60二人で過ごす夜
クラーラが驚いて瞳を瞬かせていると、エイヴァルトが「当然だろう」と、普通のこととばかりに先を続けた。
「仕事なんてどうとでもなる。それよりもクラーラの方が大切に決まっている」
「え、でも。騎士団の規律は厳しいのでしょう? いくらお付き合いしているからって、わたしの我儘でエイヴァルト様の仕事に支障がでるのはよくないわ」
「いや、まったく構わないが?」
「え? 構わないの?」
構わないわけがない。アイザックだって騎士団の命令は絶対で従っていて、嫌だなんて言って仕事を休んだりしない。時には自分の命すら懸ける崇高な仕事だ。家族にだって知らせることができない極秘の任務に就くことだってあるのに。
それだけ重大で大切な仕事だ。家族の都合なんて二の次三の次になるのが当然なのだ。子供の頃ならいざ知らず、大人になったクラーラはそのことをとてもよく理解しているつもりである。なのに隊長職にあるエイヴァルトからさも当然とばかりに言われてしまい、頭の中が疑問でいっぱいになった。
「私の一番はクラーラだ。君と出会った今は、仕事なんて君といるための手段でしかない。大切な君が辛い時に側にいられない仕事なんてやる意味がない」
「待ってエイヴァルト様。ちょっと分からなくなってきちゃった」
これはいったいなんの話をしているのだろうか。
「あの日、君がアヒムに襲われた日。ずっと抱きしめて離さないでと言われたかった。頼られたかったというだけの簡単な、けれど私にとっては重要な話だ。私は一瞬たりと離れたくなかったが、君は一晩明けたら仕事に行くと言い出すじゃないか。私なんて職務を放棄して君と二人きりでいたかったのにだ。私では不足なのだろうか」
エイヴァルトはアイザックからクラーラの過去を聞いてから、どうにかしてクラーラが本心を言える状況を作りたかった。だからこんな恥ずかしい、子供が駄々をこねるような告白をしている。けれどもすべて、何一つ嘘じゃない。クラーラが自分を抑え込んで我慢している姿は二度と見たくなかった。我慢するあまり思い詰めてエイヴァルトから離れるようなことになったら……。
エイヴァルトは自分が何をするか分からなかった。
そんな思いを抱えるエイヴァルトからじぃっと見つめられてクラーラは戸惑う。ものすごく真面目に言われている。碧い瞳には強い力が宿っていて本気を物語っていた。
クラーラは何かを間違えたのだとようやく悟った。
仕事の邪魔になったらいけない、迷惑になるようなことを言ってはいけない。嫌われないために、見捨てられないためにそうしていた。
これは大人として当たり前のことだけれども、見方によってはいい子ぶっているともとられてしまう。気に入られるための浅ましい行為をエイヴァルトは嫌っていたのだ。
「あの時、怖いから離れないでと言ってもよかったの?」
警戒しながらおずおずと訊いた。エイヴァルトの本心を見逃さないように彼の碧い瞳をしっかりと見つめて。
「当然だ」
「でも言われたら困ったのでは?」
「言われなくても離さなかっただろう?」
確かにそうだ。クラーラが何も言わなくてもエイヴァルトはずっと抱っこしてくれていた。なんとなくだけどフランツが呆れていたような気もする。
「おかげで私は独占欲の強い男だと露見してしまった。何しろアイザックが戻るまで医者と二人きりにすることすら拒んだのだからな」
「独占欲、強いんですか?」
「強いよ。工房では私のものだと見せつけるために、あえて皆の前で手を繋いでいる」
エイヴァルトは迎えに来てくれるとその場で手を繋いでくれるようになった。あれってそういう意味だったのか。クラーラは「なるほど」と納得した。
「分かりました。それじゃあ、思ったことをなんでも言葉にするように頑張ります」
正解であろう言葉で告げたら、「頼むよ」とエイヴァルトの顔つきが途端に優しくなった。合格したようでほっとする。
