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第61話 記憶


 コンコン、と、いつもと同じ時間に病室のドアがノックされたので、わたしは読んでいた本に栞を挟んで返事をします。


「四条さん、おはようございます。お加減はいかがですか?」


 その返事を待って入ってきたのは、清潔そうな服を着た看護師さん。


 入院生活が始まってから、看護師さんが毎日同じ時間に様子を見に来てくれたり、夜も同じ時間に消灯したりするので、なんとなくわたしの生活リズムまでピシッとしてきた気がします。


 わたしの場合は元からそれなりに規則正しい生活を送っていたので苦ではありませんけど、昼夜逆転してしまっている人とかは大変かもしれませんね。


「体温は……36.8度、はい、大丈夫そうですね」


 渡された体温計で熱を測り終わって、パジャマの裾から取り出したそれを渡すと、看護師さんは持っている用箋挟に留めた紙にその温度を書き込んで、他にも数点、いつも通りの質問をする。


 これが最近のわたしの朝の日課で……誇張して言えば、唯一の日課と言っていいかもしれないです。


 入院中、わたしがやることは基本的に殆どありません。

 決まっていることは、この日課を除けば、朝夕晩に出された食事を食べて、夜に寝ること。


 暇で暇でしょうがないので、わたしが学校を休んでしまっている間に進んでいるはずの授業の勉強でもしようかと思ったのですが、どうやら今は夏休みで、そろそろ休みが明ける頃……しかも、わたしはとっくに夏休みの宿題を終わらせているらしいです。


 まぁ、確かにわたしは長期休暇の時はいつも早い段階で宿題を終わらせる方でしたが……友達もいませんし、他にやることもありませんし。


 でも今回、わたしは宿題をやった記憶どころか、夏休みに入った記憶さえありません。


 お医者さんは、交通事故による一時的なもので、じきに思い出すだろうとおっしゃっていましたけど、なんだか頭がモヤモヤして、胸がチクチクします……。


「何か、大切なことを忘れているような……」


 なんとなく、暇つぶしに読み始めた本の続きを読む気になれず、看護師さんが去ってまた一人になった病室で、閉じた本を開かずに持ったままそんなことを呟く。


 叔父さんも、お医者さんも、大丈夫だから気にしないようにと言うけれど、それでも気になってしまうのだからしょうがないですよね。


「うん?」


 そんな風に、少し考え事をしながらぼんやりしていると、病室の外が、ガヤガヤと、なにやら騒がしくなっていることに気が付きました。


 人混みは苦手なので、野次馬になるつもりはありませんが、何かあったのかなと気になりますし、他にやることもないので、わたしは閉じたままの本を枕元に置いて立ち上がります。


 骨折などはしていないものの、全身の打撲や擦り傷がまだ完全には治っていなくて少し痛かったですが、外で起きている何かがわたしに影響するものだったらそれも怖いので、そのままゆっくりドアに向かいました。


「なんだなんだ? 何の騒ぎだ?」


「受付にグラビアアイドルが来てるってよ、行って見ようぜ」


 ドアを少し開けて、顔を出した廊下から聞こえてきたのは、そんな会話でした。


 なんでも、雑誌の表紙に載ったりテレビに出演したりしている、最近話題のグラビアアイドルの人が、誰かのお見舞いに来たけど、そこに居合わせた入院患者のご家族の人と揉めて騒いでいるらしい。


 グラビアアイドルの人はお見舞いをしたいけど、入院患者のご家族の人はその人をお見舞いに行かせたくない雰囲気だとか……。


 浮気とか略奪愛とか、そういったドロドロしたお話でしょうか? わたしの好きな恋愛小説にありそうです。


 リアルにそんなことが起きているというのは気になりますが、まぁ、いずれにしてもわたしには関係のないことのようですし、巻き込まれても困りそうなお話なので、大人しく本の続きでも読んでいましょうか。


 そろそろ叔父さんがお見舞いに来る時間ですし。


 わたしがそう思ってドアを閉めようとしたとき、ふと、風が吹いたような感覚がして、その風と一緒に病室から廊下に何かが出て行くような気配がありました。


 もちろん、先ほどまで病室には1人でいましたから、廊下を見てもここから出て行った人影なんてありませんし、振り返っても、窓は閉まっていて、その向こうには薄い雲がかかった空が広がっているだけです。


「まさか、幽霊……? なんて……」


 チクリ……。


 わたしの発したそんな呟きに共鳴するように、いつも感じているより大きな胸の痛みを感じました。


「痛い……」


 その痛みと共に、胸の鼓動が、ドクンドクンと、大きく早くなっていって、わたしは思わずその場にしゃがみこみます。


「おい! ロビーでポルターガイストが発生してるってよ! 一緒に見に行こうぜ!」


「は? ポルターガイスト? こんな陽のある時間に? ガセネタにもほどがあるだろ」


 続いて、ドアに寄りかかるようにしてペタリと座り込んだわたしの耳に聞こえてきたのは、ポルターガイストが発生しているなんていう、あまりに現実離れした噂話。


 こうなってきては、グラビアアイドルが来たという噂の信憑性も怪しくなってくるところだと思いますが、何故かわたしは、その話が真実のような気がして、胸の鼓動はさらに早くなり、何だか頭も熱くなってきました。


