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「おかえり、アラキノ。おつかいありがとう」
階段の下を通りかかった時、突然、頭の上に乗った温かな手。それに驚くでもなく、アラキノは手の持ち主を振り仰いだ。
おっとりとして、それでいて平凡な顔立ちの人間が、階段の中程に腰かけて手すりの隙間から手を伸ばしていた。その手が動くたび、腰まで伸ばした艶やかな茶髪が上等な布の様にさらさらと流れる。
その人が浮かべる柔らかな微笑みに、アラキノもつられてふっと目元を緩めた。
「……ユーダレウス師匠。こないだ、もう俺を子供扱いするのはやめると宣言してたでしょう」
「ん? そうだっけ?」
とぼけながら、アラキノの師である魔術師は、月色の頭を撫で続ける。
目つきの悪い大男が撫でられているという光景はなかなか衝撃的かもしれないが、別に誰も見ている者はいない。アラキノとしても慣れたことで、特に不愉快でもないのでその手が飽きるまで大人しく身を任せることにした。
「随分時間がかかったみたいだけど、またみんなの頼みを聞いてきたの?」
「はい。遅くなってすみません」
あの後、師から言いつけられた用事を終わらせ、町の人々の頼まれ事を駆け足で片付け、そして食糧を買い込んできたアラキノが帰路についたのは昼過ぎだ。朝に出かけたアラキノが帰らないことを、ユーダレウスが心配するのも無理はない。
正直に答えたアラキノに、師は「私の弟子は相変わらずのお人よしだ」と目を細めた。その手つきが次第に規則的になっていく。
まさかと思って顔を上げると、いつの間にか束ねた髪は解かれ、どこから出したのかユーダレウスの手には櫛が握られていた。
「……師匠」
「おや、男前が台無しだー」
棒読みの台詞にアラキノはため息をつく。
この髪への執着も相変わらずだ。むしろ、幼い頃よりも加速していた。隙あらば髪を梳こうとするのには、さすがのお人よしも閉口していた。
眉間に何本も皺を寄せたアラキノをからかうように肩をすくめると、ユーダレウスは手早く髪全体に櫛を通していく。
仕上げにぽんとつむじの辺りを叩くと、白く細い手はようやく離れていった。
アラキノは二十年ほどをこの人の下で魔術師として過ごした。
災いから街を助け、人々のいさかいを宥め、どれほどの称賛を受けようとも、ユーダレウスはアラキノに対して「まだまだ幼い末の弟子」の扱いをする。
それは、アラキノが目指すところである「師が誇れるような魔術師」には程遠いということを、突きつけられているようで、鈍く軋む胸にアラキノは無意識に息を詰める。
「そうだ、アラキノ。お昼はどうした?」
「……まだです」
「だと思った。サンドイッチがあるよ。手を洗ってからおあがり」
「はい」
階段を軽やかな足取りで下り「私はお茶の時間だ」と機嫌よく言うその人のつむじは、丁度、アラキノが視線を下ろしたところにある。ユーダレウスの背は今やアラキノの肩ほどまでしかなかった。
男にしては背が低く、女にしては背が高い。細身ではあるが骨格は曖昧だ。さらにはその細い体型すら曖昧に見えるようなゆったりとした服装を好む。そのせいか、未だにアラキノは師の性別を知らなかった。
けれど、その細い背中を頼りないと思ったことは一度もない。あの見事な月の晩に抱き上げられた時に感じた、大きな背中のままだ。
変わらない。自分も、この人も、何もかも。
アラキノは何か漠然とした焦りを感じながら、鼻歌を歌って台所へと向かう背中の後を追った。
台所には、そのまま食事ができるように机と椅子が置かれていた。そのうちの一脚に腰かけて、やたらと具の多いサンドイッチに噛り付くアラキノの側で、ユーダレウスが自家製の薬草茶をひと口飲む。
この薬草茶は身体を温める作用がある。喉の調子を整えるのにも良く、世間一般としては風邪気味の時に飲む物だ。
