仮面の女2
ぼんやりと光が揺れていた。
蛍光灯の白い光が、天井を淡く染めていて、消毒液と機械の匂いがふわりと鼻をかすめた。
その病室の中央にはベットで横になっている母親がいた。その顔色は悪く、頬が少しこけて見える。点滴の針が刺さった細い腕を見ると、黒也の胸に鈍い痛みが広がった。
(これは……あの時の夢?)
この光景には覚えがある。中学三年生になったばかりの四月七日、それは母親が生きた最後の日。そして、黒也の家族が全員いなくなり、孤独になった日。
『黒也……こっちに……』
母親が小さく、かすれた声で呼びかけてくる。黒也は返事の代わりにそっと手を重ねていた。その手は冷たく、小さくなっていて──あまりにも儚かった。その光景を見て、胸が苦しくなっていく。ずっと、ずっと一人で育ててくれた母親が、もう少しで死んでしまうという事実は黒也にとって、とても辛いことだった。
これからはつらい現実が待っていることは分かっていた。今後頼ることが出来る大人はいないし、母親の病気を治すために勝手に借りた多額の借金も残っていて、そして何よりこれから一人になることがとても怖くて悲しい。でも、母親のことを心配させたくなくて、黒也はその気持ちを必死に耐えながら、言葉を伝えた。
『お母さん、僕は大丈夫だよ。これからも生きていけるから……心配しないで』
その言葉に、母親はかすかに目を細めた。涙か微笑か、それともその両方だったのか──黒也にはもう、わからなかった。
幾何の沈黙が二人の間に横たわった。伝えるべき言葉はもう伝え終わったはず。けれど、何かを残しておかなければならない、そんな確信だけが心に灯っていた。
母はゆっくりとまぶたを開けた。光の加減か、それとも本当にそうだったのか、その瞳は潤んでいるように見えた。
『ごめんね……でも……まだひとりじゃない……きっと……空が見守っているよ』
その言葉の意味は、今でもまだ分かっていない。こんな時に言った言葉なのだから、何かを伝えようとしていたのだろうが、それを理解することは出来なかった。
でも、その言葉のおかげで少し苦しさが和らいでいた。もしかしたら、このことが目的だったのかもしれない。
『ありがとう……お母さんの子供で本当に良かった』
母は小さく微笑んだ。そして、それきり言葉はなかった。時計の針が静かにひとつ進んだとき、彼女の手から、わずかな温もりが抜けていった。
*
目蓋の裏に、淡い光がにじむ。それは蛍光灯の冷たさではない。もっと柔らかくて、揺らぎをもった光。
「うっ……」
重い目蓋を開くと、そこには視界全体を覆う雲一つない青空があった。一体ここは何処なんだ。気を失う前は建物に覆われていて、空なんて少ししかなかったはずなのに。
「あっ、末那さんは?」
辺りを見渡すとすぐ横に末那が眠っていた。その表情は少しも苦しんでいるようには見えず、むしろ気持ちよく眠っているようにも見える。
「それにしても、ここは何処なんだろう?」
今いるところは何処かのマンションの屋上のように見えて、強い風が黒也の身体を叩きつけてくる。意識を失う前は路地裏にいたはずなのに、何でこんな所で目を覚ますことになったのだろうか。
「あれれ?もう起きたんだ?もっと寝てても良かったのにー」
ぞくっ
背後から今まで感じたことがないような悪寒がした。金剛と相対した時の生命の危機のような悪寒とは違う、何かドロッとした悪寒、その原因になり得る人物は一人しか心当たりがない。
「ティア……」
「せいかーい、ワタシのことを覚えてくれていたんだ?本当に嬉しいよー」
ティアは軽やかに笑いながら、くるりとその場でひと回りした。仮面越しにもわかるほど、彼女の全身が“喜び”で満たされているようだった。けれど、黒也はその仕草に安堵よりも不気味さを覚えた。
何故なら、彼女がまるで舞台の上で台詞をなぞっているように見えたからであり、何かを演じているようで、掴みどころが無い。
ティアの目的が分からないため。黒也はいつでも逃げることが出来るように急いで術式を組んでいく。このような人物は前世を含めても会ったことが無く、どのように相対するべきか分からない。
「あっ、待って待って、逃げようとしないでよ。君の力を使われると、追いかけるのが大変なんだよー」
「ッ!」
何故、何故魔術のことも知っている?名前を知っていることでさえおかしいことなのに、今日使えるようになった魔術のことはどうやって知ったんだ?
