変身少女戦士メタモルフューザー・番外編
技術班長ドナは窮地に立たされていた。
乗っていた船が攻撃を受け、どうにか追撃を振り切って不時着に成功したものの、大切な仲間がひとりはぐれてしまったようだった。
すぐさま仲間を探したかったのだが、侵略者の攻勢のために残った仲間と共に防戦に精いっぱいであり、思うように捜索ができずにいた……
第1話
「せっかく中学生になったんだから、なんかパーッと新しいことやりたいよな」
グラウンドに沿った桜並木を歩きながら、勇己は小学校からの親友の淳二と運動部を眺めていた。
「そう? お前はてっきり野球部かと思ってたけど」
二人ともリトルクラブではレギュラーではなかったが、野球はそれなりには楽しかった。でも。
「これだけいろいろあるならさ、野球以外にも楽しいこと、ありそうじゃん。それを見逃すのはもったいなくない?」
そんなことを言ってくれたのは誰だったか忘れてしまったけど、それを聞いてから中学入学が楽しみで仕方がなかった勇己だった。
隣の淳二は気のない返事をしながら、それでも一緒にグラウンドを眺めている。今その視線の先は、陸上部だろうか。
「お前足速いもんな。陸上なんかいいんじゃないか?」
キャッチがうまければ外野手として活躍できたのだろうが、ミスが多かったために淳二の活躍は主に代走だった。盗塁が得点につながって勝てた試合も、いくつもあったほどだった。
しかし、淳二はかぶりを振った。
「おれは特別足が速いんじゃないよ。ただタイミングがよかっただけ」
それより、と言葉を切って、淳二は足を止めた。
「案外お前の方が向いてたりしてな。ほら、背が低いから空気抵抗少なそうじゃん」
「おまっ、人が気にしてることを……!」
一発はたいてやろうと拳骨を固めた勇己だったが、もう淳二は逃げ出していた。怒りに任せて追いかけるも、淳二の逃げ足の方が早いのだった。
そうこうしているうちに、道は校門にさしかかった。右手には体育館があって、足音だのボールが跳ねる音だのが聞こえてくる。
「おっと。どうする? あっちも見てくか?」
淳二がそこで急停止して、勇己は思わず正面衝突しそうになった。しかし淳二がヒョイとかわして、事故にはならずに済んだ。
よろけながらなんとか足を止めて、勇己は淳二をにらんだ。
「今日はもういいや」
飽きたとか疲れたとかそんなことではなくて、何となく淳二の言うとおりにしたくなかった。
「そうか。なら帰ろうぜ」
なのに淳二は平然と合わせてくれる。なんだか拍子抜けだ。
校門で桜並木は途切れ、木を植える余裕がない狭い歩道になる。少し歩くと大通りに出て、そこにはまた何かの木の並木があるのだが―――
ドンッ!!
テレビでしか聞いたことのない自動車事故のような音が一発響いた後、たくさんの人のわけのわからない声が押し寄せてきた。
勇己も淳二も思わずそちらに顔を向けた。何かが迫ってくる。それが何なのか、勇己は理解ができなかった。
「逃げるぞ!」
その淳二の声でようやく、勇己はたくさんの人が逃げているのだということがわかったのだった。何か、黒い大きな何かから。
勇己の身体がようやくそれに反応しようとした時だった。
白い小さな兎のようなものが一匹、足元をすり抜けていった。その黒く大きな何かの方へ。
「早く!」
淳二が勇己の手を取って駆けだそうとする。しかし、勇己はそれを振り払った。
「先に行ってて!」
勇己は反対に兎を追って駆けだした。
淳二の声はもう聞こえない。逃げてきた人たちに飲まれたのかもと一瞬気になったが、勇己は走るのをやめなかった。
「おい待て!」
逃げる人に踏まれそうになりながらもすり抜けて走る兎。どういう訳か、勇己には一瞬、その声が聞こえたような気がしたのだった。
姿勢を低くして道の端を走り続ける。人の波に逆らうようで思うように走れなかったが、それでも小さい兎よりは速かった。
「待てよ!」
逃げる兎を両手で捕まえて、勢いのままブロック塀に寄りかかった。兎をかばって腕がすれ、痛みが走る。
制服をダメにしたら怒られると思ったが、次の瞬間そんな心配など跡形もなく吹き飛ばされた。
「放して!」
手の中でもがく兎が、突然声を発したのだ。
驚きのあまり手を放しそうになったが、なんとか持ちこたえた。兎はなおも暴れ続ける。
「放してよ!」
「ダメだ、あっちは危ない!」
「行かなきゃいけないの!」
兎が向いている先はたくさんの人が逃げてくる元であり、その中心には家よりも大きな黒い何かがある。そしてそれは、怪獣のようにうごめいていたのだった。
「何があるか知らないけど、あんなのがいたら危ない! とにかく逃げるんだ!」
「だからよ!」
黒い何かはうなりを上げ、たくさんの人が叫んでいるのに、兎の声ははっきりと勇己に届いた。
ハッとして手が止まった隙に、兎は勇己の手から逃げ出した。しかし地面に降り立ったところで逃げ走る人に蹴られてしまい、勇己の足元に転がってきた。
急いで拾い上げて、またブロック塀際に逃れる。どうやら、けがはしていないようだ。
「アレを止めないと、大変なことになるの!」
兎の青い視線が指しているのは、あの黒い何かで間違いないようだ。それはうなりを上げ、道路に残された車を蹴り転がしている。
「あんなもの、お前がどうにかできる訳ないだろ!?」
蹴り転がされた車が他の車とぶつかって、事故のような音とともに窓ガラスが割れる。勇己の足元にまでそれは飛び散ってきた。
「逃げるぞ!」
「ダメ!」
「なんで!?」
兎はもがくし、どこにそれほどの人がいたのかというほど人波は途絶えなくて、駆けだすに駆けだせない。
「わたしがアレを止めなきゃ、」
爆発音!
兎はまだ何か言っていたようだったが、反射的に勇己は兎を抱えてしゃがみ込んだ。
耳鳴りが収まって、目を開ける。すぐそばに何人も倒れこんでいたが、這いずって起き上がって、逃げていった。
「大丈夫?」
潰してしまったのではないかと心配になった勇己だったが、勇己の腕の中で兎は無事だった。
「ありがとう……」
初めて兎と目が合ったその時、兎が首にしていたものが光りだした。驚いた勇己だったが、さっきまでのようにその隙に兎が逃げ出そうとすることはなかった。
それどころか、勇己のことをじっと見ている。驚いているのか、目を見開いているようだ。
「お願い、力を貸して!」
先に立ち直ったのは兎だった。もう勇己から逃げようともせず、むしろまくしたてる。
「アレを止めるの。わたしの首のバンドを腕にかけて!」
勇己が答えるよりも先に再び衝撃音が襲ってきて、再びガラスの破片が飛び散り、今度は勇己のスニーカーまで転がってきた。
「早く!」
言われたとおりにバンドを左手首にかけた。
「次は声を揃えて「メタモルフューズ」、行くよ! レッツ!」
「「メタモルフューズ!」」
手の甲側にあるバンドの飾りが輝いた。兎はそれに吸い込まれ、入れ替わりに光の布のようなものが飛び出して勇己の全身を包んだ、ようだった。
まぶしさに目をつむって、数瞬後。
目の前には、黒い大きな何かがいた。陰になって細部まではわからないが、それはトラックのお化けのようだった。
シャフトが伸びて曲がってタイヤがつぶれて、後輪で二足歩行のように立っている。その片方が持ち上がった。踏みつぶされる!?
「なにボーっとしてるの、ジャンプ!」
兎の声で我に返り、落ちてくるタイヤから逃げようと思い切りバックステップをした。しかし!
「うわああぁぁぁ!!」
お化けに吹き飛ばされたのか、次の瞬間には宙を舞っていた。こんな高さから落ちたら!
「自分で飛んでおいて何怖がってるの、しっかりして!」
次の瞬間には、何事もなかったかのように普通に着地していた。
「どうなってるの!?」
「これが、あなたとわたしの力。反撃、行くよ!」
戸惑っている暇もなく、お化けはもう一度踏みつぶしに来ていた。
「もう片足を狙って!」
声のとおりに、前に駆け出す。その勢いのまま肩からタックル!
叫び声のようなものを上げて、お化けは後ろへと倒れた。もしかして、見掛け倒し?
「油断しないで! 右、避けて!」
振り上げていたもう片方の足が落ちてきた。間一髪で避けて、その時になってやっと気づいた。
「お前、どこにいるの?」
「ここよ、ここ」
バンドの飾りが声に合わせて明滅している。
「えええ!? どういうこと?」
「そんなの後! ほら、また起きてきちゃったじゃない」
「うわっ!」
また踏みつぶそうとしてきたところを、今度は軽く避ける。それでも信じられないほどの早さなのだ。落ちてくる足に合わせてタックルをかけると、お化けはバランスを崩して今度は横に倒れこんだ。
「決めるよ! わたしにタッチして、「デフュージョン・ストーム」!」
「なに?」
「グズグズしない!」
声に気おされて、言われたとおりに右手で左手首の飾りに触れて。
「「デフュージョン・ストーム!」」
目の前に竜巻が現れてお化けを飲み込んで―――
収まった時には、大事故に遭ったようにめちゃくちゃになった大型トラックがそこにあった。
「終わった……?」
今さらながらぞっとして立ち尽くしているところに、兎の声が飛んできた。
「そうね……あ、隠れて!」
とりあえずオフィスビルの間に隠れた。この騒ぎでみんな逃げだしたようで、人気はない。心地よい風が身体を撫でで、ほっと一息。
おかしい。足とかやけにスース―するけど?
