パウロ柏原伝蔵
稲倉は、預言と書かれた館に入った。
酔っていた稲倉は、神父崩れと自称する占い師に悩みを打ち明けた。それを魂の呻きと受け取った占い師は、稲倉の魂を解放すると言って……。
明るくはないが、暖かみのある光で満たされていた。
正面の壁際に、木目の美しい上品な長椅子があった。背もたれもあり、主が座るのにふさわしい風格が感じられた。
しかし誰もいない。
留守なのだろうか。
稲倉は腰を屈め、忍び込むようにして小屋に足を踏み入れた。
香の匂いがしているが煙の気配はない。ということは、これは、この屋の主の残り香だろうか。
長椅子の前に机があった。両端に置かれた燭台では、蝋燭がちろちろと赤い炎を揺らしていた。
机の上に並んだ金色の食器のいくつかは足付きで、どうやら祭器のようだ。どれも、千年も前からここに置き去りにされたように、煌めきを失っている。
開けっ放しで、不用心な。
誰もいないとわかると肩の力が抜けた。
稲倉は、内壁に沿ってゆっくりと視線を移動させた。
まず右。壁に掛けられた横長の織物には、有名な最後の晩餐のようすが編み込まれていた。
長椅子の後ろの壁には、葉書をひと回り大きくしたくらいの陶器の板絵が掲げられている。目を凝らして見ると、男の天使のようだ。背中には黒い羽が畳まれている。
そして左を向いた瞬間、稲倉は「ひぃっ」と小さく息を吸い込むと、そのまま全身を硬直させた。
真横にあった椅子に神父のような形をした男が座っていて、じっと稲倉を見上げていたからだ。
年齢が読めない。ただ、いくつもの人生を生き抜いてきた傷と誇りが、草臥れれた風情に精気と迫力を与えている。見ようによっては、途方もない年齢にも見えた。
「す、す、すみません」
震える声を自覚すると怖じ気はさらに増幅される。
覚束ない足に命じて何とか外に出ようとするのだが、稲倉の身体は、素人が操る人形のようにかたかたと震えるだけだ。
あきらめて男と対峙することほんの数秒。息もできないでいる稲倉に「どうぞ、お掛け下さい」と正面の椅子が勧められた。
その優しい声で呪縛が解け、呼吸が戻った。
急いで状況を整理する。
そうか。客と占い師の位置関係が、ここでは逆なのだ。考えてみれば、占い師が長椅子などに座るはずがない。
稲倉は勧められるまま、正面の長椅子に腰掛けた。
「ようこそ。わたくし、パウロ柏原伝蔵と申します」
「あ、あの、わたしは」
いえ、とパウロ柏原伝蔵は素早く稲倉を制すると「名乗る必要はありません。悩みも苦しみも、主のみ前では泡沫」と言った。
「あの、柏原さんは」
「伝蔵とお呼びください」
「伝蔵さんは、牧師さんなんですか」
はは、と相好を崩して小さく笑うと、伝蔵は「以前は神父でしたが、追放されました」と答え、「なので、牧師というよりは、神父崩れです」と言った。
怖くて確かめただけなので、神父だろうが牧師だろうがどちらでもいい。嫌なことはさっさと終わらせて帰りたい。それだけだ。
稲倉はまだ少し踊っている心臓を宥めながら先を急いだ。
「伝蔵さんが、占って下さるんですか」
「何なりと。ただ、わたしの場合、占いではなく預言、という形になります」
柔和な表情を前にしているうちに、だんだんと人心地が戻ってきた。
「そういえば表の看板、予言のよが預かるという字になってましたが何か特別な意味が? それとも」
「誤字です」
言葉に詰まる稲倉に、伝蔵はいたずらっぽく付け加えた。
「わたくしは、似非預言者ですから」
何を言っているのか稲倉にはわからなかった。
「わたくしは聖職を追放された身。わたくしを、改めて主に取りなし、魂を操る霊力を与えたのは、かつて天使と呼ばれた悪魔です」
飯倉は、伝蔵がまじめに話すのを見て、つい笑ってしまった。天使や悪魔が存在する世界は、稲倉が知る限り安手のコミックにしかない。
「ごめんなさい」
「いえこちらこそ、つまらない話をしてしまいました」
どこからか、細く、静かな風が流れ込んだ。蝋燭の炎がぶるっと震えた。
伝蔵が静かに言った。
「さて、何についてお話ししましょうか」
稲倉は見料のことを思い出し、肩掛けのバッグから一万円札を取り出した。
