傾げる。アイザックはクラーラの手を引いて長椅子に並んで、体は向かい合うように腰かけると、自身の心を落ち着かせながら告げた。
「あいつは貴族だ」
「そんなの分かってるわ」
「未来はないんだぞ?」
言い聞かせるように、一つ一つを丁寧に、感情的にならないように落ち着いて告げる。
エイヴァルトは高位貴族。王家とも親しいトリン侯爵家の三男で、アイザックにとってはクラーラと結ばれて欲しくない対象でしかなかった。
たとえ相思相愛になってもよくて愛人。トリン侯爵家からの妨害もあるだろうし、悪ければ捨てられる運命にある。
クラーラだってよく分かっているはずだ。何しろ自分たちの母親は愛人とは名ばかりで、父親は一度だって二人に会いに来なかった。
実家に見捨てられても生活に困らなかったので援助はされていたようだが、ディートリンデが死んだときにさえ関係者は誰一人姿を見せず、葬儀は寂しいものだった。
アイザックは騎士になってからしばらくしてその理由を知ることになったが、だからこそよけいにエイヴァルトは駄目だと言えた。
細心の注意を払ってクラーラを騎士団に近づかせないようにしていたのに、どうして王家とも親しいトリン侯爵家の人間なのか。
いや、どうしてではない。
クラーラは暴行を受け、連れ去られそうになったところを見目麗しい騎士に助けられたのだ。乙女が恋する条件が揃いすぎている。
「未来がないことくらい分かってるわ」
落ち込むアイザックとは異なり、クラーラは明るい表情をしていた。
「でも好きになっちゃったんだもん。付き合いたいとか、結婚したいとは言わないけど、告白して両想いにはなりたい」
「いや……両想いになったら付き合うだろ?」
「そこは弁えてる。身分を理由に悲しい別れになっても思い出は残るでしょ?」
その言い草はまるで恋に恋する乙女のようだ。可愛い妹の初めての恋をアイザックも応援してやりたいと思う。
だがエイヴァルトは駄目だ。
絶対に駄目なのだ。
貴族でさえなければと思うが、現に貴族なのだからどうしようもない。
「クラーラ。実はな……」
アイザックはあきらめさせるためにクラーラをしっかりと見つめて続けた。
「俺たちはエイヴァルトに嫌われている」
「俺たち? え? わたしもなの!?」
どうやらクラーラは知っていたようだ。
「嫌なことを言われたか?」
「いいえ、ただなんとなく。わたしがアイザックの妹だって知って、よくない意味でびっくりしていたようだったから。でもわたしも嫌われているの?」
好いた男から嫌われているなんてショックだろうが、アイザックはクラーラのために敢えて心を鬼にした。
「ああ、大嫌いってくらいにな。お前は悪くないんだ。だが俺の妹だから。それでエイヴァルトはお前のことも嫌っている」
クラーラの顔色がみるみる青く変わっていった。
とても可哀想だが仕方がない。クラーラを危険な立場にさせないためにはこうするしかないのだ。
「嫌われているって……ねぇアイザック。あなたエイヴァルト様に何をしたの?」
「いや、それがよく分からないんだが……とにかく嫌われている」
「そう……」
クラーラは俯いて言葉を失っていた。アイザックは兄として、大切な妹を傷つけたことに胸の痛みを覚える。
けれど仕方がない。いらぬことに関わる可能性があるのだから仕方がないのだと自身に言い聞かせていたのだが……。
しばらくして顔を上げたクラーラはもとの明るさを取り戻していた。
「でもエイヴァルト様は好意的に接してくれているわ」
「好意的?」
「また襲われないか心配して気遣ってくれるの」
「気遣ってって、会っているのか?」
「仕事帰りとかに声をかけてくれて、綺麗なお菓子をくれたりするのよ。あ、フランツさんとも久しぶりに会ったわ。結婚するそうね」
「フランツのことは置いておいて……エイヴァルトからお菓子をもらったりしているのか?」
嫌っている人間にお菓子をあげたりするのだろうかと、アイザックは酷く狼狽した。
「わたし嫌われていてもいい。どうせ叶わない恋だもの。だからもう少しこの気持ちを楽しむわ。アイザックも協力してね!」
妹の無邪気な姿を目の当たりにして、アイザックはこれ以上否定的なことが言えなくなってしまった。




