17 水のいい土地の朝
名まえを呼ばれたような気がした。
すると、どこか暗いところからひきあげられるような感覚がして、ルイはふとめざめた。
天井がみえて、ルイはベッドに寝ていることを実感する。
それから昨日〈星のふる丘の街〉にやってきて、それからベノワについてあれこれ調べたあと、〈月影亭〉に宿泊することになり、酒場で夕飯騒動があったのち、疲労困憊で横臥し、あれこれと思いをめぐらせているうちに眠りについてしまったことを順番に思いだした。
ブルーベックの夢をみたような気がしたが、それが夢だったのか、まぶたを閉じながら想像しただけだったのか忘れてしまった。
深い眠りだった。
みずうみの底までもぐっていったかのような、そんな感覚が全身にいきわたっている。
沙漠の国を発って以来、草原の国にいたるまではずっと移動しており、夜はたいていの野宿をしていたため、落ち着いたところで休むことがひさしぶりだったせいで深く眠ってしまったのではないかとルイはぼんやり考えた。
カーテンの隙間から陽射しが延びていて、ルイのへそのあたりを細い光線が横切っている。
寝ているあいだにふとんを足もとまで蹴とばしてしまったようだ。
ルイは仰向けになったまま「うーん」と両手両脚をのばす。
部屋にだれもいないと思ったので遠慮なく、腹の底から声をだしてしまったのだが、ルイが勢いをつけて上体を起こすと、目前にディレンツァが立っていた。
「あ――」ルイはあくびしかけた口をあんぐり開けたまま、驚きのあまり硬直した。
ディレンツァはまるで図書館で本棚を眺めるみたいに無感情に、全裸で伸びの姿勢をしているルイをみつめている。
「勝手に入るのは失礼かと思ったんだが、そとから呼んでも起きないようだったのでやむなくそうさせてもらった。もうすぐ朝食の時間が終わる。急いだほうがいい」
唖然としているルイにそれだけ告げると、ディレンツァはそよ風のようになめらかに戸外に向かった。
ルイがその背中を見送っていると、ディレンツァはでがけに顔半分だけふりかえって「いらない忠告かもしれないが、女性の一人部屋なのだから鍵はしっかりかけたほうがいい。あと、寝相が悪いのであれば夜着を身につけたほうがいいかもしれない」と言い残してドアを閉めた。
ルイはいろいろな想いが錯綜して、ディレンツァの言葉が入ってくるまでにだいぶ時間を要したが、はっとして最初にようやく胸をかくした。
意味がなかった。
昨夜はつかれていたこともあったし、アルバートへの不満が堆積していたこともあって、部屋の鍵のことは完全に失念していた。
ルイは蒼白になったあと徐々に現実を呑みこんでいって、やがて耳の先まで真っ赤になった。
羞恥心がむくむく湧いてきて、全身が熱くなる。
ルイはとび起きてワンピースやらハーフトップやらスカートやらをまさぐりながら、せめて下着だけでもつけていればよかったと悶絶した。
身支度をととのえたあと、ルイはげんなりした。
今後しばらく回想しては臍をかみそうなできごとだった。
しかも、よりによって相手がディレンツァなのが具合が悪い。
これがアルバートならその場で追いかけて平手うちのひとつでもすればすっきりするし、すぐに忘れてしまえるだろう。
時間の経過で恥ずかしさが通りすぎると、頬の赤みがやがて怒りのレッドに変化し、ルイはだんだんむかむかしてきて、どすどすと音をたてながら階段をおりて、酒場のカウンター席で亭主と談笑などしながらバケットをつまんでいるアルバートの椅子をぼこっと蹴とばした。
「うわぁ――お、おはよう。なんだかごきげんななめだね……」
アルバートは椅子からころげおちそうなほど驚いたのち、おびえた羊のような目でルイをみる。
ルイはライオンのように「ふん」と鼻を鳴らした。
ふと見やると、ディレンツァはうしろのテーブル席でトンビみたいなすまし顔をして、オニオンスライスにフォークを刺している。
まるでなにごともなかったかのように、おだやかな表情だった。
事実ディレンツァにとっては、なにもなかったようなものなのかもしれない。
しかしそれはそれで、いち女性として複雑なものがあってルイは混乱したが、ふらふらしていてもしかたがないので、アルバートのふたつどなりのカウンター席にこしかけた。
「ここのおかみさんの朝ごはん、おいしいよ?」アルバートはびくびくしながら、バケットが三本ならんでいる器をルイのまえにまわす。
つづけて恰幅のいいおかみさんが、レタスのサラダとオムレツのプレートを「あら、王子さま、ほめてもなにもでないよ?」などと満更でもなさそうな笑みをうかべながらルイのまえにならべた。
