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14 思いもよらぬ背徳感

 あくる朝めざめるとベノワの視界は真っ暗だった。

 ベノワは自分が死んでしまったのではないかという錯覚に一瞬おちいった。


 轟々となにかがうずまくような音が響いていた。地獄に堕ちてしまったような気分だった。

 ベノワは虚脱感からしばらく動かなかったが、窓のそとをみるまでもなく大雨だということがわかった。


 ベノワは雨と風が激しく吹きすさんで窓をたたき、樹木の枝葉をゆらす音を聞きながら黙っていた。

 

 昨夜までベノワの心のなかを吹き荒れていた激情が、そっくりそのまま天候となって戸外にとびだしていったかのような嵐だった。


 そして、嵐の規模が大きければ大きいほど、ベノワの感情はまるで晴れ澄んだ青空のように落ち着いていった。


 ベノワは起きあがってカーテンを開け、風雨にうたれる街を眺めた。

 窓をたたく雨音と吹きぬける風だけが世界のすべてになっていた。

 ベノワは呆然と、窓のそとをみつめていた。


 その午後に事件が起きた。

 暗雲のなかでうごめく稲妻のように、それはベノワの眠りかけた意識を覚醒させた。


 ミシェルの婚約者の失踪だった。


 午後をまわると、執事が乱暴にベノワの部屋のドアをノックした。

 ベノワが返事をすると、執事はびしょぬれのかっこうで入ってきて嵐に巻きこまれた湾岸区域の様子を報告した。

 大惨事の様相だと執事は詳説した。

 ベノワは重い腰をあげて、現地に赴いた。


 ミシェルが心配だったということもあった。

 雨は強く、手傘をしなければ目も開けていられないような状態だったが、ベノワは全身から水滴をたらしながら湾岸連絡所へとたどりついた。


 すると、係官や連絡員、漁師たちや警備兵たちがいりみだれ、あわただしく被害報告をまとめていた。

 ベノワがふと見やると、ボードに暫定行方不明者リストが貼りだされてあった。

 そして大勢の名まえが列挙されているなか、すぐにそれが目に入った。


 ミシェルの婚約者の氏名だった。

 ベノワの鼓動が一度、大きく高鳴った。

「あ――」と思わず声がでたが、周囲が騒々しかったためかき消えた。


 ベノワがたちつくしていると、「船舶や港自体の被害も甚大ですが、なにより湾岸警備兵たちはほぼ全滅ですし、近隣にいた作業員や労働者たちもほとんどが波にさらわれました。リストはもっと増えると思います」と、通りかかった知人の政務官が教えてくれた。


「なにが……あったのですか? もうすぐ台風の季節ではあるはずですが――」

 ベノワがたどたどしく訊ねると、政務官は早口で答えた。


「不自然な雲の動きを察知して、風読みたちが警報をだしたのが明け方のことです。その直後でした。すさまじい竜巻が雷雨とともに襲来し、灯台をなぎ倒しました。警備兵たちの証言では、さかまく波のなかに巨大なヘビをみたというものがあります。魔法使いたちによれば、精霊王の一人である水の蛇ではないかということでした。だれかが水の蛇の怒りをかうようなことをしでかしたのかもしれませんが、なにもかも推測の域をでません。牧師マイニエリたちが調査にのりだすようです――」


 政務官はまくしたてて、「ちょっと失礼します」と去っていった。


 ベノワは喧騒のなか、脳裏で情報を整理した。

 そして、リストをみつめていて、だんだんと思考力がもどってくると、ひとつの疑惑がマグマが噴きだすようにわきあがってきてふるえた。


(この事故は、自分のせいではないのか――?)


 くしくも手に入れてしまった〈伝説の宝石〉のかけらに昨夜願いをかけたせいで一連の騒動が起きてしまったのではないかと、ベノワは蒼くなる。


 冷淡に笑う悪魔のすがたをみたような気がしてめまいを起こしそうになった。

 冷や汗がわきの下をつたい、動悸が乱れた。


 ふらついて転ばないように、近くの椅子をたぐりよせた。

 事務所にいる関係者たちがベノワをみつけて相継いで話しかけてきたが、ベノワは生返事をしながら混乱していた。


 しかし、徐々に冷静になった。

 ベノワは〈伝説の宝石〉の、6つあるかけらのすべてを収集しなければならないという原理を思いだした。

 自分が老商人から譲りうけたものはそのひとつでしかなく、それだけでは条件を満たしていないのだ。


 だとすれば、この惨事は偶然だろう。

 偶然にちがいない。


 しかし昨晩、あまりにも強く願ってしまったために、ベノワは良心の呵責にさいなまれた。

 宝石のかけらによる効果ではないという確証もなかったし、それでみずからの心の負担がまったくなくなるわけでもなかった。


 なぜあんな稚拙なことを願ってしまったのかとベノワは自分を呪った。

 自分で手をくだしたわけでもないのに、ミシェルの婚約者を殺めてしまったかのようだった。

 ベノワはみずからの両手が血にそまっているかのような恐怖を味わった。

 ベノワはその両手で顔をおおって苦悩した。


 ふと、指と指のあいだからみえた光景に、ベノワは硬直した。


 連絡所のかたすみの窓辺に、ミシェルがいたのである。

 ミシェルはベノワに背を向け、窓のそとをみつめていた。


 ミシェルの向こうにひろがる、水の蛇が去ったあとの空には灰色の雲がたちこめており、驟雨のふりそそぐおなじ色をした海では海面が激しくうねっていた。

 

