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15 果てしない迷路

 ベノワはふたたび、深く暗い闇のなかへ放りこまれた。


 水の蛇の来襲から一週間後の曇りの夜、ベノワがベッドのなかで安寧の眠りについているとき、ミシェルは岬から黒い海へと身をなげた。


 ミシェルの失踪に周囲が気づいたのが翌朝のことで、ミシェルの父親が人手を集め捜索し、そして遺体が収容されたのが正午過ぎのことだった。

 

 ベノワはそのとき、昼食をすましてメイドが淹れた紅茶に口をつけていたが、午前中に使用人の一人が魚市場で聞いてきたその話を、執事を経由して知り、とるものとらずあわてて駆けつけたが、ベノワのまえにはミシェルの遺体が横たわっていた。


 ベノワは絶句した。

 微動だにできなかった。


 ミシェルの父母が目を赤くしながらベノワになにかを告げていたが、なにも聞こえなかった。

 ベノワはあまりのショックに最初は思考がまとまらなかったが、ミシェルのおだやかな死に顔をみていたら、やがてこの一週間のミシェルがうかんできた。


 思えばミシェルは確かに生気を失っていた。伏し目がちに海をみつめ、蒼白の顔はいつも劣弱にほほえんでいた。

 ベノワがなにかを語りかけても生返事だった。

 勧誘にものらなかったし、ベノワが冗談をいったり愉快な調子をよそおっても、ミシェルは頚を横にふったりうすく笑みをたたえるだけだった。


 ベノワはこぶしをにぎりしめて歯をくいしばった。

 結局のところ、ミシェルが追いこまれ、気鬱になっているというサインはそこかしこにあった。

 ミシェルは一週間まえからすでに、ベノワからは遠いところにいて、そこにはベノワのいかなる言葉もとどいてはいなかったのだ。


 しかし、ベノワはみずからの行く末だけに光をみいだし、その光がまぶしすぎたがゆえにミシェルの心を押しはかることができなかった。

 ミシェルだけをみつめていたつもりだったが、その実おのれの欲望だけを優先させてしまっていたかっこうになり、結果ベノワは想像力をいちじるしく欠いていた。


 いままで培ってきた人の顔色をうかがう能力はあまたの商売を成功させてきたが、ベノワは本当に必要なところでそれを活かすことができなかった。悔やんでも悔やみきれない失態だった。


 ミシェルが埋葬されてから数日間、ベノワは溺れるようにして毎日を過ごした。

 藁にでもすがらなければ、立ってもいられないのではないかという心境だった。


 執事には支離滅裂な対応をして、メイドたちには「またご主人さまの気ふさぎの病がはじまった」と陰口をささやかれた。


 やがて、ベノワに果てしない自己嫌悪が湧いてきた。

 いちばん大切な思いやりを欠いてしまったせいで、ミシェルは逝ってしまったのではないか。


 そもそも、邪悪な精神で欲をかいたのがいけなかったのではないか。

 自分は人間としての魅力をもちあわせていないのではないか。

 自分はただの厄介者だったのではないか。


 自分には生きてきた意味があるのだろうか――魔物がベノワの耳もとにそうささやいた。


 ベノワは耳をふさいで、あたまを左右にふった。


 それでも恋という魔物はベノワの両手をふりほどき、最後に顰笑した。


「おまえがミシェルを殺めたのだ――」


 現実と夢想が乖離し、ベノワは空虚な日々をおくった。

 