「見料は預言が終わってからでけっこうです」
稲倉は、行き場を失った一万円札をどうしようかと考え、結局また、小さく丸めてバッグに押し込んだ。
顔を上げると、伝蔵と目が合った。
目の奥が凪いでいるのがわかった。
この人はわたしが話し始めるまでずっと待つつもりだ。そしてきっと、ぜんぶ聞いてくれる。
すべてが自分に委ねられている感覚は心地よかった。
その特大の安心感に、稲倉は胸ポケットに刺された隠しマイクのことも言いつけも忘れて自分を語り始めた。
「いやなんです、毎日毎日。別に誉めてもらいたいわけじゃないんですけど、蔑まれる理由なんて、ないです。利用するだけして蔑むなんて……。ここにだって本当は来たくなかった。占いなんてわたし、雑誌でも読み飛ばすんですから。だって射手座の運命がみんな同じだなんて、そんなバカなことあるわけないじゃないですか。生年月日だってそうだし。それなのにみんな」
そこまで言って、稲倉は伝蔵の顔を見た。
伝蔵は優しく言った。
「仰るとおりです。どうぞ、続けて下さい」
「誤解しないでください。仕事が嫌だっていうわけじゃないんですよ。雑用係って呼ばれてるのも、別にいい。わたしなんて才能ないし、リーダーシップもないし、たまに閃いちゃったりするともう、大迷惑。だから雑用係しかできないんですけど・・・・・・。あ、違うかな。本当は好き、かもしれない。才能なんて求められない分やればやっただけ仕事は片づくし、あ、わたしってお洗濯とかアイロン掛けも好きなんですよ。ほらあれって、やればやっただけ進むじゃないですか。たまに雨とか降っちゃいますけど」
稲倉はそこで少し笑い、また沈んだ顔になった。香の匂いに酔いが刺激されたのか、情緒は大きく揺れている。
「でも、もっと感謝してもいいと思いません? まぁおじさんに言っても分かんないですよね。ああ、でも雑用はまだいい方なんですよ。嫌なのはミスの責任を押しつけられたり、ただ面倒くさいだけの仕事とか、ついでにとか言って昼休みにアイス買いに行かされたり・・・・・・。ついでって何よ!」
稲倉は拳で机を叩いた。足つきの金の大杯に被せてあった蓋がかちゃんと音をたてた。
ふうっという息と一緒に肩を落とすと、稲倉は続けた。
「でもわたしの代わりなんていくらでもいるんだ。だからこうやって言うこと聞いちゃうんですよね。明日も、明後日も。そうすると見えちゃうんだな、こうやって年取ってく未来が」
朝倉の命令が頭を過ぎった。
今しかない。
「ねえ伝蔵さん。わたしって結婚とか、するんですか」
伝蔵は言った。
「しますよ、あなたがしたいと思うなら」
「ずるいなあ伝蔵さんは。それにいい加減。これで一万円って、詐欺じゃないですか」
稲倉はそう言って伝蔵を睨んだ。
「わたくしは本気です。あなたご自身が、なりたいと望む姿を念ずること、実現を神に願うことがすべての始まりです。わたくしにできるのは、あなたの魂を自由にしてあげることだけ。あなたは神の前にすべてを打ち明け、心のうちをすべて、言葉にして祈ってください。そうすれば」
「したらすべて叶っちゃうって? 占いの一等だってそんなことおめでたいこと書いてないですよ。それだったらわたし、きれいな顔んなって、痩せて、体の線が出るようなスーツ着て若い男の子を従えてばりばり仕事します。出世して高い給料もらってかっこいいマンションに住んで」
気が付くと浅野芹香のイメージをなぞっていた。
「できますとも」
伝蔵はこともなげに言い、使い込んだ聖書を開いた。そして目当てのページを開くと指でさし、含めるような口調で読み上げた。
「まことに汝らに告ぐ、もし辛子種一粒ほどの信仰あらば、この山に[此処より彼処に移れ]と言うとも移らん、かくて汝らは能わぬこと無かるべし」
何を言われたのか分からない稲倉は黙ったまま伝蔵を見返す。
伝蔵は聖書を見つめたまま説明した。
「マタイ伝十七章二十節です。本当の信仰が、からし種ひと粒ほどもあれば叶わぬことはない。移れと言っても山が動かないのは、あなたが、心から信じていないからです。信じれば、世に叶わぬことは何ひとつない。そう書いてあります」