 波止場や倉庫などは容赦なく破壊されており、停泊していたはずの商船や客船の多くは死に絶えたくじらのように海上にただよっていた。


 湾岸警備兵をはじめ、水の蛇の襲来時に港にでていた者たちは、津波と竜巻の渦に呑みこまれて行方不明になった。

 ミシェルの婚約者もその一人だったが、要するにそれは死亡を意味した。

 ミシェルのうしろ姿をみつめながら、ベノワはミシェルがその事実を理解していることがわかった。


 頼りなさげなミシェルの細い背中とそこに流れる黒髪をみつめながら、ベノワは不謹慎だと自重しつつも、ミシェルをやはり美しいと思った。

 悲哀につつまれていることで、寄る辺のない小舟のようにミシェルがはかなくみえた。


 そのときベノワの胸に邪念が湧いた。とても恣意的な、悪魔の甘言だった。


(理由がなんであれ願いが叶ったのだから、ミシェルに告白をするべきではないか――)


 その欲望はベノワの心のなかで入道雲のようにムクムクと肥大していった。


 どちらにせよ、傷心のミシェルをなぐさめる人間はいたほうがいいだろうし、なにより自分は婚約者とおなじか、それ以上にミシェルの身を案じている自信がある――ベノワはみずからの思いつきを正当化し、よこしまな本心を糊塗していった。


 ベノワは狡猾な商人にもどった。

 ベノワは心にうかぶ残忍な笑顔をかくして、たたずんでいるミシェルまで歩みよった。


「とても残念なことになった――」


 まるでその災厄が自分のものでもあるかのように、ベノワはあわれみの表情をうかべてミシェルにやさしく問いかけた。

 

 ミシェルは少しだけ身体をかたむけ、ベノワを一礼し、ふたたび海へと目をもどした。


「ええ……」


 ミシェルはうなずいたものの、まるで感情がこもっていなかった。

 波打つ海をみつめる瞳はちからなく、灰色にそまっていた。


「しばらくはつらいだろうが、私も復興に尽力したいと思っている。あなたも入用なことがあったら私を頼っていただいてかまわない。どんなことでも遠慮なく」


 ベノワは配慮にみちた微笑をたたえて、ミシェルの肩にそっと手を置いた。


 ミシェルは瞬間身体を痙攣させたものの、ベノワをふたたびみて、おなじようなほほえみであいまいにうなずいた。

「……ありがとうございます」


 ミシェルの淋しそうな目をみて、ベノワは有頂天になった。

 ミシェルの心細さをあらわしたうるんだ瞳が、ベノワに可能性を示唆したように思えた。


 ベノワはその夜、歓びにうちふるえて眠れなかった。

 興奮に何度も寝返りをうった。

 昼間全身をしばりつけようとした罪悪感は、どこか遠くに霧散していた。

 ベノワは奇蹟の到来を実感した。

 夕べの空でいちばん星がきらめいたかのように、ベノワはうす暗いところにいて光をみつけたのだった。


 それから毎日のように、ベノワは湾岸をおとずれた。

 ミシェルに宣言したとおりに港の復旧作業を支援するためでもあったが、なによりミシェルに逢うためだった。

 態度には決してださなかったがベノワの心は躍っていた。走りだしたい衝動をおさえるのが難しいほどだった。


 ミシェルはいつでも湾岸から少し離れた岬にある大きめの岩に腰かけて海をみつめていた。

 ベノワはあいさつをし、気分や体調を気遣い、日常におけるささいな笑いごとなどを話して聞かせた。


 表情のとぼしかったミシェルがベノワの言葉に微笑で応えるようになった頃、ベノワは何度かミシェルを気晴らしにと会合や食事に招待したが、ミシェルは岩場から動こうとはしなかった。

 ミシェルは静かにほほえみながら頚を横にふった。


 しかし、ベノワは動転しなかった。

 男性からの誘いにすぐには首肯しないことは予期できたことでもあったし、ミシェルの傷が癒えるまでそれ相応の時間を要することくらい想定していたことだった。

 ベノワはたいていの物事の達成には時間がつきものだということを学んでいた。


 商売人として成功したベノワは、待つことの重要性を認識していたのである。

 だから徐々にでも、ミシェルの心に隙間ができてベノワが入りこんでいければ、それで万事問題ないと考えていた。


 それでもベノワの希望どおりに物事はすすまなかった。

 人生において日常茶飯事のつまずきの一種だった。

 もう少しでうまくいく――そう過信したところで、ベノワは足もとをすくわれた。


 ミシェルが、命を絶ったのである。

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