「こわーい、そんな目でワタシを睨まないで」
「何故か僕たちのことを知ってる得体のしれない相手を、警戒しないわけないじゃないですか」
「確かに、それもそうだね。どうしたら警戒を解いてくれる?」
「僕たちのことを知ってる理由と、ここに連れてきた目的を教えてください。その内容次第で警戒を解きます」
ティアは立ち止まったまま、しばらく無言だった。仮面の下にあるはずの視線が、空気の中で黒也をまっすぐ射抜いている――そんな錯覚すら覚える沈黙。
やがて、彼女は肩をすくめて言った。
「ま、いっか。本当ならここからワタシの目的を当てるゲームをしようとでも思っていたけど、その調子だと楽しくなることは無さそうだからね。いいよ、教えてあげる。ワタシはね、楽しいことが起きてほしいんだよ。そのためにならどんなことだってする。さっきの君たちの状況ならどう頑張っても三賢サンが勝つ、そんなのつまらないじゃないよね?だからワタシはちょっと介入をして状況をかき乱したんだ。これで納得してくれた?」
つまり……僕たちをあの状況から助けようとしてくれたのか?いや、信用してはいけない。楽しいことが起きてほしいという言葉を信じるのなら、今度は僕たちに害を成す行動をしてくるかもしれない。
そのため、黒也はまだ警戒を解かずにティアのことを睨みつけていた。ティアはその視線をじっと受け止めていて、仮面越しでわかるほど、彼女は笑っている。
「ハハッ、まだ信じてもらえないんだ。ワタシって人望無いのかなー?」
当たり前だ。こんな奴が人から信頼されることなんて、天地がひっくり返ってもあり得ない。
そうして、一定の距離を保ち、警戒を続けていると、末那がうめき声を上げて目を覚ました。末那は目を覚ますとすぐに辺りを見渡し、ティアがいることに気が付くと、驚いて後ろに飛び跳ねた。
「えっ、どういう状況⁉」
黒也は末那に声をかけようとした瞬間、ティアが一歩後ろに下がった。その行動の真意は分かっていないが“どうぞ?”と促すような雰囲気が伝わってきた。
それを見て黒也は一瞬だけ目を細めて少しだけ頷いた。そして、ようやく末那の方に顔を向けた。
「あの時にティアに意識を失わされて、この場所に連れ去られたんだ。目的は……僕には到底理解できない」
「酷いよー、ワタシはしっかり説明したんだよ。こうした方が楽しくなるからって」
「何を言ってるの?あの人は」
「…………さぁ?」
ティアの言い分は末那にも理解できなかったようだ。
とは言え、決して状況が好転したわけでもない。今だティアがこれからどう動くのかも分からず、それにこれからどうするかも決まっていない。こんな状況で安心することは出来なかった。
「ティア、良く分からなかったけど、楽しいことのために動いているんだよね?」
「うん。そうだよー」
「それならこれからどう動くんだ?」
ティアは問いかけを受けて、ほんの少しだけ顎に指を添えた。考えているように見えたが、それはおそらく“考えている仕草”にすぎなかった。おそらく、これからどう動くのかは決めていたのだろうが、あえてはぐらかすことでこの場を楽しんでいるのだろう。
「これからどう動く、か。黒也クンはどう動いてほしいのー?その内容次第で従っても別に構わないよー」
