臨時朝礼
三月二十九日。噂や憶測が飛び交うなか、メールで招集されたメンバーは、A会議室に集まった。
未来リソースカンパニーは、来期から大きく変わることになる。
三月二十九日 水曜日。午前八時四十三分。A会議室。
ほとんどの社員がすでに整列していた。
緊張を解すための囁くような会話は、砂浜を洗うさざ波のように無表情だ。
PHSの着信音が平安を破った。場所は出入り口付近。
「はい、未来リソースカンパニーでございます」
口元を手で隠して小さな声で応答したのは浅野芹香の同期、稲倉真琴だった。
未来リソースカンパニーでは、新入社員はまず、事務課で一ヶ月の研修を受ける。そこで全体の仕事の流れとオンラインの使い方を学んで、それから初任部署に散っていくのだが、ときに、研修中に初任部署が変わることがあった。稲倉真琴もそうだった。
稲倉は財務部採用で入社したはずだが、何が気に入られたのか、或いは気に入られなかったのか、そのまま事務課に配属された。
事務課。
給茶器ができて、さすがにお茶汲みという仕事はなくなったが、顧客からの電話対応やオンラインのデータ整理、打ち合わせの設定といった裏方の仕事は、形こそ変わったが、実態は昭和のままだ。
地味で損なことも多い役回り。しかも昇格はほとんどない。
以前は庶務課と呼ばれていた。それでは雑用係と言ってるのと同じではないか、という女性課員の苦情によって事務課と名は改められたが、仕事の中身が変わったわけではない。
だから臨時の、重要な朝礼であっても雑用をおろそかにすることは許されない。そういうカーストに、事務課は位置している。
微かな哀れみと蔑みを胸に浅野が振り返ると、稲倉はPHSを大事そうに耳に当てたまま、足早に会議室を出ていった。
午前九時。
定刻になると誰ともなく私語を止め、姿勢を正していた。
地上二十八階のA会議室がしんと静まり返ると、それまで従業員のがやの底に沈んでいたエアコンの吹き出し音が浮き上がる。
さっとドアが開き、番頭役の勢多営業部長に先導されて大橋プレジデントが姿を現した。
艶のあるダークグリーンのスーツ。ネクタイとポケットチーフの赤は、どう見ても血の色にしか見えない。
最前列に整列した営業部の精鋭達は申し合わせたように手を前に組んで、臣従の意を表す。
二列目の浅野も、無意識に、その動作に合わせていた。
大橋プレジデントは、演台の向こうに立つと、まず「朝早くから申しわけありません」と言った。
静かだが、地を震わせるようなテノールは、一瞬で場の空気を支配した。
穏やかな表情でゆっくりと会議室を見回し、皆の緊張がほんの少し緩んだのを確認して、大橋プレジデントは本題に入った。
「間もなく、三ヵ年計画の二年目である、第八期が終わります。数字はまだ確定していませんが、目標達成率は五十パーセントをやや上回った程度で、このままでは最終年度の目標達成は困難です。みなさんもご存じの通り、未来リソースカンパニーは、未来ホールディングスの傘下にある、独立した法人です。万が一、事業が破綻することになれば、働く場が失われたり、或いは皆さんの生活に影響が及ぶような対策が、必要になってます」
優しい言葉を使っているが、解雇や賞与の大幅なカットの可能性があるということだ。
あちこちから小さなため息が聞こえたような気がした。もちろん、実際に声に出している者はいない。
暗い影を振り払うように大橋は続けた。
「そのようなことがあってはなりません。ですから、営業部員の皆さんには今まで以上に頑張っていただかなくてはいけませんし、経営維持やサポートの方々も、その能力を数字に向けて結集する必要があります。それでも」
「すみません」
会議室のなかほど。大橋プレジデントの話に水を差した男の声に、全員が振り返った。
その声の主を見た浅野は、思わず小さく舌打ちした。
有坂尚人。こいつはいったい……。先生おしっこ、とでも言うつもりか。
「すみません、今まで以上にって言われても、今だってみんな頑張ってるわけですし、それにうちは社内カンパニーですから倒産はないですよね。今までずっと根性論で、現場はもう疲弊しています。BIツールの導入計画を前倒しすれば、そのぶん営業力にも余裕ができると思いますが」
財務部では末席だが、内部統制委員会にも名を連ねる有坂はすべての投資案件を知っている。
大橋プレジデントは、失礼な割り込みに感情を乱したようすもなく、むしろ、慈しむような笑みを浮かべて答えた。