まじめに語る伝蔵を見ているうちに怒りがこみ上げてきた。ほんの少し自分を変えるのだって大変なのに、超能力で山を動かすって何。
それでも稲倉は、感情を押さえた。押さえようとすると、そのぶん声が低くなった。
「わかった。じゃあ信じる。信じれば叶うのよね。じゃあわたし死にたい。わたし幽霊になりたいの。人に祟るのが夢なの、ねえ」
「神聖な魂を祟りに用いてはなりません」
伝蔵に咎められ、稲倉の感情が波打つ。
「嘘吐き! さっき悪魔がどうたらって言ってたのに。山を動かすよりぜんぜん簡単でしょ」
「わたくしが申し上げたのは神を信じて祈ることです」
「じゃいいわ。わたしは消滅したい。幽霊にはならなくていい。消えてなくなればそれでいい。あの、いつまでも娘に金をせびるくそ女から生まれたことも、大法螺吹きのセクハラおやじが父親だってことも全部、最初から無かったことにしたい。それならどうよ。ねえ」
稲倉は机に載せた両手を拳にしていた。
そして祭服を見つめていた目をゆっくりと上げ、伝蔵の答を待った。
「たとえ肉体が滅びようとも、その魂は」
「はん、あなたってほんっとに似非なのね。じゃあいいわ、消滅ができないんだったらオマケしたげる。見えなきゃいい。わたし透明人間になりたい。したらわたしはみんなを困らして遊ぶの。全部ぶっ壊す。そのくらいなら罪はないじゃん。さあ伝蔵さんやってよ早く、わたし信じるから。できるんでしょ? ねえ」
完全に酔っていて、脳はアルコールに支配されていた。自分がコントロールできなくなった稲倉は、激情の赴くまま「ねえ!」ともう一度叫ぶと机の上にある物を力任せに払った。
片方の燭台が倒れて地面に落ちた。蝋燭は真ん中から折れ、火の消えた芯からは断末魔の煤が立ち上った。
くすんだ金の大杯もまた、大きな音をたてて地面に転がり、なかから小さな乾いたパンが飛び散った。伝蔵は大切そうにそれを拾い集め、元通り金の大杯に納めて蓋をした。蓋に付いていたはずの十字架は、欠けてどこかに飛んでいた。
ふたりが机を挟んで向き合うと、小屋のなかは再び静かになった。
互いの鼓動が聞こえるのではないか、と稲倉が耳を澄ませたとき、伝蔵は言った。
「感情的になってはいけません。あなたは少し、お酔いになっているようだ。それに」
伝蔵は、稲倉の胸元に手を伸ばした。
稲倉は反射的に両手で胸元を押さえ、伝蔵を睨んだ。その胸ポケットには秘匿の任務に失敗した柏崎のスパイ道具が刺さっている。
「かわいそうなお方」
伝蔵が伸ばした手を引っ込めて静かにそう言うと、稲倉の目から涙がこぼれた。
こんなこと、きっと今日だけじゃない。明日も明後日も、その先もずっと続く。わたしは浅野芹香のおもちゃなんだ……。
救いのない状況に思わず眉をひそめた。
苦しい。
腸がねじ切れそうだった。
稲倉はたまらず腰を折り、前屈みになった。そしてつい先ほど机を払った右手の拳を腹に押しつけると「助けて」と呻いた。
「主は、魂の呻きに応えてくださいます」
伝蔵はそう言うと、左手を胸に当て、右手の平を稲倉に向けた。
「全能永遠の神、魂を照らす闇の番人が呻きに応えて祈ります。どうか、この方の願いを聞き入れ、閉じこめられた魂を解放してください。あなたの示される星は闇に生きる者にとってただひとつの道しるべ。今このとき、……」
伝蔵が祈る声は次第に低くなり、最後は唸り声が空気を振るわせるだけになった。
声は細い糸となって稲倉の全身を繭のようにくるんだ。
守られている。
稲倉が安心感に身を委ねていると、閉じた瞼の裏に七条の光が現れた。
光はやがて、美しい馬の形になった。
頭に1本の角があった。角には何をも貫き通す鋭さが備わっていた。
馬体は稲倉が念じる度に白、黄緑、紫と色を変えて煌めき、たてがみは波打った。
乗れ、と馬が促すので肯くと、稲倉はもう、馬の背に乗っていた。
稲倉は首にしがみついた。
梅の花より何倍も甘い匂いが胸一杯に広がった。
馬は走り出した。「脱出成功」と誰かが叫び、ファンファーレが鳴った。
これは夢なんかではない。決してない。
稲倉は意識を失った。