3後悔
クラーラを送って詰所に戻ったエイヴァルトは椅子に座り、膝に肘をつくと両手で顔を覆った。すると待ち構えていたかのようにフランツが正面にどかりと腰を下ろす。
「ずいぶんと堪えているみたいですね」
「そう言うお前は楽しそうだな」
「そりゃあね。隊長がまさかアイザックの妹に惚れるなんて。状況からして一目惚れっすか? 冗談かと思いましたよ」
「私はどうしたら……」
エイヴァルトは頭を抱えて盛大に溜息を吐いた。
「まさか知らないとはね。でもまぁ、クラーラが騎士団に顔を出すことなんかなかったですから、隊長と接点はなかったといえばそうですね」
指の隙間からエイヴァルトがフランツを睨むように窺う。
「お前はどこで知り合ったんだ?」
「同じ隊に配属された頃、アイザックに誘われて家に遊びに行ってたんでそこで。前から可愛い子でしたけど、久し振りに会ったらとびきりの美人になってて驚きです」
「確かにお前は、私が根拠もなく口にした言葉をそんな子じゃないと否定していたな。そうか、前から知っていたのか……」
もともとフランツはアイザックと同じ隊だったのだ。彼女と知り合っていてもおかしくない。アイザックが部隊長に昇進した一年前に、フランツはエイヴァルトの隊に異動になったのだ。
アイザックは荒事に長ける十の部隊を仕切る部隊長で、王都を離れての任務も多い。それを理由に一度は昇進を断ったらしいが、上に説得されて結局は部隊長になった。
対するエイヴァルトは一つ年上かつ貴族出身なのに隊長止まりだ。かといって昇進が遅いわけでもなく、どちらかといえば早い。
正直、空いた部隊長への昇進の話は自分にくるものだと思っていただけに、アイザックへの嫉妬心がつい先ほどまでとても強く、猛烈にあった。
そう、つい先ほどまでは。
クラーラがアイザックとの妹と知って、驚きとともにそんな気持ちが一瞬で吹き飛んでしまっている。エイヴァルトはそんな自分自身にとんでもなく驚いている最中でもある。
「先日、奴がピアスをしていたのでチャラチャラするなと嫌味を言ったばかりなんだ」
「ああ、あのピアス。クラーラの手作りなんだそうですよ」
「そのようだな。先ほど彼女が彫金師で、初めてデザインから仕上げまでした品だと教えられた」
「だーかーらぁ。いくらアイザックが気に入らないからって、関係ないクラーラまで貶すなって言ったんですよ」
「お前の言うとおりだ。私はなんてことを……」
エイヴァルトは溜息と共に沈み込んだ。
本当になんてことだろう。今にして思えば……いや、口にしているその時から、人として恥ずべきことだと分かっていたのに止められなかったのだ。
エイヴァルトはトリン侯爵家の三男として生まれた生粋の貴族だ。一門は文官の家系で代々王の近くで働き、特権意識が強い家族に囲まれて育った。
騎士団でのエイヴァルトは出世が早く隊長職にあり、剣術も相当な腕だ。
そんなエイヴァルトだったが、トリン侯爵家では落ちこぼれとして蔑まれ、家族の誰にも認められることなく今日まできた。
トリン家の子弟は学問に優れ、通う最高峰の王立学院では常に最優秀の成績を収めている。二番なんてありえない。常に、誰もが一番なのだ。
優秀な家族の中でエイヴァルトはトリン侯爵家の面汚しだった。
王立学院の入学試験においてトップが取れず、新入生代表になれなかった。その後も成績は常に二番。すばらしい成績ながらも、トリン侯爵家において勉学で誰かの下になるなど許されないことだった。
しかしながらエイヴァルトは体を動かすことに大変恵まれていた。両親は反対したものの、当主である祖父から騎士になることを許された。
父は「軍部を操るのも悪くない」との祖父の言葉に従ったが、十五で学院を卒業して騎士団に入った一年後。将来を期待されていたエイヴァルトの前にアイザックが現れたのである。
アイザックは天才だった。エイヴァルトが近い年齢の騎士と剣を交えて負けたのはアイザックが初めてだ。
一年遅れで入った平民出の騎士と同等であることに両親は激怒し、「やはりお前は無能だった」と罵られる。
隊長への昇進もアイザックと同時期で、ついにはアイザックがエイヴァルトよりも早く部隊長へと昇進してしまった。
その際には「裏から手を回したのに」と祖父に大激怒され、杖で殴られる暴行を受けた。エイヴァルトは祖父の暴挙を受け入れながら、トリン侯爵家の後押しがあったのに平民出身の騎士に出世を越されたのだとたいへん落ち込んだ。
エイヴァルトにとって自分が輝けるのは剣の世界だけだった。トリン侯爵家の血筋でありながら、文官の才能には恵まれなかったものの、武勲を立てる道を開き、いつの日か認められる日がくると信じていた。