「わたしが、止めないと……」


 何でかは分かりませんでしたが、わたしの口からは自然とそんな言葉が零れ出て、その言葉を実行するために、足もひとりでに動き始めます。


 少し速足で駆けるだけで、全身が痛い……。

 そしてそれ以上に、胸が苦しい……。


 それでも、わたしは息を切らしながら、ちょうどやってきたエレベーターに駆け込んで、他のおそらく野次馬にいくのであろう人たちと一緒に1階まで降りると、誰よりも先にエレベーターを出て、ロビーまで駆け抜けました。


「はぁ……はぁ……すみません、ちょっと、通してくださいっ」


 人混みも、知らない人の体温も苦手でしたが、わたしは、ロビーの中央を取り囲んでいるたくさんの人をかき分けて、騒ぎが起こっている中心に進んでいきます。


 打撲で痣になっているところが痛んで、治りかけていた擦り傷のかさぶたも剥がれているかもしれませんが、そんなの構いません。


 わたしが、わたしの心が、わたしを呼んでいます。

 そこに行くように、忘れているものを思い出すようにと、呼んでいます。


「きゃっ」


 最後の人をかき分けた時、勢いがつき過ぎていたようで、わたしは人混みの中から転がり出るような形で転んでしまいました。


「静子ちゃん!?」


 そして、そんなわたしを見て、名前を呼ぶ、聞き覚えのある声。


 顔を上げたわたしの目に飛び込んできた光景は……叔父さんと対峙する、綺麗で可愛らしい女性と、その頭上で浮かぶ、待合のソファー。


 辺りには他にもソファーが逆さで転がっていて、おそらく、ここでしばらく、野次馬の人たちが言うポルターガイストが発生していたのだと伺えます。


 何やらわたしの方を見て、悲しそうな表情をしている叔父さんと対照的に、心配そうな、でもどこか嬉しそうな表情を浮かべる、綺麗で可愛らしい女性……。


 他の人がグラビアアイドルだと言っていたこの女性のことを……わたしは、知っている。


「るあさん……」


 その名前を呼んだ瞬間、わたしは、失われていた夏休みの記憶が、一気に蘇ってくる……。


 礼二さんと出会ってから、生まれて初めて、楽しいと思えた、この夏休みを過ごした時間の全てを……。


 でも……。




 ……浮かんでいるソファーの下には、誰もいない。




 いや、そこにいるのは分かってる……。


 でも、見えない……。


 ……。


 これが普通……これが当たり前……。


 そして、今なら分かる……。


 叔父さんは、きっとわたしにこんな普通の生活を送ってほしくて、るあさんが会いに来るのを阻止しようとしていたんだと思う……。


 きっと、これは、大事な選択だ……。


 わたしも、もう子供と呼ばれる年齢じゃない。


 叔父さんの気持ちも、理解はできる。


 だけど……。


 ……まだ、大人でもない。


「ネココちゃん!」


 わたしは、叫んだ。


 わたしに初めてできた、妹のような、飼い猫のような、何でも気兼ねなく話せる、お友達の名前を……。


「静子にゃん!」


 ……声が聞こえた。


 ……そして姿が見えた。


 入院中も片時もそばを離れずに一緒にいてくれた、大切な親友の姿が……。


 ネココちゃんは、持ち上げていたソファーを手放して、ガバッと、わたしの胸元に飛び込んでくる。


 わたしはその小さな身体を受け止めて、強く抱きしめる。


「あイタっ」


 でもその抱擁で、今まで意識から遠ざけていた全身の痛みが戻ってきて、わたしは思わず顔をしかめる。


「あ、ごめんニャ! まだ怪我が治ってなかったのを忘れてたニャ……大丈夫かニャ?」


 そして、そんなわたしのことを心配して、ネココちゃんは、わたしの身体をさすってくれた。


「ありがとうネココちゃん、わたしは大丈……夫……?」


 さすって、くれた?


 わたしは気になって、ネココちゃんの手を両手で掴んだ。


 ……そう、掴んだ。


 あれ? そういえば、さっきのポルターガイストも、ネココちゃんが持ち上げていたソファーを、野次馬の人たちも目視できていたような雰囲気だった。


「るあさん! ……と、雄二さんに、ネココさんに、静子さん?」


 そんなタイミングで、入り口の自動ドアが開く間もなく、外から宇井さんが駆け込んできた。


 そしてワンテンポ遅れて開いた自動ドアからは、宇井さんと同じようにスーツを着た人や、警察の人がたくさん入ってきた。


「っ……とりあえず場所を変えます、4人とも、私に付いてきてください!」


 わたしは、宇井さんにそう声をかけられると、警察の人が他の患者さんやお見舞いに来ている人を宥めながら遠ざける中、まるで何かの犯人が連行でもされるかのようにパトカーに入れられた……。


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