そう思ってふと自分の足に目をやって、
「何コレえぇ!?」
「シッ、静かにして!」
「や、それどころじゃないって!」
長袖長ズボンの制服を着ていたはずなのに、黒基調のミニスカートになっているのだ。
改めて全身を見てみると、足は黒い短めのブーツ、スカートの下は黒のレオタード、上はこれまた黒の袖なしジャケット。それら全部、裾がピンクのラインで縁取られている。
つまり、めっちゃ女の子だ。しかも普通あり得ない感じの、衣装だ。
「これ、どうすれば直るの?」
確かにこんなのを見られたら一大事だ。静かにするしかない。
「わたしをタッチして「デフューズ」。それで戻るから」
「じゃあ今すぐ、「デフューズ」」
全身から光がはじけて、元の制服に戻った。兎をかばってすれた跡もそのままだった。何だったのだろう。
「ありがとう。おかげで助かったよ」
そして兎が足元にいた。あまりにも訳がわからなくて、勇己はその場にへたり込んで兎を抱きかかえた。
「何なんだよ、いったい……」
兎にそんなことを聞いてどうするんだなどと考える余裕は、残っていなかった。
「そうね、何から話せばわかってもらえるかな……」
兎の話は驚きの連続だった。自分たちはいわゆる宇宙人で、他者とつながる能力を持っているらしい。そして、その能力を悪用して他者を乗っ取ろうとする同族を追っているのだという。
「それが、さっきのトラックのお化け?」
「そう。そうやってよその人たちを征服しようとするのを阻止するのが、わたしたちの使命なの」
そのために、そのつながる能力を使って、行く先々の人の力を借りているというのだ。それがさっきの、メタモルフューズらしい。
「じゃあ、もうやっつけたからこれでお終いでいいんだよね?」
ほっとした勇己だったが、そうはいかなかった。
「デフュージョン・ストームは乗っ取ったものを分離しただけ。乗っ取ったやつは逃げちゃったから、また同じことが起きるでしょうね」
「そしたらまた、アレやらなきゃなの? 他の人に頼んだらダメ?」
「メタモルフューズは一人としかできない訳じゃないけど、誰とでもできるわけじゃないの。信頼してわたしを託せる相手じゃないと」
「信頼? だってオレとお前ってついさっき出会ったばかりだろ? なのに信頼なんて……」
思い当たる節がない勇己は、首をひねった。
「それでもあなたはわたしをかばってくれた。それは、十分信頼に足りる」
「かばうって、お前みたいに小さいやつ、当たり前だろ」
照れをごまかしながら、勇己はふと気づく。
「そうだよ、それくらいなら誰でもする。それなら、オレじゃなくてもいいよな?」
そう言って抱えていた兎を下ろした。しかし兎は去ってくれるでもなく、勇己を見上げたままだ。
「わたしは、あなたを信頼したい」
兎は真っすぐ勇己を見上げて、真っすぐにそう言う。
「そんなぁ。嫌だぜオレ、あんなの」
「お願い。せめてはぐれてしまった仲間と会えるまで」
「なんだ? お前一人じゃないのか?」
「一人で何とかなるほど甘い相手じゃないよ……」
真っすぐ見上げていた視線が、寂しげに地面に落ちる。
「そっか……お前も、大変なんだな」
勇己はふと、兎は寂しいと死んでしまうという嘘か本当かわからない話を思い出してしまった。それがいけなかった。
「わかった。仲間が見つかるまで、だからな」
勇己が再び抱きかかえてやると、兎は鼻を寄せてきた。
「ありがとう。よろしくお願い」
生き物なんか飼ったことないのに親にどう言おうかと取り留めもなく考えながら、結局何もまとまらないまま家につくと、母さんがすっ飛んできた。
「勇己、どこ行って……よかった、無事で……」
怒られるかと思いきや、怪我はないかとばかりに撫でまわされたのだった。その勢いに兎が手からこぼれ落ちてしまったが、兎はちゃっかり着地して脇に避けていた。
母さんはそんなことさえ気づかずに、怪我はないと見るや、愚痴るようにしゃべり始めた。
「淳二君ところから電話が来て、帰っていないかって聞かれて。それから学校の方で事故だか騒ぎだかが起きたって言うし、心配だけどパトカーが外に出ちゃダメって言うし、お母さん心配で心配で……」
兎を見つけて淳二を置き去りにしてしまったことを、勇己はやっと思い出した。止まらない母さんの話を淳二に電話するからと言ってさえぎって、淳二に謝りの電話を入れた。
何も言わずに置き去りにしたためにその理由を聞かれたが、兎やお化けのことは言えず、財布を落としたことにしてごまかしてしまった。
電話の間じゅう、母さんはずっとこちらを見ていたらしい。足元にいる兎に、まだ気づいていなかった。
「母さん、これなんだけど……」
そう言いながら勇己が拾い上げて、やっとその存在に気がついたのだった。
「兎? どうしたの? それ」
「あの騒ぎの時に拾ったんだ。迷子か何かみたいなんだけど、オレに懐いちゃって離れなくてさ」
母さんは兎を抱き上げて、こちらも怪我がないかを見ていたのか、全身を撫でるように見回した。
兎はおとなしくされるがままだった。どうやら勇己以外には普通の兎で通すつもりらしい。
「飼い主が見つかるまで、うちに置いていい?」
何かしでかさないかとそろそろ心配になってきた勇己は、兎をひったくりながら頼んでみた。兎は勇己の手の中でもぞもぞしていたが、いつの間にか母さんの方に向き直っていた。
「確か兎って、穴を掘る習性があったよね……あちこち引っかいたりしないかな……」
母さんは不安そうに兎の顔を覗き込む。兎は目でお願いするつもりなのか、それを真っすぐ見つめ返す。
「大丈夫だよ、こいつおとなしいから」
勇己はアピールのために、兎をぶんぶん振り回した。
「そうだねぇ。こんな小さい子を今さら放り出すのもかわいそうだし、がんばってみようか」
「やった!」
「ただし、お父さんにも相談ね」
とりあえず、兎を部屋に上げていいことにはなった。ボロが出ないうちにと勇己は急いで部屋に向かおうとしたが、母さんからちゃんと手を洗うようにと言われて洗面台へと急旋回させられたのだった。
部屋に入って戸を閉めると、それまで何をされてもおとなしかった兎がいきなり勇己の腕から逃れて、足を踏んずけてきた。
「あんなにぶんぶん振り回すなんて、ひどい」
兎は怒っているのか、さらに勇己の足首に頭突きを食らわせた。小さい兎の全力の抗議なのだろうけど、痛くもなんともなくて、勇己はつい笑ってしまった。
「悪かったよ」
「全然反省してない」
「はいはい。ごめんごめん」
頭を撫でてやると、ようやく兎はおとなしくなった。
「あと、お前とかこいつとかはやめて。ラズリって呼んで。わたしの名前」
「へえ、お前そんな名前あるんだ」
「当たり前でしょ。あなたは……お母さんが勇己って呼んでたっけね」
ちゃんと聞いていたらしい。どうやら勇己とだけ話せると言うわけではなさそうだ。
「ああ。魚住勇己な、オレの名前」
「よろしくね、勇己」
そう言いながら頭を撫でていた手に鼻をすりよせてくる。思わずかわいいな、と思った勇己だったが、
「お前の仲間が見つかるまでだからな」
諸々のことを思い出して、突き放すかのように手を引っ込めた。そんな勇己をラズリは見上げるようにしていたが、やがて諦めたのか、部屋の隅で丸まって眠ってしまったようだった。
夕ご飯の時に父さんにも話してしばらく飼うことは許されたが、飼い主をどのように探すのかという宿題が出てしまった。
勇己は人参一本と牛乳スープ皿一杯を部屋に持ち込んで、ラズリと相談することにした。
シャリシャリと一心不乱に人参をかじるラズリ。
「宇宙兎? でも人参食うんだな」
「いろんなところに行くし、好き嫌いはあまり言ってられないからね。野菜だったらけっこう何でも食べるよ」
しかし差し出した牛乳はくどいの一言で突き返されてしまった。自分の牛乳を分けてやったのにとむくれながら、勇己は改めて水を持ってきてやった。
「おいしい? 人参」
「うん、甘くてみずみずしい。ここの野菜はいいね」
話しかけた時だけ律義に食べるのをやめて勇己の方を向いてくれる。改めて持ってきた水は、今度は文句も言わずに飲んでくれた。
「ああ。水がいいからだね、これは」
「じゃあ、お前のご飯はこれでいいか?」
「ラズリ。お前ってやめてくれる?」
「はいはい」
この小さな体ならば人参一本で十分足りるだろうと思っていたのだが、食べきってしまいそうな勢いだ。
「もう一本食べるか?」
「ごちそうさま。おいしくて食べすぎちゃった」
腹ばいになって伸びをするラズリ。あの時の切羽詰まった感じが嘘のようにくつろいでいる。
「それでさ。お前の仲間を探すとして、何か当てはないか?」
勇己にとってはいろいろな意味で重大事項なそれだったが、ラズリは聞いていないのか、丸まって目を閉じてしまった。お前呼ばわりにも反抗しない。
「おい、オレの話を聞けって」
脇の下をもってぶら下げてやると、ラズリは面倒そうに目を開いた。
「今日はすごく疲れたし、お腹いっぱいになったし、もう眠いよ。明日にして」
語尾がちょっと間延びしているところ、嘘ではなさそうだ。しかしそれで引き下がれる勇己ではなかった。
「飼い主を探すまでってことで父さん母さんに約束したんだ。それにオレだっていつまでもあんなのは嫌なんだ」
だから何とかならないかと、ぶら下げたラズリを揺する勇己。これにはラズリも音を上げた。
「やめてやめて、お腹の中揺すられて気持ち悪くなりそう」
「あ、ごめん」
勇己はそっとラズリを床に降ろした。
「水、飲むか?」
「平気。ありがとう」
ちょっと呼吸を整えてから、ラズリはここへ来るまでのことを話してくれた。
お化けを作った同族を仲間と一緒に船で追っていたのだが、それが攻撃されてラズリ一人だけが船から放り出されたこと。それからラズリは船が向かっていたはずの方角に向かって数日歩いていたということ。そしてその敵は自分たちを狙っているのだから、今日それに出くわしたということはきっと仲間や船が近くにあるだろうということ。
「みんなもあいつらと戦っているはずだから、あいつらを追っていればきっと会えるはず」
「ってことは、今日みたいなのを追えってことか? それってつまり……」
思わず顔が引きつった勇己に対して、ラズリは笑みを浮かべたような顔をしてすり寄ってきて。
「わたしたちも戦っていれば、向こうが気づいてくれることもあるはず。だから、お願い」
「結局それなのかよぉー」
嫌だと言いたげに、勇己はすり寄ってくるラズリを引きはがした。そうしてじゃれているところに、部屋の戸の方から声がかかった。
「あ、姉ちゃんだ。母さんの時みたいにおとなしくしてくれよな」
戸を開けようと立った勇己の後ろで、ラズリはわかったという感じでこちらを見ていた。
「どうしたの勇己? 話し声が聞こえてくるんだけど」
勇己が戸を開けると、姉ちゃんはそう言いながらずかずかと入ってきた。
