59仕事よりも大切なもの
出勤前にアイザックから「今日はエイヴァルトが迎えに行くからな。俺は夜勤だ」と言われて「今日って夜勤なの?」と問い返す。「連れ込んでいいぞ」と何でもないことのように告げたアイザックに、「エイヴァルト様はそんなお方じゃない」と抗議した。「はははっ」と軽く笑われたので冗談のようだ。
アイザックがいないのか。少しだけ不安になったが顔には出さない。それにエイヴァルトと久しぶりに会えると思うだけで幸せに包まれた。
この日は一日、一緒に過ごせる時間を思うだけでうきうきが治まらなかった。
少し早くに迎えに来てくれて、当たり前のように手を差し出される。
制服に隠された逞しい腕にぎゅっと飛びつきたかったけど、積極的すぎて引かれたら嫌なので、高まる気持ちを落ち着ける意味で敢えてゆっくりと手を繋いだ。
夕闇の町を二人で歩く。帰宅する人たちの足は速いけれど、クラーラとエイヴァルトは会話しながらゆっくり歩いた。
家に着くとエイヴァルトから「実は話がある。今からいいだろうか」と切り出された。それなら誘っても変にならないので喜んで家に招いた。
アイザックが夜勤だと告げたらびっくりされて。聞いてなかったのかなと首を傾げる。同じ騎士でも全ての情報が共有されているのではないようだ。
エイヴァルトはしばらく固まっていたが、何を思ったのかリビングを突っ切って窓を全開にした。まるで大仕事を終えたように肩で息をしている。クラーラを抱っこしても息を乱さない人なのにどうしたのだろう。何か分からないけれど凄く悩んでいる様子だった。
「分かった、もう大丈夫だ」
何が大丈夫なのか。理解できなくてもとりあえず分かったふりをして頷いておいた。
「お茶を入れます」
「いや、その前に話をさせてくれ」
エイヴァルトの麗しい眉間に皺が寄っている。厳しい顔つきも魅力的過ぎて見惚れてしまった。
「クラーラ?」
呼びかけられて慌てて「分かりました」と返事をした。二人してソファーに並んで座って、互いに体を向け合う。
「アヒムの件だが」
そう切り出したエイヴァルトはクラーラの様子を探るように注意深く見つめていた。怯えたりしないだろうかと気遣ってくれている。
平気だと教えたくて軽めに「はい」と返事をしたかったのに、思わず力が入ってしまった。あの日の恐怖は簡単に消えてくれない。
「アヒムは北に送られた。生涯、死ぬまで収容所から出られない」
「死ぬまで、ですか?」
北の収容所は聞いたことがある。冬は極寒の地となり、凍死する収容者が後を絶たない場所らしい。強制労働させられて脱走を試みる者もいるらしいが、厳しい監視でも有名で、これまで脱走に成功した犯罪者は一人もいない。
「もっと軽い刑だと思っていました」
「アイザックがそれなりの立場にあるから故の刑罰だ。騎士の家に侵入して家族を襲ったんだ。王太子殿下が重く受け止められた。私自身は妥当だと思っている」
エイヴァルトが言うならそうなのだろう。これでもうアヒムはクラーラを狙うことができない。一人で過ごす夜に突然現れるかもしれない恐怖に怯える必要もない。安心してほっと息が漏れた。
「それから君に謝罪させて欲しい」
「謝罪?」
聞き返すとエイヴァルトは「謝罪だ」と頷いてクラーラの手を取った。
「私がついていながらあんなことになって申し訳なかった」
「あれはエイヴァルト様のせいじゃありません」
悪いのはアヒムだ。あの日エイヴァルトはちゃんと送り届けてくれた。恋心に付け込んで不埒なこともしない、立派な騎士の鏡だ。
「君はそう言ってくれると分かっていた。だがそれは君の優しさだ。どうしてもっと早く助けに来れなかったのか、騎士なら気づくべきだと君は責めない」
「だって本当にエイヴァルト様のせいじゃないもの」
こんなに何度も謝られると不安になる。それだけエイヴァルトが気にしているということだ。あの日は動揺するあまり間違った態度を取ってしまったのだろうか。エイヴァルトが自分のせいでと苦しむのはクラーラの本意ではない。
「君は優しいから、言われて辛いことや苦しく感じることを絶対に口にしない。平気そうにしている君を見ると胸が痛む。私はきっと責めて欲しいのだろうな。至らないばかりにいつか君に愛想を尽かされるのではと想像したら怖くなる」
言葉にはっとする。その気持ちはとてもよく理解できるから。クラーラも自分の至らなさのせいで愛想を尽かされるのが怖い。けれど……。
「エイヴァルト様に至らないところなんてありません」
「君が危険な目に遭ったのに?」
クラーラが危険と遭遇するのは果たしてエイヴァルトのせいだろうか?
絶対に違う。
「君は二度も恐ろしい目に遭ったね。その時に私の胸に縋ってくれたのは嬉しい。だがそれ以上の弱さを見せてくれない。あんな目に遭ってどんなに恐ろしかっただろう。それなのに泣くどころか気丈に振る舞っていた。私がそうさせているんだ。己の無力さを痛感する」
苦しそうなエイヴァルトを目の前にしてクラーラは戸惑う。そんなつもりじゃなかったのに。迷惑をかけたくない、我儘を言って嫌われたくないと思うあまり騎士の誇りを傷つけて、自信さえ失わせる状況に追いやっていたのだ。
「私はそんなに頼りないだろうか?」
「そんなことないわ、絶対にないわ。エイヴァルト様がいてくれてどんなに心強かったことか」
「そうだろうか。私はいつか君に見捨てられるのではないかと想像してしまい、怖くてたまらない」
「見捨てられるって……いったいどうしてそんなふうに思うの?」
エイヴァルトの言葉に泣きそうになった。こんなふうに言われて、クラーラの方が見捨てられるような気持ちになった。捨てる言い訳のようにすら感じてしまった。
「だって君は私を頼ってくれない。怖いから行かないでと、側にいてと縋ってくれない。好きでいてくれることは分かる。だが不安だ。失いたくない。だから捨てられないために攫って閉じ込めたいと過ることすらある」
エイヴァルトはとんでもないことを言い出した。
攫って閉じ込める? 監禁するってことだ。監禁って閉じ込められるだけだろうか。エイヴァルトなら痛いことなんてしそうにない。それなら大丈夫、捨てられる不安に怯えたがその逆だった。よかったと、クラーラは安堵の息を漏らした。
「エイヴァルト様になら閉じ込められたいです」
思わず心の声が漏れてはっとする。違う、どうして自分のことばかりになってしまうのだろう。今はエイヴァルトの告白を聞いているのに。クラーラはエイヴァルトを頼りにしているが、不思議なことに少しも伝わっていないようなのだ。
「あの時のエイヴァルト様は仕事をしなきゃいけなかったでしょう? わたしの我儘で引き止めたらいけないと思ったの」
「仕事と君を比べたら、大切なのはクラーラに決まっている」
「え?」
仕事じゃないの? と、驚いて瞳を瞬かせたら、エイヴァルトも不思議そうに首を傾げながら眉間に皺を寄せた。