だから、これは最後のチャンスなのだろう。今、ティアにとって楽しいことを提案できなければ、この人物は僕たちの邪魔をするのかもしれない。それも、ここしかないというタイミングで。
呼吸が浅くなるのを感じた。まるで肺の中の空気が急に薄くなったかのように、胸の奥に冷たい石を詰め込まれたような圧迫感があった。
ティアの問いかけ自体は軽い。柔らかい声音で、ふざけたようにすら聞こえる。だけど、仮面の奥から注がれる視線は別だ。睨まれているわけではないのに、全身が見透かされているような感覚――その正体不明のプレッシャーが、黒也の背筋をじっと濡らしていく。
(考えろ、僕の持つ全てを使って、この人物の心の底から楽しませることを提案しろ)
だから、黒也は奥歯を噛みしめ、たった一つのカードを切った。
「僕は――前世の記憶があるんだ」
「……へぇ」
ティアの放った言葉は一つだけだったが、纏う空気が変わっていた。今までの、どこか軽薄で何事にも真剣に向き合っていなさそうな雰囲気とは違う、どこか重く、威圧感を感じる雰囲気を纏っていた。
手に汗がにじんでいる。これからの言葉次第では、今後の運命が大きく変わる。そう、直観が告げていた。
「その理由は分からない――けれど、今後その理由が分かるような大きな出来事が起きていく予感がするんだ。だから、時間が欲しい、この世界が裏がえるような大きい出来事が起こるまで」
数秒の沈黙、ティアは何かを考えるように黙り込み、やが腹を抱えて笑った。さっきまでの重く、威圧感がある雰囲気は霧散し、最初の軽薄そうな雰囲気に戻っている。
「ハハハッ、そうか、そう来るんだ!それはワタシでも予想出来なかったよ!いいよー、手伝ってあげる。そっちの方が――楽しそうだからね」
「ええっ、黒也、正気なの?こんな人物を信用していいの?」
ティアに協力を仰ぐことに対して、かなり狼狽えていた。まぁ、そうなってしまうことは仕方がない…誰だってこんな人物と協力したくない。だけど……
「……邪魔されるよりかはマシだから」
「……そうだね」
協力してもらう理由はそれしかない。味方にいても、対して信用できないくせに、敵や第三者になれば多大な被害を与えてくるなんて、本当にめんどくさい。
こんな会話を末那としている間も、ティアはずっと腹を抱えて笑っていて、本当に関わってはいけない人のたぐいだと理解する……前からわかっていたことだけど。
「それで、ワタシはどうしたらいいのー?」
数分くらい経って、やっと笑い終わったティアが、今後の方針を聞いてくる。何でこんなに笑っていたのだろうか?疲れないのかな?
「三賢さん達はどうしたんですか?それにどうやって僕たちを気絶させたんですか?」
「あの人たちはそのまま放っておいたけど?後、気絶させることが出来たのは睡眠ガスを周りに撒いたからだよー」
ガスを周りに巻いていた?あの時、ティアはそんなことをしている様子は一切なかったのに、どうやってそんなことをしていたんだ?
「ねぇ、末那はティアがガスを撒いていたことに気づいた?」
「ううん、全く気づかなかった。本当にそんなことをしていたの?」
やはり末那も気づいていなかった。ティアは本当のことを言っているのか?二人して気づかないことなんてあるのだろうか?