アルバートとおかみさんはそのあとも雑談をつづけ、ルイはあいかわらずおもしろくなかったが、焼きたてのパンの食感とオムレツのバターの香りに、やがていらいらが消しとんだ。
急に空腹をおぼえてルイは黙々と食べた。
「ねえちゃん、いい喰いっぷりだね。俺はよく喰う女の子は好きだぜ」
いつのまにか目前に亭主がいて、ルイがフォークをくわえたまま見あげると、にこにこしていた。
「――でも、かあちゃんみたいにぷくぷくふとっちまうのは問題だけどな」
亭主は「わはは」と笑った。
ルイは対応に困ったが、おかみさんはアルバートと話しこんでおり聞いていなかったので破顔した。
「ここのお料理、おいしいです。最近あんまり、まともな食事をとってなかっただけかもしれないけど」
ルイはフォークを皿に置いて正直な感想をのべた。
「まぁ、みてのとおり、ここらへんは田舎だからね。都会のようなバラエティはないが、田舎には田舎のいいところもあるわけで、この界隈は水がいいんだな」
「そういえば、きれいな河が街のそばを通ってるわね」
「そう。高山でわんさか清水が湧いて、どばどばっと流れてきてるわけさ。それで農業用水なんかもぜんぶそれを利用してるわけだ。水がいいと、食材はうまいもんだよ」
亭主は腕組みする。「みずうみや河で獲れる魚なんかも、目からうろこだぜ。魚だけに」
「――ふふ」
ルイはうなずいてバケットをちぎる。
一瞬亭主がまぶしくみえた気がしたが、よくみれば、まぶしいのは亭主のうしろにある大きめの窓だった。
青空がひろがっており、光は窓ガラスいっぱいに反射されてとてもよく晴れている。
ルイの視線に気づいて亭主が話題を変えた。
「昨日も今日もいい天気。まぁ、この地方は天気のよさだけが売りみたいなところがあるけどな。昼間なんかは暑いぐらいかもしれないぜ。嬢ちゃんたちも、丘の高台で天体観測かい?」
「ん? ちがうわよ? 私たちは、そうね……観光?」
突然問われたのでめんくらって、ルイはしどろもどろになった。
〈月の城〉で宝石さがしをするとは話しづらい。
「王子さまご一行の観光旅行かい? はぶりがいいねぇ。うらやましいもんだ」と亭主はまるまる信じた。
「でもまぁ、ハイキングにはちょうどいい気候だな。明るいうちにもどってくるなら、街道沿いにいけばそれほど危険はないしな。もっとも……うしろのテーブルの鋭い目つきのにいちゃん、魔法使いかなんかかい? オオカミやクマくらいなら敵じゃなさそうだな」
亭主はつづけて「王子さまともなると、従者もたいしたもんだ」とうなずく。
ルイは苦笑いをうかべた。
ふと、ルイは背後をうかがって、テーブルが満席であることに気づいた。「はぶりがいいっていえば、このお店もずいぶん景気がよさそうだけど……そういえば、昨夜も大騒ぎだったものね」
「ああ、ここ数日、観光客も多いんだ。まぁ時期にもよるんだけど、いまは王都からおおぜい団体さんもきてるしな。おかげさまで部屋もうまってるし、商売繁盛だよ。ありがたいことだ」
うんうんと首肯しつづける亭主をよそに、ルイは混雑した店内をみまわす。
亭主がいうほど旅行者然とした客はあまりなく、顔つきや物腰からすると、公務を担当している貴族たちといった印象をうける人が大多数だった。
長髪にゆたかなひげをたくわえためがねの老人の一群などもいたりして、なんだか場ちがいな感じが否めない。
ふと、酒場のかたすみに坐っている吟遊詩人が六弦楽器をつまびきはじめた。
それにともなって店内をとびかう無数の話し声もトーンがさがり、亭主も世間話をやめた。
ルイも静かにスプーンを手にとって、音をたてないように気をつけながらえんどう豆のスープを飲んだ。
それから正午を過ぎる頃になってばたばたと支度をし、宿をチェックアウトして、おかみさんから弁当までもたせてもらってから、ルイたちは〈月の城〉に向けて出発した。
準備にとまどったのはルイだったが、アルバートも周辺の知人たちにつかまってばかりいたし、ディレンツァは二人を手伝うこともなく、遠目に見守っていただけだった。
街道にでてすぐに、ルイはふと牧師やローチたちにあいさつをしたほうがいいかと迷ったが、ディレンツァが「帰りでもいい」と提案をしりぞけた。
確かに、どうせならば朗報といっしょのほうがいいだろうとルイも納得した。
歩きだした街道の先には、丘がいくつもつらなっている。
そして、その丘の向こうには、太陽とひかえめな月がゆれていた。




