透明人間
稲倉には最初、無視される理由が分からなかった。
入社二年目の後輩にまで無視されたところで、あることに思いが至る。
占の館でのできごと。そして、パウロ柏原伝蔵。
稲倉は確信を持った。
稲倉は軽くため息をつくと、近くのデスクで携帯をいじっていた後輩の百瀬七海に笑いかけた。
目は合った。
合ったはずなのに、百瀬の目は、ふわりと宙をさまよい、再びデスクに戻った。
「百瀬ちゃんエラいじゃん。今日から九時じゃなくてもいいのに」
百瀬は何も答えず、パソコン仕事を始めた。
「こんな早くから何作ってんの、会議資料?」
それでも反応しない百瀬に、稲倉の感情は沸々とたぎる。
百瀬七海は入社二年目だ。先輩に傍らで話しかけられたら起立するのが礼儀だ。それを。
「ねえ聞いてる?」
百瀬はパソコンに向かったまま、表情ひとつ変えなかった。
そんなはずはない。
急に耳が悪くなったのか……。
稲倉は、試しに百瀬のデスクを指先でとんとんと叩いてみた。
百瀬は気配を感じたのか、一瞬、音の方を向くが、すぐにまた自分の世界に戻っていく。
もしかしたら……。
記憶の闇に稲妻が走った。
光ったところが紙のように薄い亀裂になった。亀裂は瞬く間に縦横に走り、闇は大きな響みと共に決壊した。
失われていた記憶が怒濤の勢いで流れ込んできた。その勢いと重さに、稲倉は頭を抱えてしゃがみ込む。
占いの館。
預言。
握りしめた一万円札。
金の杯、そのくすみ。
折れた蝋燭。
そしてパウロ柏原伝蔵!
そうだ、念すれば叶う。その言葉にわたしは透明人間になりたい、たしかそう言った。
その願いが叶ったというのか! 今、わたしは誰からも見えていないのか。
いや、そんなはずはない。
それでは辻褄が合わない。
自分は自転車に乗ってきたのだ。誰も乗っていない自転車がひとりでに走っていたら誰だっておかしいと思う。
それに服。
そうだ。透明人間が人前で姿を消すには全裸になる必要があったはず。
稲倉は自分の服に触れた。
やっぱり違う。透明になんてなっているはずがない。
そう思いながらも、稲倉は小学生のときに読んだSF小説を思い出していた。
そこにはこう書いてあった。
[透明作用の効き目は肌に触れているものすべての物体に及ぶ]
稲倉は、その前提をもとに、ここまでの行動を検証した。
自転車のハンドルは素手で握っていた。手のひらから伝わる透明作用がすべてに及べば、自転車が見えなくてもおかしくない。
服もどこかで肌と触れている。バッグのショルダーストラップも首に掛かっている。
靴は?
足下を見て、稲倉は思い出した。
今日はストッキングを履いていない。つま先だけの靴下でスニーカーを履いてきたから踵が靴に触れている。
声はどうなのだろう。
浅野も百瀬も問いかけに反応しなかった。
もしかしたら透明の肉体が触れた空気は、音になれないのではないか。
すべてに説明がつくと動悸が激しくなり、呼吸は震え、額には汗が浮かんだ。
どうしよう。
もしかすると、完全な自由を手に入れたのかもしれない。
姿なき存在。
これならすべてを支配することだって不可能じゃない。
……いや。
まだだ。もう少し確かめる必要がある。
稲倉は勇気を出して言ってみた。
「百瀬! てめえさっきから生意気なんだよ。聞いてんのか」
百瀬はぴくりとも反応しなかった。
間違いない。
両腕に鳥肌が立った。
口が乾いた。
稲倉は、百瀬のデスクにあったペットボトルのカフェラテを手に取ると、キャップを開けてふた口飲んだ。
百瀬は気づいていない。しかし、見ていたらどう見えただろう。
稲倉がペットボトルに触れた瞬間、ボトルは消える。そしてしばらくすると、少し減った状態で再び現れる。
一部始終を見ていたら、腰が抜けたかもしれない。
そう思うと愉快になった。
愉快になった勢いで、いたずら心が芽生えた。
