二次会なんて……
稲倉真琴は二次会など行きたくなかった。だが、読まれていた。「ぜったいに断らない」と。断らないのではない。断れないのだ。
稲倉真琴は、二次会に向けて覚悟を決める。
「稲倉さん稲倉さん」
帰り支度を始めていた稲倉真琴が振り返ると、そこには笠原主任の、いつになく真剣な顔があった。何くれと事務方に気を遣ってくれる営業の笠原は、事務課では評判がいい。
稲倉が「お疲れさまでした」と笑顔を向けると、笠原はくっきりとした発音で「浅野リーダーからご指名です」と言った。
稲倉の顔から笑顔が消えた。
「二次会、浅野さんのご指名ですから、必ず残っててください」
「ああ」
稲倉はイエスでもノーでもない声を残してスツールにへたり込んだ。
ここまでの我慢は何だったのか。
稲倉は座ったまま、ホールにいるはずの浅野芹香を探した。
いた。
しかし浅野は、稲倉のことなど見ていなかった。今日から営業部に異動した有坂尚人と楽しそうに話しながら、帰る人、ひとりひとりに声をかけ、手を振っている。
稲倉は、本当なら有坂尚人の部下になるはずだった。だから、採用面接の最後は有坂だった。
「部長が言うんだよ。もう決めたんだけど、あとから君に、何でこんなの採ったんだって言われたらかなわんからな。おまえの部下になるんだ。自分で責任もって最終判断しろって、そう言われてさ」
楽しげに、あとでそう教えてくれた有坂の面接はほとんど雑談で終わった。
楽しかった。
内定の通知をもらってからの高揚感は、ただ就職先が決まった、ということだけではない。四月からは有坂先輩のもとで一から経理の実務を学ぶ、という約束。ハートマークで一杯の期待感。
それは事務課への配属変更で脆くも崩れ去った。
事務課の新人の仕事は営業がまき散らした雑用のオンパレードとミスの尻拭いだった。ときには厄介なクレーム処理が持ち込まれることもあって、達成感を味わう暇もない。
週に一度はオンラインのデータクリーニングの仕事もある。これを怠ると、会議前はカプセルホテルに連泊することになる。月に何度かの休日出勤も常態化していた。
笑顔で追い払っても疲れは溜まる。
精神的にきつくなるとパチンコ屋に駆け込んだ。耳をつんざく騒音と目映く光る盤面を眺めていると心が空っぽになった。儲けようと思っていないので、勝っていても玉がなくなるまで打ち込んでしまう。
一歩表に出れば現実に戻った。軽くなった財布の分だけ疲れは増していた。
いつしか、死に憧れるようになっていた。
……幽霊になりたい。
そう思った。
誰にも見えない存在となってさまよってみたい。そうして他人の人生の障りになるのだ。
そんな、恨みがましいことを考えることが、最近では、稲倉の生きる活力になっている。
もともと稲倉は、単純な労働が嫌いではなかった。むしろ才能も創造力も求められない、やればやっただけ仕事が片づいていく仕事は稲倉の性に合っていた。これで有坂先輩が上司だったらどんなに大変でもハッピーなのに。有坂先輩の言いつけなら何でもやってあげるのに。
毎日そう心に念じていたら、有坂は営業部に異動になり、配属は稲倉が担当している浅野グループと決まった。
願いは、半分だけ叶った。
残り半分は、営業部と事務課というカーストの違い。
これだけは如何ともしがたい。
ふと甘美な可能性が頭をよぎった。
二次会には、もしかしたら有坂先輩も呼ばれてるかも。有坂先輩は異動したばかりの新人だし……。
「ねえ笠原さん、他には」
振り返った先に、もう笠原はいなかった。
稲倉はふうっと短い息を吐いた。
浅野はどこに連れて行くつもりだろう。
カラオケだったら最悪だ。ラーメンとかだったらいいけれど、それは二次会とはいわないか。でも、ひとりで考えていても何かが変わるわけではない。
稲倉は覚悟を決め、今のうちに用を足しておくことにした。オレンジジュースとトマトジュース、ウーロン茶三杯は、すでに必要な養分を吸収し終え、余った水分がさっきから膀胱で排出を求めている。
人溜まりをかき分けて出入り口の脇にあるトイレに滑り込むと、素早く個室に入って鍵を閉めた。そして、何かの腹いせのような勢いで用を足す。
生理現象が処理されると、身体中から力が抜けた。
顔から表情が剥がれ、肩は落ち、口が開いた。
端から見たらきっと死人だ。
ずっとここまま、朝までこうしていられたら楽なのに……。
そう思っているとドアの向こうから声が聞こえた。化粧直しらしい。
「かったるいよな成果主義なんて」
「ばかだよね」
「なんかさ、人参ぶら下げたら走ると思われてるのが癪」
「ねえねえ、がんばんないと給料どうなんのかな」
「そう、それよぉ。そのがんばんないケースを試算してみたの、したらなんと、都の最低賃金より安いのよ」
「うそ、それって違法じゃん」
「なんかね、総務に聞いたら有期契約以外は適用されないんだって」
「でも逆にいうと何にもしなくてもそれだけは貰えるってことだよね」
「そこまでやるぅ? あたしは勇気ないかな。それだったら事務課に異動さしてもらった方がよくない。遊んでて給料もらえんだからさ」
「いやいや、あそこまで落ちたくないわ。それにさ、あれはあれで大変みたいよ、わたしもいろいろやらしてっから言えないけどさ」
「はは、あたしも。とりあえずめんどいことは全部放り込んでるから」
「だね。ねえねえ、あいつらが仕事中ずっとポテチ食べてんのってさ、あれってストレスなのかな、もしかして」
そこで会話が止まった。
個室のひとつが閉まっていることにようやく気付いたらしい。まったく確かめもせずに不満話だの陰口だの、営業のくせにガードが甘過ぎだ。それに仕事中にスナック菓子なんて食べていない。
しかし最近の稲倉は、電話が鳴らなくなる20時を回ると、夜食代わりのポテトチップを袋食いするのが習慣になっていた。昼間はげっぷが出るので我慢しているペプシ缶も一緒だ。そのせいか半年で四キロ太った。
稲倉が便座の上で身体を丸くしていると、ひとしきり手洗いの水道の音がして、そのあとゆらっと空気が動いた。
出て行ったのか。
物音は一切なくなったが、稲倉は用心のため、心のなかでゆっくりと百まで数えてから個室を出た。
洗面台の前には、気配を消してマネキン人形と化したふたりが立っていた。
ミラー越しに目が合った。
反射的に目を逸らす。
稲倉は何も言わずにふたりの間に割り込み、手を洗った。こっちだって聞きたくなんてなかった。