「誰もいないじゃない……あ、この子か。勇己が拾ってきた兎ちゃんって」
部屋に入ってくるのも勝手なら、ラズリを拾い上げるのも勇己の断りなしだ。もっとも、当の勇己は兎としゃべっていたことががバレたのではないかと冷や冷やもので、その勝手を怒るどころではなかったのだが。
「うわ可愛い。おとなしくていい子だねー」
撫でくりまわしたりするがラズリはされるがままで、勇己もオロオロするばかりで割り込むことはできなかった。
「なに? 勇己、この子に話しかけてたの?」
ギクリとする勇己。
「まあ可愛いもんね。可愛がりたくなるわー。でも、あんまりペットとばかりしゃべる寂しいヤツにはなるなよ。お姉ちゃんもいるんだしさ」
ついでのように勇己の頭もなでなでして、一人合点したらしい姉ちゃんは嵐のように去っていった。
「危なかった……」
と胸をなでおろした瞬間、今度は声もなしに戸が開けられた。
「あ、そうだ。飼い主捜し、お姉ちゃんも手伝うよ。写真撮って、貼り紙出すとかしようか」
「うわっ、勝手に入って来るなよ」
勇己は思わずラズリを自分の後ろに隠すようにした。ラズリがまだおとなしくしていてくれて助かった。
「ごめんごめん」
悪いと思ったのか、姉ちゃんは今度は中には入ってこなかった。
「貼り紙かぁ。その時は頼むかも」
「わかった。それじゃあね」
また次があるかもと思ってしばらく息をひそめていた勇己だったが、心配するまでもなく姉ちゃんは自分の部屋に戻ったようだった。
「もし仲間が近くにいるんだったら、貼り紙とかもいいんじゃない?」
今度は声を潜める勇己であった。
「うーん……それは、あんまり……」
ラズリは困ったように目を伏せた。せっかくいい案だと思ったのにと、勇己は声を潜めるのを忘れて詰め寄ってしまう。
「どうしてさ」
「一応わたしたちって宇宙人だし、そういうのをあんまり大っぴらにするのはよくないかな。それにあいつらがそれを見つけたら、わたしたちの方が狙われることになっちゃう」
その結果どうなるかまで想像した勇己は、うんざりしたようにうなだれた。アレはもう、やりたくない。
第2話
宿題は解決しないままその日は眠ってしまい、次の朝。もちろん今日も学校だ。
「オレ学校だから、お前はおとなしく家で待ってろよ」
手早く着替えながら、勇己はようやく目を覚ましたらしいラズリに声をかける。
「いや」
まだ眠いからか、ラズリの返事は不機嫌そうだ。
「また仲間を探すのか? 一人じゃ危ないだろ。お前小さいし」
ちょっと言い方がキツかったかと思った勇己だったが、その心配はラズリの返事に吹き飛ばされた。
「わたしも勇己と一緒に行く」
もうしゃべり方ははっきりとしている。寝ぼけているわけではない。しかし、寝ぼけていようがいなかろうが勇己には受け入れられない話だ。
「学校にはペット持ち込み禁止だ。見つかったらオレが怒られる」
「ぬいぐるみのフリしてカバンの中にいるから」
「それも禁止だ。没収されたら返してもらうのが大変だし、オレが変なやつ扱いされる」
あまり長話していると遅刻して、これまた怒られてしまう。勇己は振り払うかのように部屋を出ようとした。しかし、ラズリは行かせないとばかりに勇己の足にしがみついた。
「勇己と一緒がいいの。もう一人は……いや」
うるんだ瞳で見上げられて面倒になった勇己は、ラズリをカバンの中に詰めこんだ。
「窮屈とか文句言うなよ」
返事はない。潰れてしまっているのではないかと心配になったが、外でカバンの中身を取り出すわけにはいかなかった。
学校は昨日の騒ぎの噂でもちきりだった。大規模な玉突き事故とされているようだが、怪獣に立ち向かったヒーローを見た人がいるなどという都市伝説のような話もあって、その横を通り過ぎた勇己がヒヤリとしたところで。
「おはよ」
後ろから肩を叩かれて、変な声を上げてしまった。振り返ると、眉をひそめた淳二がそこにいた。勇己はとっさに謝る。
「無事だったみたいだな」
「ああ。昨日はごめん」
「けっこうな事故だったんだろ? そんな時に財布なんて。命あっての物種って言うぜ?」
心配してくれてはいるが、なにか淳二の上から言っているような感じが気に入らない。思わず勇己は反抗してしまう。
「だって今月分の小遣いだぜ? なくしたらマンガとか読めなくなっちゃう」
「それくらいなら、おれが読んだ後貸してやるから待てばいいだろ」
「あ、そうか」
うまく流されて、勇己の怒りは冷めてしまった。そもそも財布を落としたというのが嘘なのだから、後が続かない。
臨時の全校放送で昨日の事故があったことから交通事故に気をつけるように告げられて、いつものように授業が始まった。
しかし多くの生徒が噂話で授業に身が入っていないのは、雰囲気からも明らかだった。噂話に加わりはしなかったが、勇己もまた考えるともなくボーっとしていた。
ラズリの話によれば、昨日のようなことはまた起こる。それを知っているのは世界でただ一人、勇己だけだ。
でも、いったい何が本当なのだろう。そもそも宇宙人なんて、本当にいるのだろうか。
あんなの、嘘な方がいい。でもラズリはここにいて、今はおとなしくカバンの中にいるが、今朝もああだこうだしゃべっていた。
嘘じゃないならば、また関わらなくてはいけないかもしれない。アレをまた……
「魚住」
「はいっ!」
名前を呼ばれた声だけが突然耳に飛び込んできて、反射的に勇己は席を立った。しかしそこまでの授業など何ひとつ耳に入っていなかった勇己には、なぜ呼ばれたかがわからない。
「25ページ、問2」
斜め後ろの席からこそっと淳二が教えてくれた。助かった、と思ったが、授業を聞いていなかった勇己はそれに答えることができなかった。小言をひとつくらい、勇己は着席を許される。
座りしな、斜め後ろの淳二に軽く手を上げた。おかげで何ひとつ聞いていなかったのはバレずに済んだ。やはり持つべきものは友だ。
その授業が終わって昼休み、いい加減ラズリのことが心配になった勇己は、カバンを抱えて屋上に出た。その様子に早退を疑われたりもしたようだったが、理由を言えない勇己は逃げるようにその場を離れ、そうして行きついた先が屋上なのであった。
教科書やノートを出し入れしたから潰れてしまってはいないかと思ったが、それは避けて筆入れの下に器用な格好で入っていた。
「大丈夫か?」
昨日の姉ちゃんのこともあって、勇己は声を潜める。
「平気」
そう言いつつもラズリはしばらく息苦しそうだった。もうちょっと丁寧にやってと文句を言う。何をどう丁寧にすればいいかはわからなかったが、勇己は謝るしかなかった。
「人がいっぱいいるところに来れば少しは何かわかるかもって思ったけど、さすがに甘かった」
「聞いて回れないからな、こんなこと。帰るか?」
目的がそれであれば、収穫がないのならば帰ってもらえるかもしれない。そう期待した勇己だったが。
「それは仕方ないからそれとして、わたしは勇己と一緒がいい」
面倒だと思いながら、勇己はラズリをカバンの中に戻した。教科書やノートを整理して並べて、さっきよりも少し広く入れるように。
教室に戻った頃には、もう昼休みが終わる直前だった。
「どうしたんだお前? カバンなんか持ち歩いて」
淳二に声をかけられて、反射的にカバンを背後に隠す。それがかえって不審に思われたのか、淳二は回り込んでカバンをのぞき込もうとする。
「あ、あのさ。さっきはありがとう。おかげで授業全然聞いてなかったのはバレずに済んだ」
時間稼ぎにもごもご言っているうちに昼休み終了のチャイムが鳴って、とりあえずその場はしのげたのだった。
淳二にはああ言った勇己だったが、結局午後の授業もまったく身に入らなかった。指されることがなかったのが、幸いだった。
「どうする? 今日はどこの部活見てく?」
放課後になると、昨日と同じように淳二が部活の見学に誘ってきた。しかし淳二にとっては昨日と同じでも、勇己には昨日と今日とはまるで違いすぎている。部活のことなど、考えられなかった。
「ごめん。今日は帰る」
机の横に引っ掛けてあったカバンを手に取って、勇己は足早に下足箱へ向かう。それに淳二もついてきた。
「勉強大変で部活どころじゃないとかか? それはちょっとビビりすぎだと思うけどな」
どうやら淳二は、昼前のことを勇己が授業についていけないためのことと思ったらしい。隣を歩きながら授業さえちゃんと聞いていればだいたいどうにかなるなどと言ってくれているが、それはただの姉ちゃんの受け売りだ。
「まあ今日分は今日中に取り返しておかないと、後が危なそうだ。だから今日はパス。ごめんな」
淳二がそう思っているのならばそう思わせておこうと話を合わせて、勇己はそのまま学校を出た。淳二は体育館に行くらしく、下足箱で別れた。
とは言え、実際勉強をがんばるつもりなんかない。何も手につかないだけなのだ。カバンの中にいるもののせいで。
勇己の足は昨日の現場に向かっていた。一日経って大型トラックなど散乱したものは片づけられていたが、板でふさがれたビルの窓や折れた街路樹などが昨日の惨事が嘘でないことを物語っていた。
昨日と同じようにオフィスビルの間に隠れて、カバンからラズリを取り出した。
「犯人は現場に戻ってくる、なんてことはないか……」
唯一の手掛かりと思って来てみたものの、わかることは何もなかった。ラズリもしばらくきょろきょろ辺りを見回していたが、諦めたように勇己の手に飛び乗った。
「ねえ勇己。ここら辺、回ってみてくれないかな」
「何か、当てがあるのか?」
期待した勇己だったが、残念ながらラズリの答えは否であった。
「どうして昨日アレがここに現れたのか。もしかしたらこの近くに仲間がいるのかもしれないし、他の何かがあるのかもしれない。それだけなんだけど……」
ラズリは遠慮をしているのだろうか、上目遣いのように勇己を見上げる。
「何もしない訳にはいかないし、行こうか。それっぽいもの見つけたら、言えよ?」
前を向かせるようにラズリを抱えなおして、勇己は表通りに戻った。ビル街から川沿いに出て、土手の上を何となく山の方に向かって歩いていく。
しばらく歩くと、左手に学校が見えてきた。学校から向こうは家がまばらになってくる。そっちには何かがあるとは思えない。今日のところは諦めて帰ろうかと思ったその時。
激しい衝突音とともに、前方に土煙が上がった。あそこは、確か……
「行ってみよう、勇己!」
ラズリのその声よりも早く、勇己は駆けだしていた。建設中のショッピングモール、あそこでは父さんが現場管理の仕事をしているはず。もしそんなところが昨日のお化けのようなのに襲われたとしたら。
土手を降り、最近になって道幅が広げられた真新しい道路を走る。作業着姿の人たちが逃げ出してくるのは、昨日と同じだった。
その向こうには、黒い大きな影がいる。長い腕を振り回しているようだった。間違いない!
