10止められない想い
頭を下げて、抱えている思いをアイザックに告白したエイヴァルトは、肉体維持のための夕食を済ませて寮に戻る。
一人での夕食は味を感じることができなかった。恐らく心因的なものと思われる。なぜならクラーラに会えた日は一人でもちゃんと味を感じられるからだ。
それでも侯爵家にいた時よりはましだろう。侯爵家では一人きりではなく一同でテーブルを囲んでいても、見た目だけは美しいそれはまるで砂を噛んでいるようだった。
明かりもつけずにブーツを脱いで寝台に寝転んだエイヴァルトは、大きなため息を吐き出すと腕で顔を覆った。
弱みを見せることは罪だ。隙を与えてこちらが痛い目をみるから。しかも相手はアイザック。心のままに告白することは、相当の痛みや屈辱を伴うと予想していたのに。
けれど開けてみれば、痛みや屈辱なんて感じなかった。それどころか、生まれて初めて自分の抱えていた弱みを告白したことでスッキリすらしている。
顔を覆っていた腕を持ち上げて自分の手を見つめた。
エイヴァルトにとっての最初の記憶は、家庭教師による手の甲への鞭打ちだ。
おそらく、三つか四つの頃だったと思う。
兄たちに比べて出来の悪かったエイヴァルトは、時間内に問題が解けずに罰を受けた。夕食の席で祖父が赤く腫れたエイヴァルトの手に気づいたとき、家庭教師を叱ってくれるのだろうと嬉しくなった。
けれどそんな期待は裏切られる。
乳母を呼びつけ話を聞いた祖父は翌日、もっと厳しくして結果を伴うように指導するよう、家庭教師に命じた。鞭打たれたエイヴァルトが部屋の隅で泣いていたと知って、「トリン侯爵家の人間としての誇りがないのか。恥をさらすな」と、弱みを見せることを禁じられた。
出来の悪いエイヴァルトを両親は難しい顔で見ていた。対して、できる兄や姉には笑顔を向ける。
エイヴァルトはその笑顔を自分にも向けて欲しくて必死に頑張ったが、いまだに祖父や両親の期待に応えることはできないままだ。
アイザックが、エイヴァルトの家族のような冷たい人間でないことをすでに知っていた。
エイヴァルトは自分の育った環境がごく一般的なものだと思っていたが、騎士団に所属して寮に入り、庶民と混じり合って暮らす中で、貴族と庶民の暮らしや考え方、感じ取り方の違いを学んだのだ。
それでも妹を蔑み貶した男の告白を、「なにを馬鹿な」と否定し、罵声を浴びせて拒絶するのだと思っていた。なぜならそうされて当たり前だったから。これで今後エイヴァルトはアイザックに対して優位に立てなくなる。そう分かっていても素直に告白したのは、クラーラという存在があったからだ。
そう、クラーラだ。
彼女のおかげなのか、自分が不利な状況に置かれているのに少しも悔しさを感じない。絶望もない。
祖父や両親をがっかりさせ、失望の眼差しを向けられることに恐怖もなかった。
それよりも、アイザックに弱さを見せることができたことに満足感がある。
「クラーラ。君はまるで陽だまりのようだな」
そう言葉にするだけで、エイヴァルトの脳裏にはクラーラの笑顔が鮮明に描き出された。
気持ちを隠さず、思惑もなく、ただひたすらエイヴァルトへの恋情を向けてくれる。
クラーラに会うことに躊躇しながらも足が向いてしまい、彼女の笑顔を見ただけで安らぎと幸福に包まれる。
この想いを告白しても彼女を幸せにしてやれない。毎夜自分の不甲斐なさに気持ちが沈み込む。これが最後、今回で終わり。そう心に誓っても気持ちが止められない日々が続いて、ついにアイザックが遠征から戻ってきた。
クラーラと出会って三週間。エイヴァルトは時間を見つけては彼女の様子を窺った。
遠くから姿を見るだけで嬉しく、温かい何かがこみ上げた。その視線がエイヴァルトを見つけて嬉しそうに破顔し、手を振ってくれた時の気持ちといったら、空でも飛べてしまいそうなほどに浮かれてしまう。駆け寄ってきた彼女に「変わりはないか?」と声をかけられる幸せに浸る日々。
そう、クラーラは、エイヴァルトがこれまで生きてきた中で、感じることがなかった幸せを与えてくれる女性になっていた。
彼女が好みそうな飾りのついたお菓子を渡した。女性に物を贈る行為は初めてで、評判の店に並んで買うのも初めてだった。
「とても素敵な公園があるんです。そこで一緒に食べませんか?」
誘われた時、「私はいらない。君に贈ったものだから」と言えなかった。
紫色の花弁を持つ花が咲き乱れたそこは、エイヴァルトも知る見慣れた公園なのに、クラーラがいるだけで初めて訪れる、とても素晴らしい景色に感じられた。
また一緒に過ごしたくて「警ら中にみつけたから」「勧められたから」と、なにかと理由をつけては様々な菓子を受け取ってもらった。
叶わない、叶えてはいけない想いに浸る様はなんと滑稽なのだろうか。それでもエイヴァルトは、生まれて初めての感情と安らぎを手放したくなかった。
けれどそれも今日まで。
気持ちを振り払うと誓った。この気持ちをなくしてみせると約束したのだ。
きっと簡単には無理だ。一度手にした時間を手放すのは並大抵のことではないだろう。彼女と出会ってすぐは、こんなにも強い気持ちになるなんて想像していなかった。