ただ、魔術師であるユーダレウスやアラキノの体調は、精霊の加護のお陰で不調を兆すことはない。それでも愛飲しているのは、単純に茶の香りがユーダレウスの好みなのだ。
薬っぽい匂いを感じながら、アラキノも茶をひと口すする。
独特な香りだけでなく、ほんのりと苦いということもあって、子供には好かれない。アラキノも幼い頃は我慢して飲んでいたが、すっかり慣れて、むしろこの苦みがないと物足りないと思うほどだ。
だのに、ほんの数年しか経っていないような気がするのは、普通の時の流れと、魔術師の時の流れの差異にまだ馴染んでいないということだろうか。
だから、ユーダレウスもアラキノを未熟だと思うのだろうか。
弱気な仮定を無理やり見なかったことにして、アラキノは黙々とサンドイッチを食んだ。
「アラキノ、この後の予定は?」
「魔術の部屋にいます。何か手伝うことが?」
師の青い瞳を見れば、師は少し考えた後で「いや、何もないかな」と首を横に振った。
魔術の部屋とは、その名の通り、魔術の研鑽を詰むための部屋だ。
アラキノがここに来たばかりの頃、ロタンやジルが魔術を扱う傍らで、礼儀作法と文字を学んだ部屋でもある。決まっているというわけではないが、皆なんとなく「魔術の部屋」と呼んでいる。
この家で一番広いその部屋にはユーダレウスの手によってあらゆる守りの術が施されており、中でうっかり魔術に失敗してしまっても外にまで影響が及ばないようになっていた。
「今日もまた、いつものかい?」
「そのつもりです」
「そう。ロタン達も来るようだから、仲良く頑張りなさい」
言いながら、ユーダレウスはまるで子を見る親のような目でアラキノを見る。対して、アラキノは悟られない程度に渋い顔をした。こんな人相の悪い大の男を、年端も行かない子供のように扱うのはこの人くらいだ。
実際、ユーダレウスはまだアラキノに独立を認めていない。未熟だと思っているのだとしたら、当たり前だろう。
ジルもロタンも普段は別なところに住んで、魔術師として身を立てているというのに。
また、小さな、しかし重苦しい靄が胸の内に生まれていくのを、アラキノは薬草茶で無理やり流した。
***
アラキノは大きく分厚いドアを開く。誰もいない魔術の部屋ではあるが、静まり返っているということはなかった。
ロタンが持ち込んだ樽の中は透明な液体で満たされており、誰も触っていないのにも関わらず、中ではチャプチャプと液体が揺れる音が時折聞こえてくる。カチコチと絶えず小気味の良い音を立てているのは、ジルが持ち込んだ何かの計器だ。
ユーダレウスが集めた本が収まっている本棚すらも静かではない。見た目には本しかないが、何やらゴウゴウと強風の音がする本があったり、ズルズルと何かを引きずる音を立てる本もある。
ドアの開く音に反応したのか、壁にかかった網のような飾りがひとりでに揺れる。いくつも編み込まれたコインのような飾りがこすれ合って、シャラリと清楚な音がした。
あらゆる音の中、アラキノはわき目もふらず自分にあてがわれた机に向かって歩く。
日の当たらない壁際の机の上には、虫かごと、甘い香りのする小さな水差しがあった。
虫かごの中には、べラ虫と呼ばれる足の親指ほどの大きさの虫が蠢いていた。
ふわふわとした毛に覆われた球体の虫で、目はない。四本ある触覚は体長よりも長く伸び、針金のような細い足の先には白くふわりとした毛がみっしりと生えている。
毛の色は淡い色ということ以外統一されておらず、一匹一匹、それぞれに色が微妙に違う。ちなみに暖色系の毛を持つのがオスで、寒色系の毛がメスだ。
毒は無く、見た目には愛らしいと言えなくもないこのべラ虫は、異様なまでに繁殖力に優れている。放置するとすぐにおびただしいほどに繁殖するのだ。実際、アラキノの虫かごの中のべラ虫も、昨日見た時よりも、数匹小さいのが増えている。
べラ虫は、文字通りの雑食だ。さらに強靭な歯と消化器官を持つ。飢えれば草木だけでなく、鉱物であろうと、生物であろうと、本当に何でも食べる。それ故、増えすぎればおのずと人に害をなす。
