兄の死とその遺書
俺は茫然としながら兄の屋敷で休息して、任地に戻ったが、あれほど愛を誓ってくれたグレースの変心がどうしても信じられない。
きっと親の伯爵夫妻に命じられて、いやいや兄に近づいたに違いない。
心の傷を軽くするため、俺はそう思い込もうとした。
しばらくすると兄から結婚式の招待が届く。
俺はグレースが兄との結婚を嫌がって、俺に助けを求めるのではないか、そうであれば連れて逃げ出す覚悟で式に向かった。
結婚式は王は参加しなかったが、王宮の高官が勢揃いし、これまでに見たことがないほど豪華に華やかに行われた。
その中で俺はグレースの様子をひたすら注視していた。
式では、俺の希望に反して、彼女はこれまでに見たことがないほど輝くような笑顔を振りまいており、俺の方には一瞥もくれなかった。
兄はグレースの横で笑顔でいたが、兄を見慣れた俺にはその笑みは表面に貼り付けたものだとわかった。
兄はちらりと俺の方を見て、苦笑してみせた。
おそらくはグレースのはしゃぎぶりを見て、彼女の本性を察しろという意味だろう。
結婚式で親族席で隣りに座っていた妹達は、ここまでの経緯を知っており、グレースにはもちろん、兄に対しても憤慨し、俺に同情してくれた。
「あの女はクズよ。
あんな女に引っかからなくて良かったわ。
でもルーク兄さんもフィル兄さんのためとは言え、酷いやり方ね。
家族を大事にする兄さんだと思っていたのに見損なったわ」
「フィル兄さん、私がもっといい娘を探してあげる。
気を落とさないで」
妹達の慰めも耳を素通りし、俺は任地に戻った。
愛する女にも、誰よりも心通っていると思った兄にも裏切られた思いは俺を打ちのめした。
そんな中、隣国との国境紛争が拡大し、敵の大軍が押し寄せてきているとの一報が来る。
ちょうど死ぬのにいい機会だ。
そう思いながら俺は軍を率いて出陣する。
国境に到着すると、敵軍はこちらの倍の兵数で味方の城を包囲していた。
「おそらくあの城を落とせば敵軍もメンツが立ち引き上げていくでしょう。
こちらは半数。
申し訳ないが、あの城には犠牲になってもらいましょう」
副官が進言する。
軍事的にはもっともな意見だ。
俺はそれに頷くが、内心ではどこかで一人で突撃して死のうと思っていた。
敵軍と対峙しながら城が攻められるのを見守っていると、敵軍もそれを落とし所と考えているのか、こちらへの攻めてくる気配はない。
ある晩、オレは散歩がてら敵情を見てくると断り、天幕を出る。
外に出ると隠してあった鎧甲や武器装備を着用し、そのまま一人、敵軍に突っ込んでいく。
この胸の鬱憤を晴らすために敵兵を斬って斬りまくり、自分も膾のように切り刻まれて死ぬつもりであった。
走り出す俺の背後で、
「将軍が夜襲に出撃された。全軍、後を追え。
将軍に遅れを取るな!」
副官の声が響く。
(誰がそんなことを頼んだ、犬死にするのは一人で十分だ!)
俺は心で叫びながら、敵の哨戒兵を一刀両断する。
更に慌てて飛び出してくる敵兵を斬りまくる俺の耳に後ろから配下の兵の雄叫びが聞こえる。
「うぉー!
