7兄の帰宅
カルティバー王国の軍部、王国騎士団に所属するアイザックは、総勢二百名になる十の部隊を預かる部隊長だ。
今回は西方領主の依頼を受けてその半分、十の部隊を引き連れて、大きくなり過ぎた賊の討伐に駆り出された。
荒事になれた隊を選抜したお陰か、特に問題なく制圧し捕縛に成功した。領主の労いを受けて帰還したアイザックが上司への報告を済ませて不在中の仕事を片付けると、時は深夜になっていた。
たった一人の家族には、予定通り無事に戻ったことを部下を使って知らせている。諸々の処理で帰宅が遅くなることも。けれども深夜になるとは想像していなかった。
仕事を終えた途端にクラーラのことを思い出して、寝ないで待っているかもしれないと焦って帰り支度を済ませていると、不意に執務室の扉が叩かれる。
長く家を開けたので妹が心配だった。こんな時間に新たな仕事を押し付けられたくない。帰る気満々なのを見せつけるために荷物を抱えて自ら扉を開けると、暗い廊下にはエイヴァルトが立っていた。
アイザックは思わぬ相手に目を瞠る。
何かと絡んでくるこの男は高位貴族出身で、大変有能な人物だ。
近しい年齢で、剣技に優れたアイザックが唯一本気の対戦を挑める相手である。彼は高位貴族の生まれながら人当たりがよく、平民出身の部下にも分け隔てなく接して人望があった。
ただし、アイザック以外には。
エイヴァルトはアイザックに対して何かと辛辣な物言いをしてくる。近頃はクラーラのことも「愛人の子」と蔑んで、「母親と同じで男を誑かす悪女」とまで言い出した。
自分のことなら何を言われても慣れているので平気だったが、クラーラのことになると話は別だ。
それでも、これだけ出来て人望のある男がアイザックにだけ態度が急変するのはなぜなのか。
アイザックは自分がよほど酷いことをしたのだろうなと思っているが見当がつかない。まったく心当たりがないので何をしたのか不明なままだ。
部隊長への昇進を先に済ませたのが原因ではないと思われる。
第一に、空いた部隊長職に真っ先に名が挙がっていたのがエイヴァルトなのだ。
彼の実家が横槍を入れたせいで、王族に近しいトリン侯爵家に軍部にまで権力を持たせてはならないと上が判断した。
アイザックの昇進は、平民出身で能力のある者を先に昇進させて、トリン侯爵家が軍部に口出しできないようにとの処置だったのだ。
そのためアイザックはこの昇進を受けなくてはならなくなってしまった。
そもそも昇進のずっと前から、恐らく初めて顔を合わせてそう時を置かずしてだったと思う。
本人に聞いたことがあったが、美麗な顔で忌々しく睨まれて終わった。
そんな相手が立っていたものだから、遠征から戻って深夜まで仕事をしていたアイザックは、今からまた何か言われるのかとさすがに辟易した。
急いで帰りたいので無視して横を通り抜けてしまおうかと思っていたら、「話がある」と、エイヴァルトは眉間に皺を寄せて強い視線を送ってきた。
いつもなら唐突に嫌味を言われるのに「話がある」と前置きされた。強い視線も憎々しさではなく、何かしらの決意のようなものを感じる。
いつもとの違いを感じて、何か重要な事態にでもなっているのではと「なんだ?」と聞く姿勢をとった。
「君の妹のことで報告しなくてはいけないことがある」
クラーラの事となって、アイザックは一瞬で冷静さを失った。
わざわざ報告だと? この男がクラーラに何かしたと思い込んだアイザックは、手にした荷物を放り投げてエイヴァルトの胸ぐらを掴んだ。
「クラーラに何をした!」
誰もいない廊下にアイザックの怒声が響いた。胸ぐらを掴まれるエイヴァルトは、払いのけるでもなく暴挙を受け入れている。
「三週間前、アヒムという男に襲われた」
「なっ!?」
瞬時に理解したアイザックはエイヴァルトから手を離して、代わりに彼の両肩を強く掴んだ。
「状態は!?」
「怪我をしたがすでに完治している。私が見る限り元気そうだが、若い女性なだけにショックを受けているだろう」
「後遺症はあるのか!?」
「ない」
「どんな怪我を!?」
「全身の打撲に手足の裂傷。左頬を殴られて腫れていたが、医者に見せるまでもなく数日で完治した」
同じ両親の血が流れているのに、クラーラは筋肉達磨のアイザックと違って小さくて細身だ。それが元騎士でもある大柄なアヒムに殴られたなんて……。
「ど……どんな状況で発見された?」
最悪を予想しつつ、祈る気持ちでエイヴァルトを掴む手に力が入る。