すると、二人が全く信じていないことに気が付いたのか、ティアは少し焦った様子で説明し始めた。
「本当だよ!ほら、これ、ガス缶。ワタシは手品が得意だから、誰にも気づかれずにこういうことができるんだ」
そう言って、ティアは急にガス缶を取り出した。黒也にはガス缶を取り出した過程が一切見えず、手品が得意ということは本当のことのように思えた。
そうして、黒也が感心していると、末那が呆れたようにため息を吐いていた。
「はぁ、騙されないで。どう考えてもその程度の大きさで、あそこにいた全員を眠らせることは出来ないでしょ」
「……」
ティアが協力するってことになった後も騙そうとしてきたことに腹が立ち、ティアの方を睨みつける。そこにはまた腹を抱えて笑い転げているティアの姿があり、それがさらに神経を逆なでする。どうしたら、そこまで他人を怒らすことが出来るのだろうか。
「……やっぱし、この人に協力を仰いだのは間違いだったのかな」
「うん、そうだよ」
「ごめんって、あまりにもいい反応をするから、本当に面白くて笑ってしまったんだよー」
ティアは笑いを残すように肩を震わせながら、仮面の口元に指を添えた。だけど、その“謝罪”の声音には、悪びれる色は一滴も含まれていなくて、そのこともさらに苛立たせて来る要因の一つだった。
だけど、黒也は相手をするだけ楽しませるだけだと思い、その怒りをぐっとこらえた。その行動は正解だったようで、ティアは黒也が何も反応しないとわかると、ため息を吐いて首を横に振っていた。
「ふーん……つまんないの」
「つまんないって……実際にどうやってあの時気絶させてきたの?」
「ひみつー」
その言葉に黒也と末那は目を合わせ、同時にため息を吐いていた。この時の心は一つになっていたのかもしれない。この人物と真剣に話そうとしても無駄なだけだ、と。
「秘密って……もういいや。ティアを戦力として数えていいの?」
「いいよー」
「それなら……三賢さんのことを抑えてほしい」
「別にいいけど、三賢でいいの?金剛とか、他にも警戒するべき人物はいると思うけどー」
確かに警戒するべき人物は三賢さん以外にもたくさんいる。だけど、絶対に抑えてほしいのは三賢さんだ。あの人は先ほど対面した時は、三賢さんにも時間が無くてとれる手段も限られていたが、今はかなりの時間が与えられているため、どんな手を使ってくるのか分からない。それに、ティアはあの人の最も苦手とするタイプだと思うので、そういう意味でもちょうどよい。
「分かったよ。でも、その間君たちはどうするの?」
「それは……」
「組長と会います」
横から末那が割り込んできた。その言葉には重みと決意がしっかりと宿っていて、どれだけの覚悟をしてこの提案をしてきたのか理解できる。
その言葉にティアの首が、かすかに傾いき、薄く笑っていた。それは興味を引かれた時の仕草だった。
「本当にいいの?阿頼耶おじさんと会うだなんて、どうなっても知らないよ?」
「大丈夫です。貴方になら、その理由は分かるでしょう?」
「まぁ、そうだねー。確かにその方法だと成功するよ、無事に合うことが出来れば、ね」
黒也はその話についていけなかった。ティアと末那には二人しか知らないような隠し事があり、それを予想することすらできなかった。一体、それは何なのだろうか?
「それじゃあワタシはさっさと行ってくるよ」
置いてきぼりにされている黒也をよそに、ティアは向かうべき場所へ歩き始めた。その足取りはとても軽く、今から戦いに行こうとしている人には到底見えない。
「怪我しないでくださいね」
「あれれ?黒也クンは心配してくれるんだ、優しいね。じゃあ、ワタシからも、二人ともすべてが終わったら、また会おうね」
ティアは狐の仮面少し傾けて、空のような青色の瞳を見せつけながらそう言っていた。彼女が見せた“青い瞳”に、黒也は奇妙な違和感を覚えた。澄みきった空のような色。どこまでも透明で、どこまでも遠くて。なのに、その奥底に“何か”が蠢いている。
そして、黒也たちがその行動に驚いている隙に、マンションの屋上から飛び降りて、消えていった。
そばにいる時は嵐のように場をかき回し、別れる時は静かに、一瞬で消えていく。しかも、どこか不安の種のような物を残して行く。それが、ティアという存在だった。
「本当に、何なんだろう?あの人は」
「わたしにも分からないよ、つかみどころが無くて、本心が全く分からない。それに……たくさんのことを知っている。謎だらけで、本当によく分からない人」
風が吹き抜ける屋上でしばし沈黙が続いた。ティアの気配は、もうとっくに消えている。
「……行こうか」
黒也が静かにそう言うと、末那は無言でうなずいていた。
二人はティアとは違い、マンションの階段を降りて、ゆっくりと歩き出す。
「本当にありがとう、末那さんがいなかったら今頃……」
「感謝の言葉はまだ禁止、最後にわたしと黒也くん、ついでにティアが無事だったら、その時にその言葉を言って」
「……うん、分かったよ」
僕は、この感謝の言葉を伝えたいな、と心の底から願っていた。
ティアがガス缶を持っていた理由は今回のように他人を為であり、中には何一つ入っていません。
ティア「あー面白かった。黒也クンっていい反応するね」