17
師の家を逃げるように出たアラキノは、集まってくる精霊の声に耳を傾けることなくただ彷徨い続けた。
何も食べず、何も飲まず、眠ることもなく、ひたすら足を前に出すことだけを考えていた。
巡り巡って、アラキノは草も生えないような高さの山の頂上に辿りついた。
山の麓にある町は、もう夏を迎えているだろう。だと言うのに足元には雪が積もっている。薄い空気に息が切れても、身を切るような寒さに晒されても、それがアラキノの死につながることはない。
「……知り合いを、親しい人を、たくさん作りなさい……」
無意識に呟いて、言葉を途切れさせる。カンテラのぶら下がった杖を握る手に、不要な力がこもった。師から受け継いだそれは、長身のアラキノにとっては少しだけ短く、登る助けにするには心もとなかった。もとより、師の杖を魔術以外の目的に扱うつもりもなかった。
ザクリ、凍った雪を踏みつけ、また一歩を登る。
――それほど親しくなくとも、一人きりでないということは、お前を強かにするだろう。
続く言葉は、アラキノの頭の中でひとりでに響く。
「愛しい者を……」
――作りなさい。一人でも良いから。
「守りたいものが、あるということは、お前自身をきっと、守ってくれる」
幼い頃に聞いた寝物語の代わりの言いつけは、しっかりとアラキノの奥深くに刻まれている。
懐かしい、あの穏やかな囁き声が、まるで呪いのように耳にこびりついて消えてくれない。
できない。作れない。あの人以上に愛しいと思える人など現れるものか。
――人殺し。
兄弟子の最後の言葉が、とどめとばかりに胸に突き刺さる。
アラキノの膝の力が抜けて倒れ込み、そのまま急な斜面を滑り落ちた。途中で傾斜が緩やかになっており、それ以上の滑落は免れたが、相当な怪我をしていてしかるべき出来事だった。
ごろりとその場で仰向けになったアラキノは、自分の手のひらを見つめる。
傷一つなかった。否、できたそばから治っているのだ。治癒の速度が格段に上がっていた。まるで一分一秒でも傷が存在することが許せないかのように。
「……化け物め」
その自嘲に満ちた呟きを聴いたものはない。
あの日、師はアラキノに責はないと言った。けれど、師の精霊の名を呼んだのは、呼ぶことを選んだのは、まごうことなく自分だ。
そしてその罪悪感は、自分が背負って歩くと決めてしまった。この途方もない苦しみを、師の言葉に甘えて投げ出したいと思ったことは数知れない。ただ、それと同じだけ強く、その罪悪感にしがみついているのも事実だった。
それを抱いているうちは、自分はまだあの人と繋がっていると、そう思っていたかった。
けれど、大切な人の命を縮めた化け物に、別な人間と共に在る資格などあるわけがない。
のそりと起き上がったアラキノは、また上へ上へと山を登っていく。
人間らしく生きることを止めたアラキノの身体の中では、狂おしいほどの罪悪感と、孤独であれる場所を求める意思だけが存在していた。
頂上まで登り切ったアラキノは、低い岩の上に腰を下ろす。小さな猫の姿をした精霊が、何か期待した仕草でこちらを見上げて首を傾げている。それを無視して、アラキノは雲海に視線を落とした。
雲が覆い隠しているせいか、ここは人の営みから切り離されたように思え、少しだけアラキノを安堵させたが、それも長くは続かなかった。
どこまでも広がっていく白を認識した瞬間に、あの忌まわしい平原を思い出し、胸が酷くざわめいたのだ。
ここも、居場所にはできない。してはいけない。
アラキノは立ちあがり、来たばかりの道を戻る。人が通るには険しすぎるせいで、すれ違う者は精霊の他にはいない。それをただ一人で下っていく。
精霊はあれ以来一度も呼んでいない。ただ彼らの加護が、アラキノをあの日の姿のままに生かしていた。
***
居場所を求めてあちこち彷徨った結果、アラキノは自身を魔術師にしたあの精霊の水鏡にいた。森を適当に歩いていたら辿りついたのだから、招かれたという方が正しいのかもしれない。
