第9話
サルバトーレ・ダリ
(1904年~1989年没)
スペインで生まれたシュールレアリスムの代表的な画家。
自らを『天才』と称し、数々の奇行を繰り返したことでも知られる。
奇抜な世界を描くその裏では、『贋作王』『パラノイア』『ナルシスト』『狂人』との批判も浴び、賛否両論される画家でもあるが、緻密な計算をされたデッサンは、とても評価が高いものであった。
また、その生涯を愛する妻ガラに捧げ、数々ガラの絵を描いたことでも有名である。
代表作品
記憶の固執 車の残骸
ガラの晩鐘 レダ・アトミカ
◇
サルバトーレ・ダリ。
亮太が目標とし、敬愛する画家である。
シュールレアリスム。
あの独特な異世界に引き込まれたのは、奇しくも亮太が母を亡くした直後である。
大切な母を亡くし、混沌と空っぽの狭間をさ迷う亮太をダリへと導いたのは、父の妹である美智子叔母さんだった。
美智子叔母さんに連れられて、生まれて初めて美術館へ行き、そこでダリの『記憶の固執』を見た時、亮太の脳に、身体に言いようのない衝撃が走った。
不思議な色の景色に木の枝にぶらさがるようにぐにゃりと溶けた懐中時計…。 横たわる『顔』のようなもの。
この世にあるはずのないどこか不気味な世界感。
でも、何故だかこの絵を見て、亮太は自らの中の混沌とした世界は、実はこんな感じではないだろうかと感じたのだ。
当時、美術や絵の意味は全く知らなかった亮太の心にそれは強く、強く響いたのであった。
ダリの絵に触れ、自らの混沌とした気持ちを僅かでも吐き出してしまいたくて始めた絵画だったが、いつしかそれは、自らを強く支える大切なものになった。
絵を描いている時は、虚無感がなくなるのを嬉しく感じた。
しかし、だからとて、決してそれに逃げこむような現実逃避はしないのが亮太の強さであり、また弱さでもあり…。
父子だけの不慣れな生活に、近隣の優しい大人や友人にしっかりと支えられたが、元々父親譲りの負けん気や、甘えることが不得意な性格もあってか、家事仕事は全て自分で行った。
そして、いつしか甘えることを嫌い、家事は自らの得意分野とした。
いつも物事を第三者的に考え、冷静すぎるくらいに見極め考える。
曲がったことは嫌い。
一本気だが、どこか人情家で昔かたぎな奴。
偏屈ジイサンのような性格。それが亀井亮太という人間である。
◇
亮太は、ふすま一枚隔てた隣の部屋、アトリエ部屋で書きかけのキャンバスをじっと見つめている。
(何かしっくりこない…)なにやら小さく唸り声をもあげているようだ。
亮太が今回コンクールに向けて挑戦する題材は、
『広くもなく浅い関係』
と題したシュールな作品。
狭く浅い人間関係が溢れる現代を風刺する意味合いを込めて描いてみたものの……
でも……何か違う…。
色あいだろうか?
人物や背景の位置だろうか…?
