05
ユーダレウスに拾われて、満月が三度過ぎた。暑い夏の季節も変わり、実りの秋の気配が近づいていた。そんなある日の晩のことだ。
アラキノは物置に続いていそうな扉を数度、曲げた指の背で叩く。中からの返事の声を聞くや否や、扉を押し開けた。肌寒さを感じる廊下から逃れて温かな色の明かりに包まれ、無意識にほっと息をつく。
「おや、アラキノ。どうかしたの」
ユーダレウスは読んでいた書物から顔を上げて出迎えてくれた。寝かしつけたばかりの末の弟子が、部屋を訪れてきたことに驚いているようだった。
物置よりも荒れ果てていた師の部屋は、アラキノの手によって片付けられていた。やたらと物が多いという印象はぬぐえないが、少なくとも本が雪崩を起こしていたり、食器が危うい均衡で積まれていることはもうない。
アラキノは師に手招かれるままに歩く。
机の上の吊り下げランプの群れの前を通り過ぎた時、色とりどりの柔らかな光がアラキノの傷んだ月色の髪を不思議な色に彩った。
「さて、何を見せてくれるのかな?」
背中に隠しているものを師に見抜かれていることを察したアラキノは、さっと頬に血を昇らせた。
「……っ、これを」
ぐずぐずすると、尚更出しにくくなると思ったアラキノは、折りたたんだ紙を師に差し出す。
手渡された紙にユーダレウスは目を通すやいなや、目を見張り、続けて顔をほころばせた。
紙はアラキノが書き方の練習に使っていたものだ。書き損じばかりの文字がぎっしり並び、黒っぽくなっている。その隅に、確実に判読できる字で書かれた二つの単語があった。
『アラキノ』そして『ユーダレウス』
歪でも、しっかりと読める文字で綴られたそれを、ユーダレウスは指でなぞり、目を細めた。そして、そっと弟子の月色の髪に手を伸ばす。
称賛の手を大人しく受け入れながら、アラキノは目を閉じる。この手に触れられるのを恐ろしいと感じたことは、今まで一度もない。気性も身のこなしも静かなジルの手でさえ、まだ恐ろしいと思うのに。
ユーダレウスの手は人を無条件に安心させる奇跡の手なのかもしれないと、アラキノは思っている。
「……最高だね。よくできた、アラキノ」
何度も優しく髪を梳く手に、こそばゆい気持ちになりながらアラキノは頷く。
文字をきちんと覚えることが、魔術師に近づく一歩目だと言われていた。
はやく魔術師になりたい。アラキノは兄弟子と姉弟子が魔術を行使するのを傍らで眺めながら、いつしかそう願うようになっていた。
大好きな師匠の、自慢の弟子になりたいと願うようになっていた。
「よし、祝杯をあげよう! そこにお掛け、アラキノ」
言われた通りアラキノが椅子に腰かけると、子供のようにはしゃいだアラキノの師は、駆け足で台所から大きな瓶を持ち出してきた。液面にはしおれた赤い木の実がいくつも浮かんでいる。木の実を砂糖で漬けたシロップだ。
師の楽し気な様子に水を差す気にはなれず、アラキノは「シュクハイ」の意味はあとで辞書で調べることにした。
ユーダレウスは、高価そうな足付きのグラスをふたつ出すと、机の上に慎重に、どこか儀式めいた手つきで並べていく。
「さてさて……まばたきをしたら損をするからね」
自慢げにそう言うと、ユーダレウスはどこからともなくカンテラ付きの杖を取り出し、芝居がかった身振りで両腕を大きく広げた。
いつになく真剣な表情の師につられ、アラキノはゴクリと喉を鳴らす。
「サソレアツール・セラ」
金色に光る精霊がカンテラの中から踊り出て、アラキノの頬に触れた。右頬が日なたに包まれた。
「コード エヨル ポタ」
カツン、と杖の先が床を突くと、金色の精霊はアラキノの頬から離れ、ふわりと机の上を舞う。その精霊の光の軌跡をたどり、宙に水が現れた。水は、霧や雨、小鳥の卵など、色々な大きさの小さな球になってその場に静止したまま浮かんでいる。
すかさず、ユーダレウスは別の精霊の名を呼んだ。
「アラキノツール・セラ」