フィル将軍、今参ります!」
静かな夜の闇に響き渡る突然の咆哮。
それを聞いた前方の敵軍の狼狽は激しく、慌てふためき武装もせずに向かってくる者、後方に逃げ出そうとする者など混乱の極みに陥る。
俺はその間を縫って一番豪華な天幕に走る。
敵の総指揮官がいるところならば警護も厳重で俺を斬ってくれるだろうと思ったのだ。
「将軍は敵の指揮官を討ちに向かわれた。
後に続け!」
またしても副官の怒鳴り声が後ろから聞こえる。
それを聞いた敵の総指揮官らしい男は天幕から出て、転びながら馬に乗って逃げ去っていく。
「敵の指揮官は逃亡した。
我軍の勝利だ!」
周囲の兵が囃し立て、敵兵は背中を向けて一目散に逃げ出す。
俺は知らないうちに大勝利を得たらしい。
その後、王都に呼ばれて凱旋式を行い、王族か大貴族の長老しか例のない元帥に任じられる。
兄がその権力を存分にふるい、異例の人事を強行したようだ。
我が国の軍の最高幹部だが、俺の気持ちは晴れない。
王都駐在になったのをいいことに毎日昼は訓練と仕事、夜は酒と女に溺れる日々を過ごす。
兄は心配そうに話しかけてくるが、俺は笑顔で心配はいらないと告げる。
兄は俺のことを思ってくれているのだろうが、その思いが今の俺には煩わしかった。
その一方、兄は何を思ったか、それまでろくに口を利いたこともない王との仲をとりもち、何度も席をともにする宴を開催した。
王は俺の溺れるような遊び方を見て野心はないと安堵したのか、世話好きの爺さんのように、夜の遊び方や遊び場所を教えてくれる。
話してみれば気の良い好々爺のようだが、その裏にある少年への加虐者の一面は忘れることができない。
そして、王は少年を好む貴族やその夫人、子女を招き、自らが作った美少年組、通称、爾弥仁伊豆に接待させ、支持基盤を固めていると聞く。
俺は王との付き合いを愛想よく、しかし深入りすることのないように気をつけた。
そんな風に、軍務以外は遊び呆けていた俺がある晩いつものように遊び疲れて帰ってくると、急な使いがやってきた。
兄が王宮で死んだという。
慌てて王宮に向かうと、兄の遺体に取り縋って王が号泣していた。
その姿は愛妻の亡骸に向かう老いた夫そのものであった。
しかし、激務に疲れ気味とは言え特に病気でも無かった兄が急死とは。
俺は部下に命じ、王宮の奥を取り仕切る中奥取締役を攫い、何があったのかを厳しく尋問した。
なかなか口を割らない奴に、最後は妻子を嬲り殺しにすると脅しをかけて、ようやく答えを得る。
王は高齢と荒淫で衰えた精力を補うために強壮剤や媚薬を摂取していたが、それを自分の相手にも与え、刺激を高めていた。
その日、兄に渡された薬物の量が誤っていて、そのために心臓発作が起こったという。
「兄に渡した者は誰だ?」
「それがわかりません。
王も厳しく詮議を命じられているのですが」
俺は無言で男の小指をへし折った。
「ギャー、話すからやめてくれ!
王姉殿下の指示だ。
王亡き後のルーク殿の権力とフィル殿の武力を恐れられ、ルーク殿の毒殺を命じられた」
「関係者は誰だ!」
「王姉殿下とその側近、王の側用人、王宮や軍の有力者などです。
王姉殿下からは厳しく口止めされています」
王姉とは王に次ぐ権力者であり、その娘を王太女にして陰の女王と言われている。
俺は男の話を聞くと、その男の首を刎ねた。
「これを山に埋めて来い」
部下に命じた後、瞑目して、すぐに剣を抜いて奴らを殺しに行きたいという憤怒の気持ちを抑える。
(一人残らず殺してやる!)
亡くなったあとに兄への思い出が蘇る。
葬儀も済んだあと、兄の家の執事がやって来て、遺言状と俺への遺書を渡していく。
遺言状では、子のいない兄の跡取りに俺が指名され、候爵の地位や膨大な遺産が残される。
その他に妹達にもそれに準じた遺産が渡されるが、妻のグレースについては何も言及が無かった。
兄の遺書を読んでみると、その気持がわかった。
『愛するフィル。
これを読んでいるということは僕は何らかの形で死んだのだろう。
最近心臓の調子が悪い。王宮での薬物が原因かもしれない。
王の寵を失って暗に死を賜ったか、王宮の同輩の妬みか、いずれにしてもろくな死に方ではあるまいが、穢れた自分には相応しかろう。
僕の地位も財産もお前に残していく。
好きなように使うがいい。
王はお前を使いやすい家臣だと甘く見ているようだ。すぐに失脚することはないだろう。
その間に身の振り方を考えるがいい。
グレースの件は済まなかったな。
お前にふさわしい女か試したのだが、同時にお前の女を奪えば僕の不能も治るかという歪んだ思いもあった。
そう、王に犯されて以来、僕は女を抱けない、不能になった。
だから妻も娶らなったのだが、家族愛の延長でお前の女ならば抱けるかもしれない、そんな希望を持った。
結果はもちろん無惨なものだ。
僕に身体も心も愛されることはないと知ったグレースは泣き喚き、呪い、僕の女への幻想を最後のひと粒まで壊してくれた。
ああ、もう書くこともない。
天国か地獄かで母が待っていてくれるだろう。
フィルよ、僕を弔うつもりがあればこんな目に遭う惨めな少年をなくしておくれ。
さようなら
お前の兄ルークより愛を込めて』
俺は読み終わると涙が止まらなかった。
やはりあの王が元凶だ。
そしてそれに与した奴らも殺してやる。
俺は亡き兄に誓いを立て、王の被害者を密かに集めるとともに、スキャンダルの暴露で有名な週刊シュンブンの記者に連絡を取った。