「ラズリ!」
ダンプカーの陰に回り込んで、ラズリの首からバンドを外して手首にかける。
「いくよ、レッツ!」
ラズリが跳ねてバンドの飾りに触れて、
「「メタモルフューズ!」」
ラズリがそこに吸い込まれて、入れ替わりに光る布のようなものが飛び出し、正面から勇己の身体を包んだ。
後ろからジャケットが被せられ、さらに前から腕のバンドと同じデザインの太いベルトが巻かれ、そこからスカートが伸びて。
「やめろ!!」
ジャンプでダンプカーを飛び越して、腕をめがけて殴りつけた。パワーショベルのお化けのようなそれは、バランスを崩して横倒しになりそうになった。
「っ! ダメ!」
その下には、プレハブの建物があった。工事事務所、父さんの仕事場だ。
もう一度ジャンプして、アームを横なぎに蹴り飛ばす。しかし、倒れるのは止められない。
ズン!
一瞬、地震のような揺れが襲い、また土煙が上がった。口の中がざらついたが、土煙に向かって駆けださずにはいられなかった。
アームはプレハブをわずかにそれていた。そして、そのプレハブにはもう誰も残っていないようだった。
ホッとしている間に、パワーショベルのお化けは起き上がっていた。キャタピラがおかしな向きを向いていたが、見る間に元に戻り、こちらに突進してきた。
「危ない、避けて!」
腕のバンドからラズリが叫ぶ。しかし、そうすればプレハブが踏みつぶされてしまう。
「父さんの仕事場を、壊させたりしない!」
高々と上げられたアームが、真っすぐ振り下ろされる。
ガシッ!
襲ってきたバケットを、両手で正面から受け止めた。衝撃が全身を駆け抜け、両足が地面にめり込む。力比べだ。
キャタピラが空回りして地面をこする音が響く。アームの根元からも金属がきしむ嫌な音がする。その力に押さえつけられて一歩も動けない。
押し込まれてバケットが頭に触れそうになった時、上で何かが破裂するような音がした。そして上から押さえつけていたアームが、その動きを止めた。
「このおっ!」
押し返したはずみで、お化けは真後ろにひっくり返った。キャタピラが歪んだりしているが、今度はすぐには起き上がれなさそうだ。
「決めるよ!」
ラズリの声に、バンドの飾りに触れて、
「「デフュージョン・ストーム!」」
伸ばした両腕の先から竜巻が起こり、お化けを飲み込む。轟音に混じって叫び声のようなものが上がり、そして竜巻が収まった時にはすべての音がやんだ。
「勇己、追いかけよう」
「父さん!」
勇己はプレハブの中に飛び込んだ。全部の部屋をのぞいてみたが、誰もいない。みんなちゃんと逃げられたのだろう。
「よかった……あ、元に戻らないと」
飾りにタッチすると、ラズリも諦めたように応じてくれた。
「「デフューズ」」
電話機を勝手に借りて父さんの携帯電話に電話をすると、電話番号からそれがわかったらしく、怒られてしまった。すぐに帰るように言われたので、面倒なことになる前に勇己は逃げるように家に帰った。
工事現場を出てからずっと不機嫌そうに口数が少なかったラズリだったが、家に帰ると小言を始めた。
「昨日も言ったけど、デフュージョン・ストームは乗っ取られたのを分離するだけなの」
「ごめん」
「乗っ取ったやつを捕まえないと、また明日だってあんなのが出るかもしれない。だからあの時、そっちを追ってほしかったの」
ラズリの言うことももっともだった。そこまで言いはしなかったが、追いかけていれば仲間が見つかる手がかりもあったのかもしれない。
「そうだったな。オレ、父さんのことしか考えてなかった」
夢中だった。嫌だったはずのメタモルフューズを、何のためらいもなくやってしまうほどだった。でもそれは、勇己一人だけのものではない。
そう思い至った時になって、ラズリの方がごめんなさいと謝った。
「わたしも、わたしのことしか考えてなかったよ。そういう勇己だからわたしを助けてくれてるのに、わがまま言ってごめんなさい」
いいよ、と答える代わりに頭を撫でてやる。しばらく無言でそっと撫でて立ち上がると、ラズリはもっとしてほしそうに勇己を見上げた。
「食べるもの持ってくるから、ちょっと待ってろ」
勇己は部屋を出て、台所に向かった。
母さんが夕ご飯の支度をしている後ろで、冷蔵庫をあさる。玉ねぎがふたつ残っていた。
「玉ねぎ、もらっていい?」
「兎ちゃんにあげるの?」
振り返りもしないで問う母さんにそうだと答えると、慌てたようにこちらに来た。
「動物に玉ねぎは、確か毒だったはずだからやめなさい。そうね……」
勇己を押しのけて、母さんが冷蔵庫を物色する。それからジャガイモを取り出して、洗って渡してくれた。
「何なら食べられるか、お母さんもよく知らないから、ちゃんと見ててダメそうだったら吐き出させるとかしなさいね」
「うん。ありがとう」
スープ皿に水を入れて、勇己は部屋に戻った。
昨日と同じように、一心不乱にジャガイモをかじるラズリ。どうやら何ともなさそうだ。
「どうしたの? ずっと見てて」
半分くらいかじって、ようやく勇己がずっと見ていることに気づいたようだ。
「食べちゃいけないものじゃなかったか、気になって」
「平気だよ。これもおいしい」
要らぬ心配だったらしい。残り半分もシャリシャリ食べきってしまい、満腹で眠くなったのか丸くなって眠ってしまった。そのうち母さんの呼ぶ声がして、勇己はラズリをひと撫でして部屋を出た。
夕ご飯はコンソメスープだった。煮込んだ玉ねぎが甘くておいしい。これで動物には毒だというだからわからないものだと不思議に思いながら、勇己はおいしくいただいた。
食べ終わって部屋に戻り、何となく眠っているラズリをつま先で突っついていると、部屋の戸がノックされた。入ってきたのは、父さんだった。
そっとラズリを撫でてから、ベッドに腰掛ける。勇己は向かい合わせに椅子に座った。
「昼間はすまなかった。一方的に怒ったりして」
謝られるのが意外で、勇己の返事が遅れた。
「お父さんのことが心配で来てくれてたのに、あんなふうに言って悪かった。危ないとしか、思わなかったんだ」
「ううん、オレの方こそごめんなさい。でも、父さんがケガとかしてなくてよかった」
そう言うと、おでこを突っつかれた。
「生意気なこと言って。勇己の方こそ、無事でよかったよ」
勇己の頭を撫でてから、しゃがんでラズリをのぞきこんだ。ラズリはいつの間にか起きていたらしく、おとなしく真っすぐ父さんのことを見ている。
「へえ、目が青いんだ。これは珍しい、のかな」
「外国兎? なのかな」
変な話になりそうだと身構えた勇己だったが、そんなことはなかった。
「父さんも職場で聞いてみているけど、こんな特徴があるのなら、それを言った方が伝わりそうだな」
「探してくれてるんだ。飼い主のこと」
「まあね。職場のコミュニケーションというヤツだ」
「ありがとう」
勇己がお礼を言うと、父さんは立ち上がってもう一度勇己の頭を撫でた。
「お前ががんばってるんだから、お父さんも少しはがんばらないとな」
そう言って部屋を出ていった。閉められた戸を見ながら、勇己も改めてがんばろうと思ったのだった。
「勇己の家族って、みんなあったかいね」
父さんがいる間はおとなしくしていたラズリが、膝に飛び乗ってきた。何と言っていいかわからず、勇己は黙ってラズリの背中を撫でる。
「それに、撫でるのが大好き。勇己のことも撫でるし」
ギクリとして一瞬手を止めたが、でも何もしないのもなんだか手持無沙汰で、勇己はやはりラズリを撫でてやった。
「絶対、お前の仲間、見つけような」
「うん」
ラズリは勇己の脚に鼻を擦りつける。かわいいな、と思ったが、それは言葉にはしない。
第3話
翌朝。起きて朝ご飯を食べに部屋を出た時にはまだ丸くなって眠っていたはずのラズリが、戻ってきて着替えようとした時には見えなくなっていた。
こんな時にどこに行ったのか。勇己は慌てて部屋の中をあれこれ探した。机の下にもベッドの下にも、タンスの中にもいない。
もう遅刻だ、と思って乱暴にカバンを手に取る。それが机の角にぶつかったとき、小さな悲鳴のような声が聞こえた。
「痛いじゃない、勇己」
探し物は、準備万端とばかりにカバンの中に潜んでいたのだった。お利口さんでしょといった様子で澄ましているが、焦ったこちらの気持ちなんかちっともわかっていない。
しかしそれに文句をつけている暇は残されていない。勇己は無言でカバンを閉め、学校へと駆け出した。
場所が場所だったせいか、昨日のことは一昨日ほど大騒ぎにはなっていなかった。人が来て何かを調べているという噂があって何かと思ったが、よく聞いてみるとただの事故調査で、勇己は自分たちのことが知られなくてホッとしたような、手掛かりが得られなくて残念なような、ぐちゃぐちゃな気分になった。
中学に上がると、勉強の科目が色々増える。そのひとつが「情報」だ。
勇己の家にもパソコンはあるが、父さんは家に仕事を持ち込まない主義だし、母さんや姉さんはスマホで十分だと言うしで、押し入れに片づけられてしまっている。勇己も興味はなくて、触った記憶などほとんどなかった。
今日の授業は、そのパソコンで何ができるかの説明と、ちょっと触ってみるといったものだった。パソコンを使えばネットで調べ物ができるということを、勇己は初めて実感した。
休み時間になってそれを淳二に言うと、今さらかと笑われた。淳二の家では、スマホに慣れないお母さんがパソコンで料理のレシピを探しているらしい。
「で、よくわからない調味料を買ってこいとか言われて、結局おれもネットで売っている店を調べなきゃいけないとかな」
そう言って肩をすくめる淳二に、勇己は素直に感心した。
「ネットってそんなこともわかるのか。って言うか、お前ってそうやって手伝いなんかしてるんだな」
「ま、今どきの男子だからな」
馴れ馴れしく肩を叩かれてむっとした勇己だったが、同時に思いついたことがあったので、それは流してやった。
昼休み、今日もカバンを抱えて屋上まで上がった。周りを見回して誰もいないことを確認して、カバンからラズリを取り出す。昨日一日で学ぶことがあったのか、今日は伸びた状態で収まっていた。