力いっぱい叩き潰す以外に、砂糖水がかかるとたちまち死ぬという弱点を持つが、安価とは言い難い砂糖を大量に用意することは、庶民の懐には結構な痛手である。そのため、数の少ないうちに定期的に駆除される虫だ。
アラキノはそれを引き取り、魔術の実験に使っていた。
虫かごに無造作に手を入れ、水色のべラ虫を一匹掴む。
「っ、痛ってぇ!」
指の先を噛まれ、思わず逆の手で払い落す。べラ虫の歯はとても鋭く硬い。アラキノの指にはすぐに血が滲んできた。
精霊の加護の下、この程度の傷はすぐに治る。だが、痛いものは痛い。
机の上に落ちたべラ虫は、何を思うのか、逃げることもなくじっとしていた。しかし、今しがた、指を強かに噛まれたアラキノがそれを憐れに思うことはなかった。苛立ちまぎれに、右手を虫に向ける。
「ヴォルニケツール・セラ」
右手の中指に嵌めた指輪から、青白く輝く光の帯が勢いよく飛び出した。雷光の精霊は、目が回るような速さで部屋をぐるりと一周すると、アラキノの手元に戻った。
「コード ディス アデス フォルド レリゼ」
パチンと指を鳴らすと、ちっぽけな虫に青白い光の帯が巻き付く。光り輝く毛糸玉のようになると、雷光の精霊はぱっと光の粒子を散らして消えた。
そうして、何が起きたのかわかっていない様子の水色のベラ虫だけが机に残った。
アラキノは、虫に砂糖水を垂らす。
ベラ虫は砂糖水がかかったところからみるみるうちに黒ずんでいき、柔らかな毛はしおれ、終いには石ころのごとく固まって動かなくなってしまった。
「……っ、またダメか」
失敗の証である虫の亡骸を摘まみ上げ、アラキノは丁重に小箱に入れた。
既に、小箱の中にはいくつもの黒い石ころが入っていた。憐れな虫たちは、そのうち、丁寧に弔ってやるつもりだった。
駆除するときは、何匹だって躊躇いなく殺すというのに。こんな時ばかりはどうしてか可哀想になる。どちらも、人間の都合でしかないということに変わりはないのに。
アラキノが眉間に皺を寄せていると、部屋の扉が勢いよく開いた。
「よ、アラキノ。今日も失敗か?」
部屋に入ってきた兄弟子のロタンが、アラキノを見るなりそう冷やかした。がしりと肩に腕を回され、アラキノは眉間に皺を一本増やす。
「んなおっかねえ顔すんなってー。あ、いつも通りか!」
「うるっせえぞ、ロタン!」
アラキノの裏拳をひょいと除けると、ロタンは自分の机に向かって素早く逃げていった。
「なあ、アラキノ。まだやんのか、それ」
「……当たり前だ。やんなきゃ成功もしねえ」
やれやれと肩をすくめる兄弟子を尻目に、アラキノは机の隅にある紙に書かれた言葉の上に線を引いた。箇条書きにされたその言葉たちは、魔術を使う際に精霊に語り掛けるための言葉を、単語や言い回しを変えて書き連ねたものだった。
魔術師たちは、精霊の言語をもって精霊たちに力を貸すよう交渉する。それに用いる言語は、精霊と契約を交わした瞬間、半ば強制的に会得させられるものだ。
精霊との交渉のために組み立てた言葉は、脳内で勝手に精霊の言語に変換される。それを読み上げると、人には難しい音の羅列が流暢な言葉となって口から出て行くのだ。
ただし、彼らの言語が持つ語彙は、人間のそれよりはるかに少ない。思い浮かべた時に言葉が変換されなければ、その言葉は精霊の言語に存在しないということになる。
故に、経験の浅い魔術師は、狙った魔術を使うために言葉を探すところから始めなければならない。
魔術師が実現しようとする事象が複雑になればなるほど、それは難しくなっていく。伝えたいことを端的に、しかし正確に。言葉選びに魔術師の技量が現れるといっても過言ではない。どんなに言葉を尽くしても、精霊に理解されなければ意味はないのだから。
アラキノが直面している壁は、まさしくそれだった。
この数年。求めるもののために、精霊に根気強く語り掛けてきたが、その全てが失敗に終わっていた。