 仕事はすべて関係者に一任し、身のまわりのことも執事に頼み、みずからで判断することを放棄した。

 ベノワは煩悶していた。

 無情な人生を嘆き、発作のようにわきおこる怒りと哀しみに支配されていた。


 ときどき、感情が凪のように落ち着くわずかな時間に多くのことを思索した。

 死者をよみがえらせるという西方の秘薬についての書物を読んだり、〈伝説の宝石〉をすべて収集するという選択肢についても思いをめぐらせた。


 しかし、ふとした瞬間にベノワは悟った。

 ミシェルを生きかえらせるという結果もまた、ベノワにとってはジレンマでしかなかった。


 ミシェルだけが甦ってもミシェルはおそらく幸せではないのだ。

 だからこそ命を絶ってしまったわけで、もしそうしても、ベノワはミシェルの淋しい顔をみつめながら一生を過ごすことになるにちがいない。


 そして、たとえばミシェルと婚約者の両者を復活させたなら、今度はベノワが幸せではない。

 良心の呵責や罪悪感といったものからは解放されても、恋の病や激しい嫉妬がベノワを苦しめ、ベノワ自身が一生を暗雲につつまれ暮らすことになるだろう。


 迷路は果てしなかった。

 どれだけすすんでも、どこにも手がかりさえ見当たらなかった。


 それから一年後、ベノワは商業の世界から引退した。

 王都の商工会に辞意をもうしでて、その対応を待たずに、たったひとつの背嚢とともに草原の国に帰郷した。


 ある日突然の行動で関係者たちは騒然とした。

 ベノワの指示によって身辺の整理はすべて執事がおこなった。重要な仕事は商工会に委託したり、仲間の商人に分配した。

 館などの不動産や、調度品、貴重品といった動産の大部分は処分した。


 財産処分のあいだじゅう、同業者や知人たちがベノワとの接触をこころみた。

 眠らせてしまうには惜しい才能をだれもがひきとめ、思いとどまらせようとした。

 しかしベノワはだれの意見にも耳をかさず、誘いにも応じなかった。

 たまたま面会ができた友人たちも、ベノワの無表情な顔つきに驚き、言葉を失って、それ以上なにかを問いかけることができなかった。


 やがて月日の経過とともに、だれもがベノワのことをあきらめた。

 去りゆく決心をしたベノワのうしろ姿はだれにもとらえられなかった。


 草原の国にもどったベノワは余財をつかって、〈星のふる丘〉のはずれの大規模な土地区画を購入して〈月の城〉の建設に着手した。

 

 一連の工事には相当な規模の費用と人手、時間を要したが、その期間中もベノワはなにも語ろうとしなかった。年老いた両親たちでさえベノワの底意を問うことはできなかった。


 街の住人たちは「やはりベノワは変わり者だ。無駄遣いは酔狂にちがいない」と声をそろえた。

 

 幼なじみをはじめとした同級生たちは、口を閉ざしたベノワがなんの反論もしないことを知ると、徹底して悪い噂を流して揶揄し、ベノワを糾弾した。

 それでもベノワは沈黙をつらぬいた。


 やがて巨大な本館と二棟の尖塔を擁する荘厳な城が完成し、ベノワは身のまわりの世話をする使用人たちを雇い入れ、そこに居住するようになった。


 その頃にはもう、だれもベノワのことを気にかけなくなった。

 ベノワを中傷して愉しんでいたような人々ですら、いつしか話題にしなくなっていた。

 無言に徹しているベノワがあまりにも無害だったということもあったし、草原の国の伯爵都から街の長宛に、ベノワを気遣う内容の伝令が頻繁にとどいたせいもあった。


 王都や伯爵都からベノワを慕う人物がちらほらと訪ねてきたこともあったが、やはりベノワは身をしりぞく旨をもうしでたときのベノワとおなじで、社交性を失い、無感覚で、おもしろみに欠けていたため、だれもが失望し、いつしかベノワは世界から置き去りの存在となった。


 ベノワはやがて城の奥に建つ尖塔の最上階にもうけた部屋にひきこもり、召使いたちは本館に住まわせ、食事をはこぶメイド以外が近づくことを禁じた。


 それからのベノワは尖塔から一歩もそとにでることはなく、個人的な趣味に没頭した。

 あらゆる種類の学問を研究したり、城に侵入しようとする賊を撃退するための罠をあちこちにしかけたり、おおよそ王都時代のベノワしか知らない者たちからすると、意外なくらい陰湿な性質をあらわにしていた。


 ベノワが雇ったわずかな使用人たちだけがベノワの隠遁後を垣間見ていたが、終始まるで言葉を忘却してしまったかのように無口で、その心をだれにも語ろうとはせず、晩年にいたってはだれとも目をあわせることさえしなかった。

 むしろ召使いたちも辟易するぐらいに、他者とのふれあいを拒絶していたようなそぶりもあったとのことだった。


 稀代の商人の心積もりを知る者はいなかった。

 ベノワ本人がだれとの接触をも絶つことにした以上、それはだれにも知りえることではなかった。


 ベノワは望んで、孤独になった。

 まるで地上から遠く離れた軌道でまわりつづける月のように――。

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