「なあ、お前ってつながることができるの、人間だけなのか?」
ようやく外に出られて体をほぐしているらしいラズリに、勇己は聞いてみた。
「うーん…人間って言うか、意識をつなげるもの?」
また寝ぼけているのではないかと言いたくなるほど、答えになっていない。
「だから、どんなものとならつなげられるんだよ? 例えば動物とか、機械とか、そういうのともオレとみたいにしゃべったりできるのか?」
まともに話を聞いているのかと怒りを覚えた勇己は、乱暴にラズリをつかんで正面に向きなおさせた。
「相手の意識の程度かな。動物だと話というほどには通じ合えないよ」
わかるようなわからないような返事だったので、業を煮やした勇己はさっき思いついたことを言ってみた。
「もしお前がパソコンにつながれたらさ、ネットからいろんなことがわかるんじゃないかって思うんだけど、どうだ?」
「パソコンって何?」
そう来たか、とズッコケそうになった勇己だったが、言われてみれば知らないのも無理はない。勇己は授業で聞いた話を思い出しながらがんばって説明してみた。意外と覚えている自分にちょっと感心したほどに、がんばった。
「機械には意識ってものがないから、きっと無理だと思う。でも、勇己がそう言うのならば、試しにやってみようよ」
授業で聞いた話では、ネットには信頼できない情報もたくさんあるから注意が必要だという。しかし、宇宙人がいるとなどというそもそも信頼できないような話は、きっとそういうところにしかないのだろう。
家のパソコンを使おうにもケーブルとかネット接続とかが面倒らしく、自分でできる気がしない。そうとなると、学校のパソコンを借りる方が早いだろう。確か、パソコン室を使う部活もあったはずだ。
「パソコン室を使う部活? プログラミング部だっけ?」
相変わらず部活見学に勇己を誘ってくれる淳二にそれを言うと、やはりと言うか、意外がられた。
「まさか文化部とはね」
「決めた訳じゃないけど、面白いかもしれないって思ってさ」
本当はそうとも思っていない。ただ、パソコンを触る機会がほしいだけだ。もしもうまくいくのなら、仮入部でもするなり父さんに頼んで家のパソコンを使わせてもらうなりしようと目論んでいるだけだった。
「全然知らないのを見てみるのもいいかもな。まだ部活決めるまで日数はあるし」
そんな訳で淳二と二人でパソコン室、もといプログラミング部に行ってみた。
使われているのは授業と同じパソコンなのだが、画面に映っているのはなんだかわからない文章らしいものだったりで、何となく気圧されてしまう。
顧問の先生にパソコンは全然使ったことがないことを伝えると、電源を入れるところから付きっ切りで見てもらえることになった。それではネットで調べ物どころではないが、仕方がないだろう。先生が淳二の方についている隙に、勇己はカバンを机の下の本体脇に押し込んで口を開け、中のラズリに小声でこれがパソコンだとだけ伝えた。
今日授業で使ったばかりなので、電源を入れるくらいはわかる。起動してネットを見ようと思ったところで、先生が勇己の方にやってきて、それは失敗に終わった。
それからプログラミングに使うアプリを呼び出して、教えられるままに英語みたいな違うようなアルファベットの文を何行か入力する。すると、隣の枠の中で四角形が描かれた。
「コンピューターってのはね、こうやって自分で作った命令を使っていろいろする道具なんだよ。今やってるのは画面の中だけだけど、他の機械とかに命令して動かすこともできるんだ」
それがプログラミングだと説明してくれる。難しそうだけど、面白いかもしれない。先生の話についていくのがやっとということもあって、勇己はしばらく本来の目的などすっかり忘れてしまっていた。
「じゃあ、少し自由にやってごらん」
最後にそう言うと、先生は教壇の方に戻っていった。そこに部員が質問に行ったのか、落ち着く間もなくそちらへ歩いていった。
隣を見ると、淳二は「1+2=3」などとプログラミングするまでもない当たり前のことをやって遊んでいる。やっと本来の目的を思い出した勇己は、ネットを見てみることにした。
ショッピングモールの名前と、24時間以内という条件を入力して、検索してみる。結果が並べられ、最初の数行らしい文章が表示されるが、何が何だかわからない。これにラズリがつながることができれば、何かわかるだろうか。
机の下をのぞきこんでみるといきなりラズリと目が合って、驚いて頭をぶつけそうになってしまった。
「どう?」
「やっぱりダメ。これにも意識ってものはないみたい」
「そう」
あまり長くそんな姿勢でいることも不自然なので、素っ気なく返事をして起き上がり、ネットはやめた。
描いた四角形の色番号を変えてやるとそのとおりに描きなおされるので、色番号だけ変えたものを何行も並べてやったら目がチカチカして大変だった。
下校時間になって、淳二と二人で学校を出た。興味を持ってくれる生徒が少ないらしく顧問の先生から仮入部の誘いがあったが、二人ともそれはご遠慮していた。
「勉強していろいろできるようになると、面白いのかもしれないけどな」
淳二のその意見には、勇己も同感だった。でもそこまで勉強しようと思えるかというと、どうだろう。
大通りに出て、並木道の歩道を歩く。斜め上を見上げながらだいぶ葉っぱが出てきたなどと思って歩いていたら、オフィスビルの窓ガラスに反射された夕日が目を刺して、さっきの疲れ目に効いた。
その時!
前方のオフィスビルから黒い何かが落ちてきた。大きな音とともに襲ってきた地面の揺れに、足がぐらつく。
そしてそれは、細いたくさんの足のようなもので立ち上がり、こちらに向き直るように回った。これは……!
「逃げよう!」
勇己は淳二の手を取って、元来た道へと駆け出した。カバンの中身が暴れていたが、それは無視する。走り出して、淳二にもそれが危険だということがわかったようだった。
「あれってまさか、この前の噂の怪獣……?」
「わからない」
遠くへ走ろうとしていた勇己に、いつの間にか勇己を追い抜いた淳二が右手を指した。
「とりあえずこういう時は避難場所だ!」
うなづいて二人は学校に駆け込んだ。同じように逃げてきた人の流れに押されるように、桜並木からグラウンドに押し込まれる。その向こうでは派手に砂ぼこりが上がっていた。
カバンの中身は勇己の名前を呼んで暴れている。たくさんの人の雑踏やざわめきのために隣の淳二には聞こえていないようだが、いつまでもそのままにはしておけない。
「ごめん、オレちょっとトイレ!」
「こんな時にかよ」
「しょうがないだろ、こんな時でも行きたくなっちゃったものは」
「そうだな、人が増える前に行っておいた方がいいか。おれはここで待ってるからな」
そう言った手前、一度は昇降口の方に向かった勇己だったが、校舎には入らず裏門へと回った。こちらからも、たくさんの人が逃げ込んでくる。それをよけながら勇己は大通りへと向かおうとしたが、なかなか思うように進めない。
「勇己!」
どうやって中から開けたのか、カバンの開いた口からラズリが首を出した。
「わかってる! でも……」
「あっち!」
焦る勇己に、ラズリは出した首で別の方を指した。一旦、路地に隠れる。
「勇己、メタモルフューズしよう」
「ここでか? まだ遠いだろ」
昨日は仕方ないとして、できる限りそれはやりたくない勇己は抵抗する。
「でも、このままじゃ人がいっぱいで行けないよ。メタモルフューズして建物の上を跳んでいけば」
確かに、それだけのジャンプ力はある。それはこれまでのことから瞬時に理解できた。しかし。
「ちょっと待て! それじゃ目立ちすぎだろ。それにスカートの下丸見えじゃないか!?」
思わずカバンの中からラズリを引っ張り出して、ぶんぶん振り回す。ラズリも何か叫んでいたが、
突然壊れた扇風機のような音とともに辺りに砂ぼこりが舞った。二人してせき込む。
「こんな時、上なんて見る人いないよ! とにかく急がないと!」
にらむように勇己を見据えるラズリ。根負けした勇己はその首からバンドを外して、左手にかけた。一応左右をきょろきょろして誰も見ていないのを見て、
「レッツ!「メタモルフューズ!」」
ラズリと入れ替わりに出てきた光に包まれて、姿が変わる。
「行こう!」
助走もなしに、その場から全力でジャンプ。
「って、どこまで跳ぶんだぁ!?」
加減もなくジャンプしたせいで、どこに降りるかわからない。この勢いでは普通の家だったら屋根を突き抜けてしまうのではないだろうか、と心配になった時には落下に転じていた。何もない空中ではもちろん、方向転換などできるはずがない。
「あれだ!」
オフィスビルの屋上から伸びた避雷針をつかんで、なんとか屋上に着地。しかし、そこには異様な光景があった。
おそらくふたつ並んで据え付けられていただろう機械のひとつが土台から引きちぎられたようになくなっていて、その先の手すりが大きく壊れている。もしかするとさっき見たものは、ここから落ちたのかもしれない。
残っている手すりから身を乗り出して下を見ると、黒っぽいがそれらしいお化けがうごめき、砂ぼこりが上がっていた。もうみんな逃げたのか、道には人はいないようだ。
「やめろ!」
飛び降りざま、お化けに蹴りを入れる。反動で軽くジャンプして、今度は道路に着地。
足が細くて支えられなかったからか簡単に潰れたが、その分足が多いからか起き上がってくるのも早かった。前かがみのような姿勢をとって、
「ぶわっ!」
熱風を浴びせてきた。熱さと砂ぼこりのせいで、前が見えない。やんだと思って顔の前で組んでいた両腕を下げると、目の前には足の一本が迫ってきていた!
「うわぁっ!」
弾き飛ばされ、道路を転がる。起き上がると今度は、再び熱風が襲ってきた。顔を覆いながら横へとよけようとしたが、向きを変えて追いかけるように熱風を浴びせてくる。
「えっ!?」
前が見えなかったのと風の音とで気がつかなかったが、風にあおられた街路樹が根元から折れて倒れてくる!
