10
誰かに名を呼ばれた気がして、ユーダレウスはふっと意識を浮上させる。しかし、テントの外の早朝の気配に、気のせいだったかと目を閉じたまま寝返りを打つ。
何か、嫌な予感がした。
自分の嫌な予感はあまり当たらない。昨日だって当たらなかった。そんな都合の良い思い込みは、すぐに打ち消された。
「ユーダレウスさん、朝早くにすみません! ヒューゴを見ませんでしたか?!」
サラの鬼気迫る声に、ユーダレウスは咄嗟に身を起こす。乱れた髪のカーテンの下で、寝ぼけ眼のまま手探りで外套を探すが、それらしき感触に当たらず、苛々しながら視界を妨げている髪を乱雑に掻き上げた。
見えた光景に、ユーダレウスは瞠目する。銀の瞳がすっと温度を失くした。
隣で寝ているはずのティニがいない。ブーツも、鞄もない。ついでにユーダレウスの外套もない。
衝動的に、ティニが寝ていた場所に触れる。綺麗に畳まれた毛布と簡易寝具には温もりは残されておらず、ティニがここを抜けだしてから随分と時間が経っていることを示していた。
「……サラ、ティニもいない」
「え?」
ユーダレウスは普段よりも一層雑な手つきで、ばらついた髪を紐でひとくくりにまとめた。テントの幕を上げ外に出ると、パーシーが水汲み場の方からよたよたと走って戻ってきた。息を切らせ、焦燥に駆られたように、ひきつった声を上げる。
「駄目だ、いなかった……!」
「……そんな」
呆然としたサラが、胸の前で震えを抑えるように両手を組んだ。あまりにもきつく握りすぎて、指先は白くなっていた。
「杭の囲いの外に出て……?」
「サラ、悪いことばかり考えてはいけない」
震えるその肩をパーシーが強く抱き寄せる。しかし混乱状態にあるサラは聞き入れず、蚊の鳴くような声で言葉を続けた。
「……け、獣に……っ!」
昨夜聞こえた、獣の鳴く声が三人の脳裏に鮮明に蘇った。さらに、アルイマベリーを好む獣がこの辺りにいることは、全員が察していた。あの獣を前にしたら大人でも危険だ。幼い子供など、ひとたまりもないだろう。
息を整えながら、ずれた眼鏡に触れていたパーシーが、ふと動きを止める。
「……アルイマベリー」
「アルイマベリー? それがどうかしたのか」
「そういえば、昨日、水汲み場に向かう途中、脇道の方からアルイマベリーの匂いがしたんです。ヒューゴには行くなと言ったんですが、まさか……」
言いつけを破って、森の中に入って行ったとしたら。
やんちゃなヒューゴなら、やりかねない。
まるで、既に取り返しがつかないことが確定したかのように、青褪めたサラがゆっくりと地べたに座り込む。慌ててパーシーが傍に膝をついて励ますが、サラは夫に力なく縋り付くばかりで、気を持ち直す兆しはない。
ユーダレウスは素早く腰の鞄に右手を入れ、カンテラ付きの杖を引き出し、森を振り返る。
「俺が行く。お前たちはここで待ってろ。自分たちで戻ってくるかもしれない」
「っ、私も!」
パーシーが付いて来ようと立ち上がる。しかし、ユーダレウスは頭に巻かれた包帯を見て首を振った。
「怪我人が探しに出ても危険なだけだ」
邪魔だと言わんばかりのユーダレウスにパーシーは言葉を詰まらせる。しかし、その厳しく射貫くような銀の瞳の裏には、自分への心配と、取り乱したサラを一人にしないようにという配慮があることを、パーシーは既にわかっていた。
鈍く痛む傷に苦々しく顔を歪めながら、パーシーは食い下がることなく、しかし悔し気に頷いた。
瞬きの間に視線を逸らしたユーダレウスは、何かを呟くと杖の先でトンと地面を突く。すぐに銀の光の玉が現れ、鳥のような姿に形を変える。
「遣いを置いていく。もしあいつらが先に戻ったら、これに触れて話しかけろ」
白く輝く鳥は、パーシーの前にふわりと滑空すると、羽音もたてずにそこに留まった。
幸い、ティニは自分の外套を持って行った。あれにはまだ気配を消す術がかかっている。上手く使っていれば、そうそう獣に見つかることはない。
「……大丈夫だ」
まるで自分に言い聞かせているような低い呟きに、パーシーは震えそうな声で「はい」と頷く。駆けだしたユーダレウスの背を見送りながら、今にも泣き崩れそうな妻の肩をしっかりと抱き直した。




