第29話 一難去って
るあちゃんが廃ビルで撮影を始めてから2日後の夜。
俺たちは月明かりの下で、彼女に別れの挨拶をしていた。
「それじゃあ、またいつかお会いしましょうねっ」
「ああ、またな」
「今度の番組、絶対見ます!」
「このサインは、絶対に高く売るニャ!」
「いや、売るなよ」
俺はネココの脳天にチョップをかましながら、帰りの車へと向かっていく彼女に手を振る。
この猫は、昨日、お弁当を持って夏休みの宿題をやりにきた静子ちゃんを迎えに来たところまでは良かったものの、俺たちと一緒にいた彼女が芸能人だと一瞬で見抜くと、光の速さでどこからともなく色紙を取り出し、サインをねだるという、大変失礼な登場をした罪深い猫だ。
彼女のことを知っていた点に関しては、流石は、俺に毎週のように漫画や雑誌などを提供してくれる本屋さんだな、といったところだが、出会って数秒でサインをねだり、あまつさえ、それを本人の前で売り払う宣言をする常識の無さときたら、本当に人間ではなく化猫なんじゃないかと思ってしまう。
今日だって、静子ちゃんと一緒に遊びに来たのはいいものの、隙あらば芸能界の裏側について、るあちゃんに根掘り葉掘り聞こうとしていたし、いったい俺が何度美鈴ちゃんに電話して捕まえてもらおうと思ったことか。
まぁ、見た目が子供ということもあってか、るあちゃん本人は気にする様子もなく、そんなやり取りさえ楽しんでいた様子だったから良かったが。
「行ってしまいましたね」
「そうだな」
「にっしっし、でもこれで匂いは覚えたからネココはいつでも追えるニャ」
「追わんでいい、というかお前は犬か!」
「猫ニャ!」
「うふふふ」
賑やかなのは嫌いじゃないし、静子ちゃんも楽しそうだから別にいいが、やっぱりコイツの相手は疲れるな……。
「というか、お前たちも流石にそろそろ帰れ、まだギリギリ遅めの晩御飯くらいの時間帯かもしれないが、これ以上は遅くなり過ぎだ」
「そうですね、宿題の難しいところもだいたい終わりましたし、言われた通り、残りを片付けてからまた来ます」
「ああ、こういうのはさっさと終わらせちゃった方が、残りの夏休みを心置きなく楽しめていいからな」
「ネココは宿題なんかしなくても心置きなく楽しめるニャ!」
「能天気なお前と真面目な静子ちゃんを一緒にするな」
そうして俺は、るあちゃんに続いて、静子ちゃんやネココにも手を振って見送った……。
月夜の晩、これが全行動範囲だと考えると狭くとも、ここに一人で住むと考えると広すぎる廃ビルの敷地に、俺一人だけが残される。
昨日と一昨日が賑やかだったこともあって、何だかちょっとセンチメンタルな気分になるな……まぁ、静子ちゃんやネココとは、どうせすぐにまた会うことになるんだろうが。
それに、一人になれたのは、悪いことばかりじゃない。
なにせ俺はこの二日間、まともに睡眠時間を取れていないのだから……。
「それもこれも、るあちゃんを一人でこんな場所に置き去りにした番組スタッフが悪い」
普通に考えて、若くて可愛くて、男性ファンだってたくさんいるグラビアアイドルが、セキュリティの欠片も無いこんな廃ビルに一人で泊まり込むなんて、危険すぎるだろう。
だから俺は、るあちゃんがテントに帰って別れても、心配で心配で、ずっと廃ビルの外で寝ずの番をしていた。
流石に昨日は眠くて、一度布団に潜り込んだのだが、やっぱり気になって、結局、廃ビルに近づく影がいないか夜の間はずっと見張りをしていたのだ。
それが、今日から全く心配がいらない……。
何も気にせず、心置きなく眠れる……。
「よっしゃぁあああ!! そうと決まれば、ちょっと早いが、今日はもうさっさと歯を磨いてこのまま……」
寝よう、と。そう思ったところで。
ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッという、聞き覚えのある重低音のリズムと、ジャカジャカとかき鳴らされるエレキギターの旋律……。
外に出ている俺に気づいたのか、ヘッドライトを真っすぐこちらへ向けて近づいてくるそれは、無駄に改造されたワンボックス……。
その車は俺の前で停止すると、二人の人影を下ろした……。
「久場様こんばんは、夜分遅くに失礼します」
「Yo! 礼二、今夜もノッてるかい?」
それは、地方公務員の宇井 市代さんと、キーヤンこと便利屋ヤンキーの佐藤 吉一郎……。
はぁ……どうやら俺は、今日もゆっくり眠れないようだ……。