思わずジャンプしてよけようとしたが、両足が地面から離れた瞬間、風圧で吹き飛ばされてしまった。おかげで街路樹の下敷きにはならずに済んだが、着地できずに打ちつけられた背中が痛む。
風がやんで、またしても足音が近づいてくる。今度は捕まる前に後方に逃れることができたが、これでは近づけない。
「これ、なんとかできない?」
たまらずバンドのラズリに声をかけたが、
「正面から撃ち合えるようなそんな便利なものなんて、ないよ……」
と、こちらも困った様子だった。正面から……? 閃いた勇己は、風がやんだ瞬間を見計らって横へと跳んだ。
「逃げるの!?」
ビルの陰に隠れると、ラズリが悲鳴のような抗議のような声を上げた。
「最初に上から行った時は蹴りが入ったでしょ。それをもう一度やるんだ」
「わかった。それでうまく潰れたら、その隙に」
お化けはこちらを見つけられていないからか、めちゃくちゃに風を吹き散らしている。ビルの間を吹き抜けるそれも上昇に利用して、別のビルの屋上へと跳んだ。
熱風を止めた瞬間を見計らって、
「いっけえぇ!」
今度は両足で踏みつける。不意打ちが成功して、再びお化けは地面に這いつくばった。反動でジャンプして着地するまでにそれを見て取って、すかさずバンドの飾りに触れて、
「「デフュージョン・ストーム!!」」
熱風を起こさせる暇も与えず、竜巻を浴びせる。後にはぐちゃぐちゃになった機械が転がっていた。
「勇己!」
お化けの方が動かなくなったと見て、ラズリが声を上げる。周りを見回したが、もうそこには誰もいなかった。一旦ビルの陰に隠れる。
「逃げられた?」
「みたいだね……。しょうがない、帰ろう」
もう一度飾りに触れて、
「「デフューズ」」
元の格好に戻って、ふと気がついた。
「帰れないよ、淳二をほったらかしたままだ!」
乱暴にラズリをカバンの中に詰めこんで、勇己は学校へと走った。学校では事故は収まったようだから帰るようにという放送が流れていて、またしても勇己は学校から吐き出される人波に逆らわなければならなかった。
「ずいぶん長いトイレだったな」
その分人を待たせて迷惑だっただろうと、ずっと待たされた淳二は嫌味を浴びせてくる。しばらくそれを聞き流して、ようやく勇己は口をはさんだ。
「何だったんだろうな、さっきのは」
「さあな。ビルから室外機が落ちた事故だから片付くまで待っているようにとか、言ってたけどな」
どうやらこの間と同じように、事故ということになっているらしい。
「でもさ、落ちただけじゃないよな。アレなんか動いてたよな?」
さっきまで一緒にいた友達も同じようなことを言っていたと、そう淳二は付け加えた。これは見間違いでごまかせそうにはない。
「そうだよな。こう、見た瞬間危ない逃げなきゃって思った」
適当に話を合わせておく。淳二はそれ以上のことは知らないらしく、何だろうなと答えただけだった。
一緒にいた他のみんなはどうしたのかと聞くと、もう帰ったと言う。淳二は一人で勇己を待って残っていたらしい。悪い、と謝ると、嫌味が再び始まってしまった。
「お前って事故のたびに何かやるよな。財布落としたりさ。何かこう……悪運に取りつかれてるとかか?」
思わず勇己はひっと息をのんで、カバンに目を落とした。嫌な言い方ではあるが、カバンの中にいるものがそれだと言える。
「どうした?」
その驚きように淳二は不審を感じたようだったが、さすがにカバンに何かがあることまでは気がつかなかったようだ。
「嫌なこと言うなよな」
ごまかすようにことさら口を尖らせて見せた勇己に、淳二はへらへら謝って返した。だいぶ道もすいてきたところで、二人も学校を出た。
学校ではそれほどでもなかったが、大通りに出ると台風の後のように木の葉が散らかっている。
雨の後には水たまりになるところに木の葉がたまっていて、前を歩く人がそれを踏んでうっかり足を滑らせて転びそうになっていた。笑っては悪いと思って我慢しようとしたが、勇己も淳二も同じように肩を震わせるのをお互いに見つけるともうこらえきれなくて、二人揃って大声上げて笑い転げてしまった。
さっきの事故現場は通行止めになっており、いつもと違う道を帰らなければならなかった。そこで勇己は淳二と別れ、路地へと入っていった。
誰もいなくなったところで、カバンからラズリを取り出して抱きかかえた。狭いカバンの中よりも外の方がいいらしく、ラズリはご機嫌そうに腕や足なんかをパタパタ振り回している。
「ところでさ、乗っ取ってるやつってのはどんなのなんだ? お前と同じような兎とかか?」
探せ探せとラズリは言うが、勇己には何を探せばいいのかわからない。
「うーん……わからない」
「じゃあどうやって探せって言うんだよ」
わからないのに探せとは無茶な話だ。思わず大きな声を上げてしまい、それに自分で驚いて首をすくめた。それに合わせてか、ラズリも声を潜める。
「あいつらは何でも他人を乗っ取るから、自分が気に入った何かの姿でいるの。だからどんなのかはわからない」
だから、その場から逃げる何かを見つけて追いかけるしかないのだと言う。
「えぇー……オレ嫌だぜ、そんな何度も何度もアレやるの」
これまで一度もそういうものを見つけられていないのだから、これはなかなか終わらせるのは大変そうだ。しかも弱音を吐いたところに、更なる追い討ちがかけられる。
「そうだよね。しかも相手は一人だけじゃないし、どうしたらいいんだろう……」
「え!? 逃げるのを捕まえたら終わり、にはならないのか?」
「うん、今日のは多分今までのと別物。近づけさせないなんてやり方とか、そういうのって人それぞれだから」
考える前からげんなりする。こうなったら、
「とにかくお前の仲間を見つけないと、だな」
仲間が見つかるまでという約束を果たすしか、勇己の逃げ道はないのだろう。
「そうだね。そうすればきっとどうにかできるよ」
ラズリは違う意味でとらえたらしく、元気な返事を返してくれた。
第4話
家に帰って手を洗ってカバンを部屋において、まずはラズリの食べるものをあさりに台所へ行った。母さんは他に何かしているのか、台所にはいない。冷蔵庫の脇に買い物袋が置いてあったので、中をのぞいてみると。
「げ……」
勇己の嫌いな小松菜が入っていた。炒め物かお浸しか、何にするかはわからないが、あの苦みが好きじゃない。それを思い出して顔をしかめた時に、閃いた。今日は冴えているかもしれない。
「母さん、小松菜あげていい?」
黙って持っていくとさすがに怒られそうなので、どこかにいるはずの母さんに声をかける。返事がなければ、それは聞いてなかった方が悪い。
「ハイハイ、半分だけで足りるならね」
どうやら嫌いなものをラズリに押し付ける作戦はお見通しだったらしい。まあ半分減るだけでもいいとしよう。袋から半分だけ取り出して、根の部分をちぎって捨てて、水洗いして持っていった。
そんな小松菜もラズリはおいしそうに食べてくれた。葉だけではなく茎まで残さずに。
それを横目に、勇己はカバンから教科書やノートを机の上に出す。空になったバッグの底には、白い毛が少し残っていた。ゴミ箱の上で逆さにすると、ふわふわと落ちていく。
「宿題出てるの、どれとどれだっけ……」
本にくっついていた綿毛を払いながら、宿題のある科目は机の上に、ない科目は本立てに仕分けていく。気がつくと、机の上に本の山ができていた。
「明日学校休みだからって、これはひどくない……?」
姉ちゃんから聞いてはいたが、これは想像以上だ。明日休みだと浮かれている場合ではない。夕ご飯前から口の中が苦くなった。
ご飯も済んで、宿題に取り掛かる。しかし、授業中も上の空だったときの科目など、さっぱりわからない。学校と違ってチャイムが鳴ればお終いということもないので、いつまでも終わることなく、むしゃくしゃばかりが膨らんでいく。
それもこれも全部、と思って脇を見ると、その元凶と目が合った。
「なに?」
問いかける声には、何の感情も込められていなかった。目がとろんとしているのは、さっきまで眠っていたからなのだろう。こんなのを相手にしても仕方がないと諦めた勇己は、もう一度机に向かった。せめてもの気分転換に、科目を変えてみる。
しかし、一度途切れてしまった集中力はもう戻らない。ひとつも終わらせることができないうちに投げ出してしまう。
「お前、邪魔」
乱暴にシャープペンを机に叩きつけて、じっと勇己を見ている兎に文句をつける。
「邪魔って、わたし何もしてないじゃない」
「何もしてなくても邪魔なの。集中できない」
「何それひどい。わたしがいるだけで悪いって言うの?」
気持ちに何かが少し引っかかったような感じがしたが、
「ああそうだ。お前のせいだ」
むしゃくしゃしていることに流されて、声を荒らげてしまう。後は言葉にもならず、にらみ合う二人。
それを破ったのは、部屋の戸を叩くノックの音だった。
「ちょっと勇己、何うるさくしてるのよ」
どうやら姉ちゃんの部屋にまで聞こえてしまったらしい。しまった、と思っている間に返事がないことに腹を立てたのか、姉ちゃんが扉を開けて入ってきた。不審そうに部屋を見回している。
「どうしたの?」
納得できないように、姉ちゃんは問いかけてくる。まさか兎とケンカしていたとは言えない。そう思ってちらりとラズリの方を見ると、姉ちゃんはそれを目ざとく見て取ったのか、部屋の奥に縮こまっているラズリを抱き上げた。
「お前、何かイタズラでもしたのかなー?」
額をちょんと突いたりしている。ラズリの方はいつもどおり、他の誰にもしゃべりかけずにおとなしくしている。
「なあ姉ちゃん、そいつ、預かってくれない?」
勇己の言葉に鋭く反応したのは、姉ちゃんよりもラズリだった。キッと勇己をにらむ。
「あれー? 誰にも触らせたくないくらい気に入ってるんじゃなかったの? ずっと一緒にいるし」
ねえ、などと言いながらラズリの顔をのぞきこむ。そのラズリは、やはり勇己のことをまっすぐ見ている。
「そんなことないよ」
その視線から逃れるように、勇己はそっぽを向いた。それでもまだ、視線を感じる。
「ふーん……いいよ、預かってあげる。こんな可愛い子を勇己だけ独り占めなんて、ズルいもんね」
姉ちゃんの方は何の疑いもなくラズリを引き取ってくれるつもりのようだ。片腕で胸に抱いたまま、頭を撫でている。
「ようし、じゃあ今日はお姉ちゃんと遊ぼうね。あ、何か食べる?」
「夕ご飯前に小松菜あげたからいい」
「あ、そう。じゃあ行こうか」
猫なで声で兎を撫でながら、姉ちゃんは自分の部屋へと戻っていった。そんな姉ちゃんの胸に、ラズリは頭をうずめるようにしていた。まんざらでもない、といったところだろうか。
「あーあ、スッキリした」
自分に言い聞かせるようにそう言いながら、ひとつ伸びをした。これで宿題も進むはず、と勇己はもう一度机に向かった。
しかし、そんなはずはなかった。いなければいないで、余計に気になってしまう。
何もない時のラズリはおとなしい。だから姉ちゃんのところで何かやらかすこともないだろうし、そもそも勉強の邪魔になることもない。そうわかっていても気になってしまうのは、やはり集中力が切れてしまったからなのだろうか。
「もう無理。やめやめ」
結局ほとんど宿題を進められないまま、その日は諦めて寝てしまった。
翌朝、ノックの音で目が覚めた。カーテン越しの光がもう明るい。そう言えば昨日はなかなか寝付けなかったような気がする。
戸を開けると姉ちゃんがいて、まだ寝ていたのかと呆れられた。
「私これから遊びに行くから、この子は返すね」
それだけ言ってラズリを押しつけて、姉ちゃんはさっさと出ていってしまった。
返されたラズリはとりあえず部屋に放っておいて、朝ご飯をもらう。リトルリーグをやっていた頃は休みの日も練習で早起きしていたし、こんなに遅い時間に朝ご飯なんて、調子が狂う。
そんな日に限って、母さんにお使いを頼まれてしまった。駅前の専門店にしか売っていない食材を買ってきてほしいと、買い物袋と小さな財布を渡された。
「お釣りで好きなもの買ってきていいから。それとも、掃除機かけてくれる?」
掃除のための厄介払いらしい。お使いの方がまだ楽そうだと判断した勇己は黙って買い物袋を受け取り、着替えるために部屋へ戻った。
戸を開けると、ラズリの視線が迎える。しかし、朝から一言もしゃべらない。
「買い物行くけど、お前も来る?」
それでも一応声をかけると、ラズリは買い物袋の中に入り込んできた。勇己が着替えている間も買い物袋の中からのぞいているだけで、やはり何も言わない。
家を出て、駅に向かってぼんやりと歩く。帰ったら宿題の続きをやらなければと思うとかなり憂鬱だ。こんな調子では、これから楽しいことなんて、できるのだろうか。
「お姉さん、優しかった」
ため息が出てしまったところに、突然ラズリの声が届いた。
「よかったな」
聞きとがめられたようでムッとして、つい声が尖ってしまう。
「いっぱい撫でてくれた」
ラズリの方も、似たような調子だ。相変わらず買い物袋の中から姿を見せようとしない。
「だったら、ずっと姉ちゃんのところにいればよかったじゃん」
「だってしょうがないでしょ? 遊びに行くって言うんだもん」
歩きながらのぼそぼそした会話は、向こうからの歓声で途切れた。角を曲がった先には、つい最近までは毎週通っていたスタジアムがある。今日は練習試合でもしているのだろうか。
勇己は足を止めて、スタジアムを見上げた。ここのところいろいろありすぎたせいだろうか、つい一か月くらい前のことさえもずいぶん遠くなってしまった気がする。
視線を戻すと、いつの間にかラズリが袋から首を出していた。目が合ったのが何となく気恥ずかしくて、勇己の方から目をそらしてしまう。
「行こうか」
それが独り言だったのかラズリに声をかけたのか、自分でもわからなかった。袋の中にじっとしているのにも飽きたのか、ラズリは首を出したままでいる。
横断歩道を渡って、さらにまっすぐ進む。帰りがけによくジュースを買っていた角のコンビニを過ぎようとした、その時だった。
何かがきしんで、壊れたような音が響いた。続いて落下音。コンビニの向こうからだ。
まさかと思って角まで戻ると、いた。
スタジアムのスタンドに据え付けられたスピーカーが、落ちたらしい。それがたくさんのケーブルを脚のようにして立ち上がり、こちらを向く。
「んうっ!?」
ハウリングとも違うような嫌な音が響く。思わず両手で耳をふさいだが、その拍子に手から買い物袋が落ちてしまった。悲鳴が聞こえたかもしれないのだが、スピーカーのお化けが発する音にかき消されてしまう。
音が止まった瞬間、ラズリが袋から飛び出して勇己の腕に飛び乗った。その向こうで、スピーカーのお化けが蜘蛛のように歩きながらこちらに歩いてくる。まっすぐこちらを向いているあたり、狙いはこちらなのだろう。
「やるしか、ないか……」
無言で勇己を見つめるラズリの首からバンドを取って手首にかける。ラズリは一度地面に降りたって、
「レッツ!」
バンドをめがけてもう一度跳ねた。
「メタモルフューズ!」「メタモルフューズ!」
しかし、いつものようにバンドに吸い込まれることなく、弾かれてしまう。着地ができず、ラズリが後ろに転がる。その後ろには、もうお化けが迫っていた。ケーブルの足を一本、高く振り上げる!
