これは幸せの物語。
「あんたは、本当に優しくないね。」
その言葉は、刺さるような冷たい視線とともに投げられた。
軽蔑と呆れが混ざった瞳。
娘に向ける言葉と目ではない。
些細な一言で、どうしてこれほどまでに失望されなければならないのか。
色々な感情がぐちゃぐちゃに混ざって、言葉が出でこない。
怒り、悲しみ、憎しみ、理解してもらいたいという切望。
どれもこれも腹の中で渦巻いて、外に出してしまえと己の何かが語りかける。
その激流を堰き止めるように、私は今日も口をつぐむ。
感情を押し潰すことには慣れていた。
そんなものは、幼い頃からやってきたのだから今更だ。
それでも最近は、どうしても衝動に駆られてしまいそうになる。
これが、思春期の弊害なのかと身に染みて思った。
押し潰しきれずに取りこぼした感情たちが、私の身の内で暴れ回る。
荒れ狂う獣に犯されそうな感覚に震えた。
私は決して姉や父のようにはならないのだと、その度に何度も言い聞かせた。
しかし、激流を何度も堰き止めれば、いずれ何処かが必ず決壊する。
その決壊は、皮肉なことに私の内側だけで起こった。
『大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫…』
『元気出して!寝れば、明日にはきっと忘れてるよ!』
『何、アイツ。何であんなこと言われなきゃいけないの。まるで、自分が全部正しいみたいに…』
『きっと、私のために言ってくれたんだよ。だから、そんな風に言っちゃダメだよぉ…』
多重人格とは違う。
精神が限界を迎えた時だけ、一つ一つの感情が私の人格から裂けて、私のことを必死に励ますように、或いは私を守るように、私の中で騒ぎ出した。
それはなんとも言えない不思議な感覚で。
だけど、怖くはなかった。それのおかげで、私は正気を保てたのだから。
むしろ、感謝すら覚えていた。
自分が正しいと疑わない傲慢さ。
相手を貶すことを躊躇わない冷徹さ。
父に、姉に、怯えて泣いていたあの時の姿は、見る影さえない。
どうしてこうなったのだろう。
あの夜、家を追い出されて、一緒に伯母の家に転がり込んだあの日に、私たちの家族の絆は深まったはずなのに。
共通の敵を得て、一緒に泣き、励まし合った。
それはとても家族の仲の深め方として、正しいと言えるものではなかったけど。
だけど、それでも私は嬉しかったんだよ…お母さん
たくさん辛い思いをして、たくさん涙を流して。
そうして掴んだ新しい生活で、私たちは報われるんだと思ってた。
これからはハッピーエンドに向けて一直線だと思ってたんだよ。
でも、そんな間違ったやり方で築かれた絆だから、こうして壊れていくんだろう。
私の精神はもう限界だった。
いや、本当はもっとずっと前から、家族四人で暮らしていたあの頃から、とっくに限界を迎えていたのかもしれない。
止まない罵声。
飛び交うモノたち。
壁を蹴る衝撃音。
くぐもった嗚咽。
声を荒げる父。
暴れ回る姉。
すすり泣く母。
蹲り耳を塞ぐ私。
思い出すのはそんなことばかりで、私が育った環境はなかなかにハードだったなと今更に思う。
あの時は、あれが『普通じゃない』なんて知らなかった。
もういいよねと、眼下を眺める。
私の住むこの若干ダサい古びたアパートは、五階建てで、その下には固いアスファルトに覆われた冷たい道路が顔を覗かせていた。
何が言いたいかなんて、言わなくてもわかるだろう。
ここから、落ちれば死ねるんだ。
即死出来るかどうかは、経験がないのでなんとも言えないが、例え直後に意識がまだ残ってたとしても、この高さから落ちて助かるとは思えない。
安心して落ちれる。本当は、もっと高い所からの方が確実かもしれないが、私がここに決めたのは一種の意趣返しのようなものだった。
このアパートは壁が薄く、また住宅街のため周りは他のアパートやマンションに囲まれていた。
たがら、音がよく響くのだ。
下の道路でちょっとした大声で話せば、この五階まで普通に聞こえてくるくらいに。
頬を撫でる風に、目を閉じる。
小学生の頃の記憶はあまり思い出せないけれど、中学生の時に仲の良かった友人たちの顔が思い浮かぶ。
辛かった時期のほうが多かったけど、幸せな時間も確かにあった。
なかなか悪くない最後じゃないか。
それに、これでも私は「ハッピーエンド至上主義」だ。
だから、これは“幸せの物語”。
たくさん辛い思いをして、たくさん涙を流した女の子が、最後には幸せになって笑顔で終わる物語。
素敵でしょ?
恐いものなんて、何もなかった。
閉じていた目を一度ゆっくりと開け、世界を目に焼き付ける。
そして、再び目を閉じて、私は風に身を任せた。
身体が一瞬、ふわりと浮く。
それは、羽のような感覚で、一瞬のことに惜しいと感じた自分がなんだかおかしくて、くすりと笑う。
そして、そのまま物理法則に逆らうことなく私の身体は沈んでいった。
優しい暗闇に包まれた夜の街に、突如舞い落ちた異物。
しかしてそれは、夜の闇に溶け込むことなく、その命を散らした。