水鏡の中央にある堂々たる低木は、あの晩のまま、雄大な枝には一枚の葉も纏わずに根元を水に浸して静かに佇んでいた。
そこに集まっていた精霊たちは、アラキノの訪問をいたく喜び、歓迎したが、アラキノはどの精霊にも意図的に目を向けず、ひたすら樹の幹を見つめて歩んでいく。
水鏡を乱しながらざぶざぶと横切って、中央の大木を目指す。水に棲む精霊たちが、アラキノの一歩に合わせて大きくゆらゆらと揺れていた。
アラキノは、木の根元に崩れるように跪き、そして横たわる。目を瞑れば視界だけは安らいだ。
この行為は、あらゆるものからの逃避だった。
終ぞ、居場所を見つけることはできなかった。
どこに行こうとも、師と過ごしたあの幸せな日々の記憶が呼び覚まされ、そしてその後を途方もない苦しみが付きまとう。
精霊は、罪悪感や悲哀の感情からアラキノを解き放ってはくれなかった。
精霊には、後悔というものがない。罪悪感も、悲しむという感情もない。喜怒哀楽のうち、哀だけが欠落しているようなものだ。
さらに、食欲や睡眠欲など、人が持つ欲求のほとんどが、彼らにとっては存在しないものだった。概念すら認識していないものに対して、精霊たちが自らの意思でできることはほとんどない。
自ら欲を満たすことをやめても、アラキノが死ぬことはなかった。そもそも、かつて不死を望み、叶えてしまったのだから、当然と言えば当然だ。
わざと極限まで空腹になったところで、アラキノは痩せ衰えることなく生き続ける。眠らずとも、休まずとも足はふらつくことがなく、いくらでも歩けた。傷がついても、その傷はほんの少しの時間で綺麗になくなってしまう。
それならばいっそ、後悔に押しつぶされて、気が触れて、何もかもわからなくなってしまえれば、苦しむことはなかったのかもしれない。
しかし精霊たちの加護は、アラキノに気取られることなく、そういった生命に関わる精神の病までをも遠ざけていた。
アラキノは大木の下、髪が水に揺蕩うのを感じながら両手を腹の上で組んだ。
まるで、水に葬られた人のようだった。しかし、アラキノがそうなることは永遠にない。
身を置く場はここ以外、どこにもなかった。あの幸せな日々を思い出すきっかけばかりが詰まったこの場所以外には。だからせめて、心だけでも逃がしたかった。
食べることもなく、眠ることもなく。笑うことも、怒ることも、涙を流すこともなく。アラキノは水鏡の大木の下で目を瞑り、ただ寝そべり続けた。
時折、思い出したように目を開けては、雄々しい枝の隙間から空を眺めた。
晴天の日は嫌いだった。青い空はあの瞳を思い出す。月が見えれば出会ったあの晩を思い出す。空を覆い隠してくれる、曇天の日が一番楽だった。
何をしても、傷一つなく生きながらえるこの身が厭わしかった。
何もせずとも、病一つせず生きながらえるこの身が呪わしかった。
だというのに、死んでしまいたいと思うことがない。生きるのに必要なあらゆることを捨てたが、どれもこれも、なくとも自分を死に至らしめないという確信があった。
化け物は化け物の手で滅ぶべきだとちらりと思うこともあったが、その度に、まだ生きていたいという生き物として当たり前の感情を強く抱くのだ。
いつしか、そんな風に人間らしい考えを抱くことすら煩わしくなって、物を思うこともやめてしまった。
そうしてアラキノは、長い年月を水鏡の木の根元に横たわって過ごした。十年までは漠然と数えていたが、その先は数えるのも馬鹿らしく、覚えていない。
この場所に人間が訪れることは一度もなかったが、精霊はうるさいほどにアラキノの周りに集っていた。
色とりどりの精霊たちが毎日毎日、自分の名も呼んでくれと寄ってくる。放っておいてほしかったが、避けようとすることは無駄だと知っていた。
草木や石ころ、光や風。自然物だけでなく、人が生み出すものにすら存在している彼らから離れることは不可能だ。見えていても、いないものとして扱うほかなかった。
ここで、生きるでも死ぬでもなく、ただ横たわっているだけ。
愚かな化け物など、もう、それでいい。
けれど、終わりが来るのは、いつも唐突だ。