「危ない!」
前方に駆け出しながら姿勢を低くして、ゴロをキャッチする要領でラズリを拾い上げる。直後、鋭い音を立ててケーブルが鞭のように叩きつけられた。
危なかった、と思ったが、しかしそれで終わりではなかった。
「勇己!」
体を起こして体勢を立て直そうとした瞬間、地面を叩きつけたお化けの足がさらに横に振りぬかれた。
「ギャッ!!」
避けられずにまともに打ちつけられてしまい、歩道と車道を分ける背の低い植え込みに吹き飛ばされた。お化けは向きを変えて、さらにこちらを狙ってくる構えだ。
「うぐ……」
逃げようとしたが、打たれた痛みで起き上がれない。何とか動く右足で這いずって、ラズリに手を伸ばす。
またしても嫌な音が襲ってくる。しかし、耳をふさいでなんかいられない。必死に伸ばした手に、ラズリが駆け寄った。
「ごめんなさい、勇己。わたしのせいで……」
頭の中から叩かれているかのように響くひどい音の中でも、なぜかその声だけははっきりと聞こえる。
「わたしが勇己のこと、信じ続けられなかったから……」
手に顔を摺り寄せながら、か細い涙声で謝る。でもそれは違う。
「謝るなよ。オレが八つ当たりしてたんだからさ」
言葉だけではもどかしくて、どうしても伝わってほしくて、なんとか手を持ち上げて頭を撫でてやる。それまで言うことを聞かなかった腕が、不思議と動いてくれた。
「あったかい……」
目の前で、ラズリが淡い光に包まれている。それは、腕のバンドからにじみ出るようにしていた。
「本当だ……」
ラズリを撫でている時の、手だけではなくて胸の中も一緒に温かくなる感じ。それが、今確かに感じられる。
「もう一度やろう。今度は絶対できる!」
今ならできる。それは確信だった。
「うん! レッツ!」
「「メタモルフューズ!」」
光のにじむバンドにラズリが触れた瞬間、その光が大きく勇己を包んだ。全身に力が戻る。
音が止まり、またケーブルが鞭のように襲ってくる!
うつ伏せの姿勢から両腕両脚で跳ねてそれを避け、その勢いで上から被さってきたジャケットを羽織る。さらに正面からベルトが巻きつけられた反動で後方に逃れる。伸びたスカートが着地に合わせてふわりと膨らんだ。
これならいける。蜘蛛のように立っているスピーカーのお化けを正面から見据えた。
「オマエ……ジャマ……ケス……」
またしても嫌な音を放ってきたが、今度はその中に言葉が聞こえた。
「こいつ、しゃべれるの?」
「乗っ取ったものを利用するから、それがしゃべるものだったら、しゃべるよ」
つまり、今回はスピーカーを乗っ取ったからスピーカーからしゃべっているらしい。ただ、言葉であるとわかっても、ひどい音であることには変わりない。あまり近づくと耳どころか頭までも壊れてしまいそうだ。音がやんだ隙を狙うしかないと気休め程度でしかなくても耳をふさいでいると、
一瞬違う音が混じって、突然お化けが斜め前につんのめった。同時に音もやむ。
後ろから車がお化けの右後ろ足に追突していた。あまりの音で運転ができなかったせいで事故を起こしてしまったのだろう。車の持ち主には悪いけど、これは絶好のチャンスだ。
「らあぁっ!」
立ち直る前に突進して、残った左足全部をラリアットでなぎ倒す。駆け抜けた後ろで、地響きを上げてお化けがへたり込む。
「今だ!」
すかさずバンドの飾りに触れて、
「「デフュージョン・ストーム!!」」
竜巻がスピーカーのお化けを後ろから襲う。スピーカーの背面から、黒い油のようなものがドロリと垂れたように見えた。それは見る間に起き上がって、人型を取った。
「あれ?」
「うん!」
今度こそ、逃げられる前に捕まえてやる。地面を踏みしめ、飛びかかる!
はずだった。
しかし、膝に力が入らない。そのまま膝から崩れ落ちてしまう。目の前で光が弾け、腕のバンドからラズリが放り出されるのが、やけにゆっくりと見えた。
拾わなきゃと腕を伸ばしても、あとちょっと届かない。
「勇己―――!!」
ラズリの悲鳴が遠のいていく……
第5話
誰かがさよならと言っている声が聞こえる。
さよならって何……?
ハッと気づくと、父さんと母さん、姉ちゃんが揃っていた。そして勇己は、ベッドに横たわっていたのだった。
「どうしたの? みんなして」
こんなことなど記憶になくて、不思議に思った勇己がそう口にすると、切羽詰まったような顔の母さんが勇己の左手を両手で包んだ。
「どうしたのって……勇己、事故に巻き込まれて救急車で運ばれたんだよ?」
「え……?」
そう言われてやっと気づいた。ここは勇己の部屋ではない。起き上がろうとすると体に痛みが走って、思わずうめき声を上げてしまう。
「無理はするな」
父さんが体を支えてくれて、もう一度ベッドに横になる。
父さんたちの話によると、スタジアムの近くで気を失っていたところをリトルリーグのコーチが見つけてくれて、病院に運ばれたらしい。そしてコーチからの連絡で父さんたちも病院に駆けつけて、今は翌朝だという。
広い擦り傷と打ち身がひとつあったが、検査の結果、どちらもすぐに治る程度らしい。
枕の脇には財布の入った買い物袋もあった。
「ごめん母さん。お使い、行けなくて」
みんなに見られていることに居心地が悪くて、苦し紛れのようにそんなことを口にする。
「そんなこと、どうでもいいから」
勇己の左手を包む母さんの手に、力がこもる。ちょっと痛いけど、温かい。この、感触……?
「ラズリ!?」
右手で買い物袋を引き寄せる。口を開いてのぞいてみても、中には財布しかない。
「ラズリは? ラズリはどこ!?」
慌てて体を起こすと、またしても全身に痛みが走った。でもそんなことなんかに構っていられない。シーツの中も枕の下もひっぺがしてみても、どこにも見当たらない。
「ラズリって、あの兎ちゃんのこと?」
暴れる勇己を見かねて、姉ちゃんが両腕を押さえて制止した。
「そうだよ、袋の中にいたはずなんだ。姉ちゃん見てない?」
「一緒にいたんだ。でも、見てないなあ。お父さんお母さんは?」
二人とも首を横に振る。病院に動物は持ちこめないだろうから、いたとすれば誰かは必ず見ているだろうと父さんは言う。
まさか……
さよならって……
「そんな……」
心に穴が開いたみたいで、どう思えばいいかすらわからない。勇己はがっくりとうなだれた。
勇己が目を覚ましたところで先生に診察してもらう。その横で父さんが看護師さんに兎がいなかったか聞いてくれていたが、誰も見ていないらしい。
もう大丈夫とのお墨付きをもらって塗り薬を処方されて、病院を出た。父さんも母さんも姉ちゃんも、病院の先生も看護師さんも、みんなが自分を心配してくれているのに、勇己にはそれが他人事のように遠かった。
近くの薬局で処方された薬を受け取って、四人で帰り路を歩く。昨日何があったのかを母さんがしきりに聞きたがっていたが、勇己は言葉少なによくわからないとだけしか答えなかった。何があったのかわからない、ラズリに―――
「ねえ。勇己の退院祝いに、何かおいしいもの食べに行かない?」
姉ちゃんがはしゃいだ声で割り込んできた。深刻になりそうな雰囲気を強引にぶち壊しに来たような唐突さだ。父さんにもそれがわかったのか、苦笑しながら同意してどこがいいかと辺りを見回す。でも。
「いい。そんな気分じゃない」
その気分についていけそうにない勇己が力なく断ると、それならば夕ご飯は勇己の好きなものにしてあげるということになって、母さんと姉ちゃんは母さんの手に戻っていた買い物袋を手にスーパーへと向かっていった。
残された父さんと二人で先に家へと歩く。父さんは何も言わないが、たまにこちらに視線をくれる。
勇己のことを見てくれている、そう安心させてくれる視線。そういう安心を、ラズリにあげることができていたのだろうか。
「やっぱりダメ! オレ、ラズリを探してくる!」
居ても立ってもいられなくなった勇己は、父さんの顔も見ずに言い捨てて駆けだした。
後ろで鋭い声と共に足音が聞こえたが、路地をめちゃくちゃに走っているうちにそれは遠くなった。それでも、勇己はまだ走った。
グラウンド前はもう片付けが終わったようで、スピーカーがあったあたりに立入禁止がされている以外は普通だった。一日も経ってラズリがまだいるのかなどと思わないでもなかったが、他に考えられずにここに来てしまった。
コンビニの裏、街路樹の陰など辺りを見回しても、やっぱりと言うべきか、影も形もない。
「どこに行っちゃったんだよ……」
当てなんか何ひとつなかったが、じっとしてなんかいられなくて、落とし物を探しているかのように地面に目を落としながら歩いていく。どこに行こうなどと考えてもいなかったが、いつの間にか道は上り坂になっていた。
この先は小さな山になっていてその上に動物公園がある、そんなことを思い出した時だった。
オオォォーーーン!