なのにエイヴァルトの前にアイザックという天才が立ち塞がったのだ。
同じトリン侯爵家の子弟に劣ると罵られるのは慣れていたし、不甲斐ない自分が悪いのだと思っていた。自分では気づかなかったが、エイヴァルトにもトリン侯爵家に生まれた誇りがあったのだろう。平民出身の騎士に負ける悔しさは、エイヴァルトの人間性を醜い色に染めた。
騎士になり、アイザックに出会ってからのエイヴァルトは、上手くいかない人生の全てを彼のせいだと考えるようになっていた。
アイザックの行動にいちいち文句をつけては蔑んだ。しかしアイザックは屁とも思っていないらしく、エイヴァルトをただ口の悪い先輩とみているようで、その余裕さえもが腹立たしかった。
なんとかして屈服させたいとアイザックのことが常に頭から離れなくなった。
そんな中で知ったのが、温厚なアイザックが妹のことになると態度が変わるということだ。
これまで全くダメージを与えられなかったが、彼が隊長に就任したとき、「兄妹揃って愛人の子だそうだな。庶民風情が意地汚くたかって昇進したのか」と罵ると、「俺のことはどうでもいいが、妹のことを貶めるなら許さない」と胸倉をつかまれた。彼の紫の瞳が怒りに燃えていて、エイヴァルトは胸のすく気がした。
アイザックの弱点が妹であることを知って、彼女を貶めればアイザックが傷つき、澄ました表情を歪めると証明された。それからはなんの根拠もなく、何かにつけて妹を貶める発言をしてきたのだ。
まさかその妹が彼女……一目で惹きつけられ、恋に落ちてしまったクラーラその人だったなんて。
あの時クラーラと視線を合わせた瞬間、彼女に好意を向けられたのが分かった。伊達に王子様然とした見た目をしていない。エイヴァルトが女性から惚れられるのは常で扱いにも慣れている。けれど今回は違った。なぜならエイヴァルトもクラーラに好意を持ってしまったから。
襲われている女性を助ける場面なんてよくあることだった。
助けるたびに惚れられるのが面倒なのもあって、常日頃は部下に役目を押し付けることが多かったのだが、違法薬物の大きな取引が行わわれる場を押さえるために隊員は散り散りになっていた。
そんな中で微かに聞こえた女性の悲鳴を無視することができず駆けつければ、二十歳そこそこの若い女性が攫われていた。
騒ぎになれば捕縛対象に逃げられるのは分かっていたが、見捨てることはできなかった。
アイザックに辛辣な態度をとるエイヴァルトだが、勤務態度は真面目で、他の人間には誠実に向き合う性格なのだ。
暴漢を伸して女性と顔を合わせた途端、紫色に輝くその瞳に囚われた。
ただの紫ではなく、虹彩には金や赤が濃淡となって入り混じっていた。
似た色はあっても同じではない。初めて目にする彼女だけの特別な色彩だ。
髪や衣服はぐしゃぐしゃで殴られたであろう頬は赤く腫れていたが、それすら彼女を彩る背景に過ぎないほど、とても美しく、可憐で愛らしい顔つきの女性。
何よりも惹きつけられるのは不思議な色に輝く紫の瞳だ。目が離せなくなり吸い込まれてしまう。
隊長という責任ある立場にいるのに、部下に全て任せて現場を離れた。彼女と離れたくなくて自ら手当てをして、アイザック不在の自宅まで送り届けてしまった。
自分がこんなふうに女性のことを思う日がくるなんて。
そのうち政略結婚させられるのだろうと思っていたが、彼女を知ってしまったらトリン侯爵家の利益のための結婚なんて受け入れられようはずがない。
どんなに想っても身分の差がある。エイヴァルトは三男だが、彼女に誠実であるなら諦めるか、家を捨てるかだ。
そんなエイヴァルトの葛藤にフランツは気づいているのだろう。「やれやれ」としょうもないものを相手にするかに、呆れた感じで面倒そうに息を吐いた。
「ま、落ち込むのはいいですけど。事件の報告してもいいですかね?」
「事件?」
「クラーラを襲ったアヒムのことですよ。使い物にならないなら隊長なしで進めますが?」
「すまない、報告を聞こう」
初めての気持ちに戸惑い絶望しつつも、気持ちが持っていかれて落ち着かないエイヴァルトだったが、クラーラを襲った相手のことなら寸分漏らさず報告を受けなくてはと、情けなく沈んでいた状態から瞬時に回復した。
「何か分かったか?」
「あいつ、俺たちが追ってる違法薬物を所持してました。使った痕跡はありません」
「売人ということか?」
「可能性大ですね」
フランツがアヒムから没収した、薬包紙に包まれた白い粉をテーブルに置いた。