亮太は絵から感じる違和感を考察するが、その違和感が何なのかが解らないのである。
「………」
とりあえず無言で筆を進めてはみるが、どうも違和感が増すばかりで、すぐに絵筆が止まってしまうのだ。
迷走する亮太の隣の部屋では、全然別の意味での迷走中(?)な二人の会話が。
「え~と、夕闇のライオンは…」
なぎとはのぞみのスケッチブックに絵を描く。
夕暮れのスーパーからの帰り道の、あの話の挿絵を描いているらしい。
さらさらと軽いタッチで水性ペンを走らせるなぎと。
なぎとは元々ポップなキャラクターものを得意とする。
その色使いは実にカラフルで、見るものの心を浮きたたせるようなファンタスティックなキャラクターを描くのが大好きだ。
(ねずみが歌い踊るファンタジーランドが大好きだからね♪)
「できた♪こんなイメージかなぁ~?」
なぎとはのぞみに絵を見せる。
「……う~~ん…とてもかわいいライオンさんですねぇ~…」
のぞみは絵をじっと見つめて唸る。
「でもぉ、残念ですが、私のイメージとはちょっと違うかもですぅ…。このライオンさんはまるで踊り出しそうなほどの明るいイメージが強すぎますねぇ…」
「あはっ、やっぱりぃ?」
なぎとはあっさりと言い放ち笑う。
「話のイメージ的にはさぁ、やっぱり絵画チックなもの、俺は水彩画が似合うと思うなぁ。俺、水彩画ってあんまり得意じゃないんだよねぇ」
なぎとはのぞみのノートを読んで感想を述べる。
「質感がちょっと暗いし、話の内容がちょっとだけ寂しいから、うーん、画家で例えるなら、明るい感じだけどしっかりとした空気をもつマネとか、幻想的な感じを強くしたいなら、シャガール辺りも捨て難いかな~と思うんだけど…」
決して数多くはないが自らが知る画家を模索していくなぎと。
「亮太君はどんな絵を描くのでしょうかねぇ?」
のぞみはふとなぎとに尋ねた。
「あ~、あいつはダリが好きだからね。シュールレアリスムの人」
「ダリ…ってだり(誰)でしょう?」
首を傾げニッコリ。
「さあ?だり(誰)でしょ~ねぇ~?」
くだらないだじゃれを言い合い、二人で顔を見合せてクスクス笑う。どうやら笑いのハードルは極めて低いらしい。
「ま、亮太って、変わった絵を描く奴だよ。すっげえ上手いんだけど暗いし、世界感が独特で見た感じ不気味かもね」
明るい画風が好きななぎとにはシュールレアリスムはちと難解なのである。
「へぇ~…不気味な絵ですか…」
シュールレアリスムが全く理解できていないか、なんとなく頷くのぞみ。
「ちょっと覗いてみる?」 なぎとは、ふすまを指さしのぞみにたずねる。
「見てみたいです。あ、でもぉ…、邪魔しちゃダメだし…」
ママ(亮太)は怒ると怖いし…とのぞみは苦笑いしてつぶやいた。
「いやいや、静かにしてりゃ大丈夫だよ。あ、もちろん話かけちゃダメだよぉ~」
「は~い、わかりましたぁ♪」
なぎとの言い付けに、のぞみは手を軽くあげて、小さな声で返事をした。
二人が談笑するふすまの向こう側の亮太は完全に迷走中である。
あまりに進まない為に、気分をリフレッシュしようと小さなカンヴァスに新しく絵を描いている。
(どうもなんか、夢食いの変な世界感が頭にこびりついて離れないんだよな…。描いてしまえば、多分頭から追い出せるだろう)
亮太が筆を走らせたのは、夕刻の帰り道にのぞみがつぶやいたあの絵本の片鱗だった。
『ゆうやみに続く長い影を見つめて、王様ライオンはひとりぼっちで泣いていました。
ライオンはほんとは王様になんかなりたくなかったのです。
ライオンは………』
(一体何になりたかったんだ?)
そんな事を考えながら、日が沈みゆくサバンナで、自分の影を見つめ涙するライオンをアクリル絵の具で描いてゆく。
雄々しい百獣の王ライオン。
あの金のたてがみを風になびかせる、威風堂々としたイメージではなく、それはどこか脆弱で頼りなさ気なしみったれたライオンであった。
風に揺れるように見えるたてがみは何だか痛々しく、悲壮感が漂っている。
「はぁぁ~…なんか余計に気持ちが重くなってきた」 亮太は、書き上げた絵を見つめて深いため息までつき始めた。
「なぎちゃん…、」
ふすまを10センチほど開けて、隙間からそっと亮太を見つめるのぞみが、なぎとの名前を呼んだ後、ぽつりと小さくつぶやく。
「運命の人です……」
「へ???」
なんとも間の抜けた声を発したなぎとに、
「これは、奇跡ですよ。
こんな近くに…運命の画家さんがいるなんて…」
うるうると見つめるのぞみの瞳には…。
美しい夕暮れに孤独なライオンが歩く亮太の絵。
「マジですか…?」
思わず目を見開きつぶやくなぎとの視線も、ライオンの絵に釘付けになっている。
奇しくも、のぞみが思い描いた絵本の挿し絵のイメージと、亮太の息抜きに描いた絵とがものの見事に重なってしまったのだ。
ここは敢えて再度述べておこう。
亮太の本来ライオンの絵は、ほんとの亮太の絵ではありませんよ……。
(なんて、お手軽なタイミング…。でも亮太を口説くのはさ、ちょっと無理だよ~…)
なぎとが苦笑いするしかなかったのは言うまでもないだろう……。