テレビでしか聞いたことのないような動物の叫び声が一声上がった後、たくさんの人が逃げ惑うような声が押し寄せてきた。
あの日と同じ状況。逃げる人の波に逆らって走る小さな白い兎を見た、あの日。
勇己は迷わず公園に向かって駆けだした。壁すれすれを、時には人とぶつかりながら、とにかく人波に逆らって走る。何度も傷に触れて痛みが走ったが、そんなのに構ってなんかいられない。
みんなあらかた逃げ切ったのか人が少なくなってきて、公園の入口が見えてきたころ、見つけた。路地から飛び出してきた、青い目の白い兎。
「ラズリ!」
勇己の叫びに、それは動きを止めた。すかさず駆け寄って、両手で拾い上げる。
「どうして……?」
「どうしてって、それはオレのセリフだよ。どうして勝手にいなくなったりするんだよ!」
驚きのあまりに身じろぎさえしないラズリだったが、勇己は逃がさないとばかりに強く抱きしめた。
「だって……」
「だって?」
ぽつぽつとしゃべろうとするラズリだったが、勇己は一瞬さえも待てずに問い詰めた。
「わたしのせいで、勇己があんなケガしちゃったじゃない……」
「あれは、お前のせいじゃないって……」
「もう、あんなの見たくないの」
この前の繰り返しになりそうだったところは、ラズリに止められた。
「わたしのせいで勇己がケガするなんて、もういやなの」
もう人の声は聞こえず、公園の方から木が折られているような音だけが立て続けに聞こえてくる。間違いなく、例のお化けの仕業だ。
「だからって、お前一人じゃ無理だろ!」
相手はラズリどころか勇己よりもずっと大きい。怪我では済まされないかもしれない。
「でも」
「約束しただろ? 仲間が見つかるまでって!」
そんなの、放っておけるわけがない。迫ってくる、大きく膨らんだ黒い象のようなお化けを目の前にして。
「行くぞ、ラズリ!」
ラズリの首からバンドを取る。腕にはめて、それからラズリの目をのぞきこむ。
「お願い……勇己!」
勇己の目を見てうなづいてくれるのを見て、勇己はラズリを離した。着地したラズリがもう一度跳ねようとした、その時!
気合の入った高い声と共に、何かが横からお化けにぶつかった。体勢を崩したところに、今度は別の人影が上から踏みつける。
ズン! と大きな音を立てて、お化けが倒れた。
「あれって、もしかしてオレたちと同じ……?」
「仲間だよ! みんな無事だったんだ!」
勇己の手にもう一度飛び乗って、ラズリは興奮したようにまくしたてる。前足で勇己の腕を叩いて、行こう行こうと急かすラズリ。しかし勇己は、あの格好で他の誰かに接触することをためらって、逆に足が進まなかった。
はしゃぐようにパタパタ叩いていたのが、いらだったようにバンバン叩くようになって、さすがに痛いと思ってやめさせようと名前を呼ぼうとした時、
「ラズリ?」
違う声で名前を呼ぶ声がして、勇己もラズリもそちらに振り向いた。青い目で確信したのか、長い髪の女性が駆け寄ってきた。
「ドナ!」
彼女の名前らしいものを呼んで、ラズリは勇己の手から彼女に跳ねた。この人も、知り合いなのだろうか。
「よかった。元気だったのね……」
「うん。そっちは、みんな無事なの?」
優しそうに抱きしめる彼女にラズリも嬉しそうで、弾んだ声をしている。
「パートナーも見つかって、反撃を始めたところよ。ラズリの方は……」
お化けと戦う二人を見ていた彼女は、そこで言葉を切って勇己の方に向き直った。
「あなたが、ラズリを助けてくれたのですか?」
どう答えたらいいかわからなかった勇己は、何も言わずにただあいまいにお辞儀をした。
「そうだよ。一緒にみんなのことを探してくれたの」
代わりに答えてくれたのは、ラズリだった。
「ありがとうございます。もしかするとあなたは……」
「勇己は」
彼女の言葉をさえぎるようにラズリが口をはさむ。そして、勇己をじっと見つめた。
自分はどうしたいのか。ラズリがそれを言わせてくれていることがわかる。そのラズリは、さっきまでのはしゃぎようが嘘のように、表情がない。
違う、勇己の邪魔にならないように表情を消しているのだ。そんなことさえ、わかってしまう。
オレは…どうしたい……?
「オレは……」
女性はただ、勇己の言葉を待っていた。その向こうでは戦いが繰り広げられているのに、ここだけが切り離されているかのように静かだった。
「こいつの仲間を探すまでってことで一緒にいたんです」
腕にしていたバンドを外して、ラズリの首に返した。
「仲間が見つかってよかった。だからオレの役目はもう終わり。それじゃ」
くるりと背を向けて、勇己は逃げ出した。呼び止める女性の声がしたが、振り切って全力で下り坂を走った。
背後から強い閃光と轟音が届き、それっきり静かになった。ラズリの声は、なかった。
電話ボックスから父さんの携帯電話に電話をして、薬局の近くで落ち合った。そんなことができた自分が、不思議だった。
勇己の方が先に着いて、しばらく突っ立っていると、父さんがそれを見つけて駆け寄ってきた。
「勇己……!」
怒られるだろうな、と冷静に思ったがその続きはなくて、父さんはしゃがみこんで、うつむいている勇己の顔をのぞきこんだ。
「何か、あったのか?」
勇己の両腕に両手で触れて、静かに問うた。
勇己は、あふれそうになるものをこらえるのが精いっぱいで、しばらく何も答えられなかった。それでも、父さんは待ってくれる。なんとか、勇己は口を開いた。
「飼い主が、見つかったんだ」
「飼い主? あの兎の?」
「うん。飼い主に、返してきた」
それだけ言うのがやっとだった。さらにうつむいて、歯を食いしばる。額が、父さんの頭に触れた。それがふと離れる。
心細くなって顔を上げると、立ち上がっていた父さんが頭を撫でてくれた。
「よく、がんばったな」
何度もそう繰り返しながら、何度も頭を撫でてくれた。勇己がありがとうと答えたその時まで、ずっと。
並んで帰る間、二人ともほとんど何も言わなかった。勇己が父さんから言われたことは、たったひとつだけだった。
「勇己があの兎のことを思っていたように、お父さんもお母さんもお姉ちゃんも、勇己のことを思っているんだ。それだけは、忘れないでほしい」
ごめんなさいと口にすると、また頭を撫でられた。それが温かくて、そして苦しかった。
家に帰ると母さんと姉ちゃんはもう帰ってきていて、夕ご飯の支度が始まっていた。それを尻目に勇己は自分の部屋にこもる。兎の飼い主が見つかったことは、父さんが話してくれたようだった。
つつじの花も咲き終えて、雑草が少しでも勢力を増そうと日々伸びてくるようになったこの頃。
「よお勇己、今日は草取りか?」
体育館の前の花壇の草むしりをしている背中に、淳二が声をかけた。結局淳二は野球部に入って、ランニングをしている時などにたまに出くわしたりする。
「えっと、何部だっけ?」
「課外活動部」
「って結局何なんだよ。何かわからないから覚えられないんだよな、それ」
何をする部活なのか一言では言えないものだから、そう言われるのも仕方がない。でも、淳二にはもう三度は言っているはずだ。
「校内の美化活動だったり、校外のボランティアだったり、そういうのいろいろやってるんだよ」
いい加減に覚えろと、嫌味っぽい口調に込めて言ってやる。
「ボランティアねぇ……何だってそんなのやろうと思った訳?」
その質問は、初めてだった。それは淳二だけでなく、他の誰にもちゃんと答えたことがなかったかもしれない。
「誰かのためにがんばるっての、ちょっとカッコいいと思ったから」
へえ、と気があるようなないような相槌を打っていた淳二に、向こうから声がかかった。
「いけなっ、サボってると怒られる。じゃあな」
それだけ言って、淳二は駆け去った。勇己の方も、いつまでも手を止めていては終わらない。黙々と草むしりを続けた。
淳二にはカッコいいからと言ってみたが、それも本当はちょっと違う。
嫌なこともあったし、危ない目にも遭ったし、だからあの日、逃げ出した。それは治りの悪い生傷のように、今でも心の中でうずき続けている。
あれからしばらく、何もしたくなかった。誰ともまともに口をきかず、ただ機械のように家と学校を往復していた。
寂しかったり辛かったりするのは、それだけ本気でがんばっていたからだ。塞いでいた勇己をそう慰めてくれたのは、母さんだった。
その時の気持ちはよくわからない。ただ小さな子供のように、泣いた。
それが何かを洗い流してくれたのだろうか、ようやく気がついた。嫌なことばかりではない。あの日々は確かに、熱くて温かかった。
それもまた、今でもずっと心の中に灯り続けている。大切な、宝物。
だから、決めた。あいつに恥ずかしくない自分になろうと。もう一度、何度でも、誰かのために本気でがんばろうと。
「ちょっと、魚住君! ツユクサまで抜かないで」
「え? あ……ごめんなさい」
いざやろうとしてみても、うまくできなかったり下手をすると逆に迷惑をかけてしまったりもして、落ち込むこともある。
それでも、がんばる。その先にしかない、たまに触れられる心地いい温かさを、知っているから。
一旦立ち上がって伸びをして、目を閉じて深呼吸をひとつして、それから気合を入れなおした勇己は、また花壇に向かった。