「うん、いいところに気が付いたね。一般的にいえば、それが経営者の仕事です。でも、よく考えてください。カンパニーは、確かに倒産はしません。でも閉鎖はあります。しかも簡単だ。だからこそ、投資の前には死にもの狂いで頑張る姿勢を見せる必要があるんです」
そこまで言うと、大橋プレジデントの目は、有坂から参会者に戻っていた。
「リソースの投入は、極限まで経営体質を鍛えてからでないと贅肉になるだけです。結論を言いましょう。未来リソースカンパニーは、間もなく始まる来期より、目標管理と裁量労働制を組み合わせた新しい労務管理を採用します。誤解のないように申し上げますが、カンパニーとしての総額人件費は落としません。人事部と協力して、会社への貢献度が高い社員が正当に評価されるためのシステムを作りました」
大橋プレジデントはここで、聖母のような笑みを浮かべ、たっぷりと間を取った。
今度は誰も、何も言い返さない。大橋は慇懃な態度と権力の組み合わせが恐怖を演出することをよく知っている。
「営業部は数字で評価します。調査部にはミッションを完了した、半年後の数字で評価させていただきますので、調査部は、スピードよりも正確さが求められます。事務課の諸君には数値目標はありませんが、サポートするチームの成績がそのまま給与に反映しますので、がんばってください」
A会議室は重い雰囲気に包まれた。
裁量労働制には残業の概念がない。与えられた業務を早く完遂すれば、あとは家で寝ていても構わないが、できるまでは無限に働かなくてはならない。
営業の場合、数値目標はノルマと同義語になり、必達が求められる。達成できなければ、いくら働いても最低賃金に甘んじるほかはない。
「君のおかげで話が早く終わりそうだ。君、名前は」
有坂が答えるより先に、勢多部長が大橋の耳元で何か囁いた。囁きながら、くしゃくしゃに丸めたハンカチで額の汗を叩いている。
「詳細は来期初日のマネージャー部会のあとでお示しします。何か質問のある人は」
うまいやり方だ。詳細は三日後と言われて質問などできない。不安を口にしたら「頑張ればいいんです」と言われるだけだ。
浅野は、神妙な顔の裏でほくそ笑んでいた。
こういう緊張感のある空気を待っていた。しかも四月からはアシスタントマネージャー。ようやく部下が持てる。
自分の数字のために部下を動かせる人間は、こういう状況では圧倒的に有利だ。部下には、離反する気が起きない程度に褒美を与えておけばいい。だいたい稲倉真琴のような鈍くさい女と給料に大差がないなんて、今までがどうかしていたのだ。
十五分の予定だった朝礼は五分で終わり、ふたつある出入り口に人溜まりができ始めた。
「浅野君、いよいよ君の時代だね」
声をかけてきたのは人事労務課の太田課長だった。
「その節はどうも。見事なポーカーフェイスでしたね。当然、ご存じだったんでしょう」
太田課長にはつい先日、待遇面の不満について個別面談をしてもらったばかりだ。
「僕にも守秘義務があってね。まあ、これからしばらくは勝ち抜き戦だよ」
勝ち抜き戦、という表現が引っかかった。
つまり敗者の退場は、最初から織り込み済みということか。
有坂が訴えていた新しい業務システムは遠からず行われるだろう。効率化の先には大幅な人員削減が待っている。勝ち抜き戦の実態は未来リソースカンパニーの人減らしの一環、ということか……。
太田は、浅野が先を読んでいるのに気づき、話題を変えた。
「でも、このあいだの面談で君の希望は分かったから、チームメンバーには使えるのを揃えたつもりだよ」
「有坂も、ですか」
太田は、周囲を確かめたうえでわたしに近づいた。檜葉を思わせるコロンのグリーンノートが鼻先を掠める。
「あれは経理に置いとくにはもったいない男でね。何を考えてるかわからないんで宇宙人なんて陰口されたりもするが、財務評価の腕はフィラデルフィアコンサルティングからスカウトがくるほどだよ」
顔を寄せてしゃべるのは構わないが、パンツの腰に手を当てて言う必要はないだろう。
浅野は太田課長に気づかれないような自然を装って体を入れ替えた。
「ありがとうございます。でも使えるかどうかは、評判とは別ですから」
「うん、まあしっかり見てやってよ。アシスタントマネージャーといっても、うちじゃあもう、一国一城の主だからね。くれぐれも篩い落とされないように、頼むよ。期待してます」
太田は、浅野の肩をぽんと叩いて去っていった。
太田博光。三十九歳。地道に勤めて手に入れた人事労務課長の権限をひけらかす小さい男だ。結婚八年目だがルックスはいいので、女子にはそれなりに人気がある。
役にたちそうなら摘み食いされてやってもいいが一滴たりとも血は吸わせない。そのときは、こっちが吸い尽くしてやる。