「それではさっそく。今夜は泊っていってくれますか?」
ほっとしたせいで欲望のままが言葉になってしまった。エイヴァルトは息を呑んだが、視線を彷徨わせながら「君を一人きりにはしない」とびっくりする答えをくれた。
「いいんですか!?」
てっきりお断りされると思っていただけに嬉しくて爆発してしまう。クラーラはエイヴァルトに飛びついて、ぶつかる勢いに紛れてキスしてしまおうと積極的に顔を寄せたら……。
そっと唇に指を置かれてしまった。
これは拒絶だ。調子に乗りすぎたと後悔しかけたところで「我慢できなくなるから駄目だ」と。
それを聞いた途端、やるしかないと体が動いてエイヴァルトの唇を奪っていた。目を閉じていたので気づけなかったが、エイヴァルトの碧い瞳は極限まで見開かれた。
「駄目じゃないと思います」
本当にいいのかな、大丈夫かなと思いつつ、思ったことを正直に言った。嫌がられないか不安で少しだけ唇が尖り、至近距離なのに上目遣いになってしまう。
途端、エイヴァルトに押し倒されて噛みつくようなキスをされた。頭を固定されて逃げられない。鼻から息が漏れて聞いたことがない卑猥な音が鳴る。苦しくて声が漏れた隙に口内へと舌が侵入してきた。
圧し掛かる重みが嬉しくて熱がこもる。恥ずかしいけれど気持ちよくて。どうしたらいいのか分からないなりに受け入れていたら唇が離れて、お互い呼吸が荒くなっていた。そして目前には蕩けるように色っぽい妖艶なエイヴァルトの顔が。
はぁはぁと胸を上下させていると「ごめん」と言いながらエイヴァルトに体を起こされる。「わたしこそごめんなさい」と、顔だけじゃなく全身に熱を持ったまま乱れた服と髪を整えた。
想像するよりもずっと凄いことをしてしまった。こんなこと誰にも言えない。もっと先を望んでいたけれど、頭の中が混乱してそんな企みはすっかり飛んでいた。しかもエイヴァルトの色気が凄すぎて目を合わせられない。こんな調子で夫婦になれるのだろうか。
「この先は結婚してからにしよう」
「そうですね」
好きな人と繋がることは誰だってしている。簡単なことだと思っていたのに、ここにきてエイヴァルトの美貌に殺られてしまうなんて不覚だ。
恥ずかしくて顔を上げることができない。興奮しているのか息も整わず、クラーラは跳ねる胸を抑えた。
「クラーラ、君は私にとって手の届かない花だった。それを手に入れたんだ。ゆっくり二人で歩こう。何があろうと絶対に手放さない。覚悟して欲しい」
エイヴァルトの独占欲が現れた告白にも、コクコクと壊れた人形みたいに首を上下に動かすしかできない。
でも一つだけ。
とても幸せであることだけは実感していた。
※
東の空が白み始める頃、カチリと鍵が開く音がした。ソファーでクラーラと抱き合うようにして体を休めていたエイヴァルトは静かに目を開ける。
首を巡らせるとアイザックが入ってきた。エイヴァルトに向かって軽く手を挙げた彼は、足音を消して近づくとクラーラの様子を窺ってから、エイヴァルトと視線を合わせて「ふっ」と笑った。
笑われたエイヴァルトは久し振りにこの男にムカつく。誂われたのだ。
こんな状況を作っておきながら、エイヴァルトが手を出さないと予想していたのだ。その予想が当たって自分の勝ちだとでも言いたいのか。
「おやすみ」
アイザックは小さく言って再び手を挙げた。今日も勤務の予定のはずなので今から仮眠を取るのだろう。
こっちは寝ずの番だったというのに……。
扉が閉じる音が耳に届いて、エイヴァルトは「ふーっ」と長く息を吐き出す。
こんなにも愛らしい人を一晩中腕に閉じ込めて、よくぞ何もせずに耐えたものだ。エイヴァルトは誠実であれたことを誇りに思う。
貴族社会で育ったエイヴァルトは、迎える妻の純潔を守り抜いたことに満足していた。
ただ彼は知らない。庶民の間で婚前交渉が当たり前のように行われることを。これはフランツに相談しそびれたエイヴァルト自身の失態である。




