彼女の香り
ふと目を覚ますと、隣に寝ているはずの綾がいない。俺よりも朝が弱いはずなのに珍しい。トイレかと思い名前を呼んでみるが返事はない。どうせまた最近ハマっているというゲーム実況動画でも観ているのだろう。ならば俺の寝起きの掠れ声など聴き取れないのも無理はない。今日は彼女と休みを合わせ、日帰り温泉に行く予定だが準備を始めるには早すぎる。もう一眠りしようと、俺は彼女の体温を既に無くしたベッドの中で、瞼の重みに抗えず微睡の中へ沈んでいく。
再びアラーム音で目を覚ますと、やはり綾の姿がない。ここ最近毎日のように見る嫌な夢を記憶の隅へ押しやり、疲れが抜け切らない重い体を引きずって寝室から出る。呼び慣れた彼女の名をもう一度呼ぶ。だが返事はない。不審に思った俺は、彼女と同棲するために少し背伸びをして借りた3LDKの室内を探し回る。
洗面所に入ると、嗅ぎ慣れた彼女の香りがして安堵する。彼女のお気に入りのホワイトムスクのシャンプーの香り。そして、その愛おしい香りを上塗りするかのように鼻腔を強く刺激する彼女の体から発せられる腐敗臭。彼女は自分の存在を主張し続けるように、いつか誰かが自分に気付いてくれることを祈るかのように、日毎に強い香りを放散している。
ああそうだ。また忘れていた。俺は彼女を殺したのだった。理由も忘れてしまう程些細な理由だったはずだ。そして、彼女のシンボルとでもいうべきホワイトムスクの香りの邪魔をする腐敗臭を消すために、まだ日が昇らない時間に俺は彼女の全身を綺麗に洗い流す。俺が夢だと思っていたことは現実で起きていることなのに、いつも夢だと錯覚してしまう。水を弾き白く美しかった肌は変色して剥がれ落ち、ヘーゼル色に輝いていた瞳は白濁してこぼれ落ち、夥しい量の蛆が湧く、こんなにも痛ましい彼女を見ているのだから、非日常だと認識してしまうのは仕方ないだろう。
俺は明日も明後日もその次の日も、彼女の香りを塗り替えるために同じことを繰り返すだろう。はやくこの日常に終わりが来て欲しいという絶望に似た気持ちと、まだ愛おしい香りをわずかに残した彼女を失いたくないという切望に似た気持ちを併せ持ちながら。