呼ばれるや否や、カンテラからは白銀の精霊が現れ、アラキノの月色の髪に挨拶するように触れた。細やかな手入れを怠って傷んだ毛先が、月の光を受けてきらきらときらめいた。
「コード ディスポタ ロコ」
カツン、という音と共に、宙に浮いていた水が凍りつき、ランプの灯りを受けて天上の星々に似た輝きを放った。
目の前に天が降りて来たようなその光景に、アラキノは見惚れ、ぽかんと口を開けた。
カツン、ともう一つ音が鳴るのと同時に、氷が机の上にサラサラと降り注ぐ。砂粒ほどの小さな氷はすぐに融けて机を濡らしたが、比較的大きな氷は、二つのグラスにカランコロンと音を立てて収まった。
流れるように成されたその技に、アラキノは相変わらず呆けていた。
「どうだい、面白かっただろう?」
茶目っ気たっぷりにそう言う師に、アラキノは素直にこくんと頷いた。
「とても……とても、綺麗で、した。えっと、星……そう、星が目の前に降ってきたみたいだった……!」
「そうだろう、そうだろう! そうか、星ときたか。今まで何度か人に見せてきたけど、アラキノの反応が今のところ一番素晴らしいな」
アラキノ以上に満足そうにしているユーダレウスは、アラキノの知らない歌を鼻で歌いながら、氷の入ったグラスに赤くとろりとしたシロップを注ぎ入れた。
その上から再び水を注ぎ、軽くひと混ぜすると、あっという間に飲み物が完成した。
「さ、アラキノの成長を祝して」
ユーダレウスがグラスを掲げる。アラキノも真似て掲げると、ユーダレウスがグラス同士を軽くぶつけた。キン、と小気味の良い音が鳴った。
ひと口でグラスの中身を半分ほど空けたユーダレウスは、ようやく椅子に腰かけた。酒が入っているわけでもないのに、頬が赤くなっているのはそれだけ興奮しているということだろう。
「よし、明日にでも精霊と契約しに行こう!」
師のとんでもない思い付きに、アラキノは思わず、口に含んでいた飲み物を吹き出しそうになった。何とか飲み込んで、代わりに小さく咳き込んだ。
「ま、まだ、名前が、書けるようになっただけだ」
てっきり、今度は何か、魔術師の見習いの修業が始まるのだと思っていた。早くなりたいとは思うが、まさか一足飛びに魔術師に、なんてことは少しも考えていなかった。
ちびちびと甘酸っぱい飲み物に口をつけながら、アラキノは師の様子を窺う。その内心は、まだ何もできないのに魔術師になどなれっこないという不安が半分、そして、もしかしたら本当に今すぐにでも魔術師になれるのかという期待が半分だ。
机の上に肘をついたユーダレウスが、アラキノの顔を覗き込む。穏やかな青い色の瞳が、ランプの光に当てられて不思議な色に見えた。
「名前が書けたら充分だよ。アラキノは、必要なことは自分から学ぶ子だと私は知っているから」
グラスの中に視線を落とし、ユーダレウスはやけに自信たっぷりに言い切った。
一瞬だけ、アラキノも、本当に名前を書けるだけで充分魔術師になれてしまうのではないかと思ったが、そんなうまい話があるわけがない。慌てて「まだ早すぎる」と言い募った。
「お前は慎重だね。良いことだ。アラキノがそう言うのなら、もうしばらく先にしよう」
その言葉を聞いて、アラキノはほっと胸をなでおろした。
ユーダレウスが残念な顔ではなく、ゆったりと微笑んでいるのを見てアラキノは小さく、傷をつけない程度にグラスの縁を噛んだ。
師が向けてくれる期待は嬉しいはずなのに、どこかむず痒くてくすぐったくて、どうにも心が落ち着かない。
買い被りすぎだ。自分はただの何も持たない子供で、そんなにちゃんとした人間じゃない。
そう大きな声を上げて、からかうように笑うあの人に体当たりして、そのまま抱き着いてしまいたくなる。
もちろん、本当にやったりはしない。けれども、もしアラキノがそうしたとしても、師はしっかりと受け止めてくれるのだろう。
そんなことを確信してしまっている自分がどうにも恥ずかしくて、誤魔化すようにアラキノはグラスで揺れる甘い飲み物をぐいと飲み干した。