「追われて裏路地に逃げ込んだことろ、追いつかれて引き倒されたようだ。性的な暴行は受けていない。悲鳴を聞いて駆けつけた時にはアヒムに担がれていた」
「お前が助けてくれたのか?」
「そうはなるが……」
「ありがとう、恩にきる!」
「いや、私は仕事をしただけで……」
「お前が気づかなければ大変なことになっていた。それでアヒムは? 釈放されたんだろう?」
女を殴って怪我をさせただけでは大した罰を受けない世の中だ。アヒムは何年も前からクラーラを付け狙っている。原因の一つはアヒムの素行の悪さを指摘していた自分にあるだけに、とりあえずクラーラが無事で助けられてよかったとほっとした。
「アヒムは逃走中だ」
「逃走中? どういうことだ?」
「私たちは違法薬物の組織を追っていた。アヒムもそれに関わっていると判断し泳がせ、組織の頭は先日捕縛した。現在は違法薬物の入手経路を絶つために動いているところだが、残念ながらアヒムを取り逃がしている。都を出た痕跡がないので恐らくどこかに潜伏しているのだろう」
「そうか……」
かつての同期はついに犯罪組織に身を置くまでになっていたのか。短い期間ながらも一緒に働いた相手だ。とても残念なことである。
「とにかくクラーラを助けてくれて感謝する。明日以降詳しく聞かせてくれ」
「あ、待っ……!」
他にも何か言いたそうだったが、自分の目でクラーラの無事を確認したくて、落とした荷物を拾って一目散に駆ける。
あっという間にたどり着いたひと月ぶりの家。焦るあまり鍵穴に鍵がうまく入らない。そうこうしていると中から鍵が外されてクラーラが飛び出した。
「お帰りなさい!」
「クラーラ! 確認もせず開けたら駄目じゃないか!」
帰宅を喜ぶ元気な声。飛びついたその姿にほっとするも、深夜に相手も確認せず扉を開いたことを咎める。
「窓から見てたらアイザックが駆けてきたのが見えたもの。お帰りっ!」
どうやら可愛い愛する妹はアイザックの帰りを寝ないで待っていたらしい。ずっと窓辺に張り付いて、今か今かと。きっと寂しかったに違いない。いじらしくてアイザックはクラーラをぎゅっと抱きしめた。
「ただいま。遅くなってごめん」
「お腹すいてる?」
「さすがに食べたよ」
騎士団には食堂があって、いつの時間に行っても団員たちの腹を満たしてくれる。寮も併設されていて、独身の騎士は地位にかかわらずほとんどが寮生活をしていた。
アイザックにはクラーラがいるので、多少の不便を感じるものの、城下に部屋を借りて住んでいた。
「アヒムに襲われたと聞いた。大丈夫なのか?」
扉を閉めてしっかりと鍵をかけたアイザックは、クラーラの髪をこねるように撫でて頭部を確認しながら、全身の動きを目視する。クラーラは「ぐちゃぐちゃになるからやめて」と抗議の声を上げつつも笑っていた。
とても元気そうでほっとした。
もう一度しっかりと抱きしめて「本当によかった」と胸をなでおろした。
「エイヴァルト様が助けてくれたのよ」
「らしいな。さっき報告を受けて飛んで帰って来たんだ」
もっと早く、帰還してすぐに教えてくれたらよかったのにと思う。けれどそうするとアイザックは間違いなく仕事を放り出してクラーラのもとに駆け付けただろう。駆け付けた先では不在に慌て、次は職場に押し掛けるのだ。
襲われたのは三週間も前のこと。クラーラが普通の生活に戻っているのに取り乱して、部隊長の職務を放棄するのは大変よろしくない。
エイヴァルトのことだからそこまで計算して、アイザックが仕事を終える頃を正確に見計らってのことに違いなかった。
ここでアイザックはおかしなことにようやく気づく。
エイヴァルトがアイザックのためになるよう考えて行動したのはどうしてなのか? と。
仕事はしっかりする奴だと認識しているし、嫌っている相手の妹が襲われて見捨てるような男でもない。けれどそれまでで、あとは部下に任せてしまうのが普通だ。特にエイヴァルトならそうするのが当たり前に思える。
もしくは裏路地に逃げ込んだクラーラの軽率さを指摘して辛辣な物言いをするだろう。
「エイヴァルトと……何かあったのか?」
「素敵な人ね」
クラーラがアイザックの腕の中でもじもじしている。
エイヴァルトはとても美しい容姿をしていて婦女子に人気だ。本人が相手にしないのがまたいいらしいのだが……まさか……。
「わたし、エイヴァルト様のこと好きになっちゃった」
頬を染めてうっとりと何かを想像している妹の姿がここにある。その姿にアイザックは血の気が引いた。