稲倉は、百瀬が相変わらずパソコン仕事に集中しているのを確認すると、デスクのペットボトルに手を添え、ゆっくりとキャップを捻って開けた。そしてにやりと笑うとノートパソコンに向かってポンっと倒した。
百瀬は「ぎゃ」と短く発すると動転し「ちょっと何これ!」と叫び、ティッシュを大量に抜いてキーボードを拭き始めた。
周りの仲間がデスクに駆け寄り「何やってんのよ」と収拾を手伝う。
「ああ、やだもう信じらんない。スカートもびちゃびちゃ」
百瀬がそう嘆くあいだも、キーボードに吸い込まれたコーヒーは確実に内部を浸食していた。
ディスプレイの文字が次々に化け、激しく明滅した。そして一本の白い横線が中央に現れたと思ったらその直後にまぶしく光り、断末魔の電子音を発すると、画面は真っ暗になった。
「ああああ、もう、パソコン死んだし!」
百瀬は椅子の背もたれに勢いよく身体を預け、降伏して両手を上げた。
稲倉は満足した。
こいつ、二年目のくせに生意気だ。
稲倉は、フロアを睥睨すると、ほかに制裁を与えるべき存在を探した。
いや、焦る必要はない。時間はたっぷりある。当面はこいつらの私生活をじっくり覗いて、ひとりひとり、罪に合った罰を与えればいい。
そう思って一度は落ち着いた稲倉だが、ひとりの男性から目が離せなくなった。
柏崎伸也。
夕べ、盗聴機能のついた悪魔のペンを供出し、日和見で浅野に同調した男。あのおかげでパウロ柏原伝蔵との会話は聞かれてしまった。告解にも等しい魂の叫びはいったいどこまで聞かれたのだろう。
こうなってしまったら、そのことはもう、どうでもいい。ただ稲倉は、柏崎のような、その場の流れで人を傷つけ、平気でいられる人間が大嫌いだった。
そう、誰にも見えない安全地帯から笑って人を傷つける人間や、利害関係で善悪の基準を変える人間。
やってることは人殺しにも匹敵するのに罪の意識すらないこいつらは、屑だ。こういう人間の本性はたいてい生まれつきで、死ぬまで直らない。子供の頃はいじめに荷担するし、大人になればSNSで人を自殺に追い込み、そのくせ実社会では善人の顔をして成り上がる。
この手の人間には思い知らせなくてはならない。
稲倉は、誰にも、何にも触れないように注意して、柏崎のデスクに近づいた。
机上のコンセントは蛸足になっていて、個人の携帯と、なぜかゲーム機が繋がっていた。
柏崎は稲倉と入れ替わりに席を立っていた。トイレにでも行ったのだろう。
稲倉は、私物の方の充電器の線を切ってしまうことを思いついた。見つければ誰かのいたずらだと思うだろう。しかし私物のゲーム機では訴え出ることもできない。それでも、誰かに悪意を向けられていることはわかる。
ざまあ見ろ。ゲーム開始だ。見えないところから攻撃される恐怖を、これから時間をかけて、じっくりと味あわせてやる。
二十センチほど開いた引き出しから、先の尖った長ハサミが顔を覗かせていた。展示物の細工用で、段ボールでも楽に切れるように作られた特別製だ。
稲倉は誰にも気取らないようにハサミを取り上げた。この瞬間、もうハサミは見えなくなっているはずだ。
稲倉が、持ち手の部分をしっかりと握ると、尖った先端がきらりと光った。
刺そうと思えば誰でも刺せる。
どこからでも刺せる。
そして、自分が罪に問われることはない。
笑みを浮かべた稲倉がハサミを握った手を振り上げると、その手首を強く握る者がいた。
振り返ると、にやけた顔の浅野芹香がいた。
「真琴、いい加減にしなさいよ。あんた見えてんのよ、ずっと」
そのひと言でオフィスの魔法が解けた。
全員が、稲倉を振り返った。
遠くに、百瀬真鈴の鋭い視線があった。
そのほか、数え切れないほどの嘲りの目がすべて、稲倉真琴に向いていた。
「どうせなら裸で出勤して欲しかったのに。何やらしても足りないわね」
浅野はそう言うと、仕事に戻っていった。