進歩と喜び
「…………はぁ」
何度かの溜め息が口から漏れる。僕は今、自分の部屋のベットに寝転がっていた。あの後────姉さんが先に家に帰り、僕も入れ違いで家に入ったのだが、漆の姿は既になくて空振りに終わる。
「部屋に閉じこもってたんだよな…………」
居間でテレビでも見ていてくれれば、せめて会話を繋げるきっかけもあったのだが、どうも上手くいかない。
「家の中にいるのに会話が出来ないとは…………」
額に手を当て、天井を見上げながら息を吐く。
今日、僕が漆と話した事と言えば、僕が用意した夕ご飯を食べる前の『いただきます』と食後の『ごちそうさま』だけだ。
「会話が必要最低限過ぎる…………」
ごろりと横向きに顔を動かす。ふと、部屋にある写真立てが目に入り、そこに写る母と父の姿があった。その間には僕が立っており、当然の如くそこには“姉”の姿は無い。
「…………っ」
その写真を見て、僕はズキリと胸が締め付けられる感覚を覚える。勿論のこと、それは“同情”ではない。今の漆姉さんを見ているといたたまれない気持ちになる。
孤独による拒絶。姉さんは学園という名の隔絶された空間に何年も閉じ込められていた。
「きっと姉さんは苦しんでた…………」
諦めることは出来ない。たかが一度や二度の拒絶で諦めるなど言語道断である。せめて“家族”として普通に話したい。
「僕に出来ること…………」
少しずつでいい。溝を埋めていけばいつかは近づける。
「…………よし!」
決意を胸に秘め、僕は部屋の灯りを消して明日に備え就寝していた。
●
「ご飯に味噌汁と焼き魚に卵焼きと…………」
出来たての朝食を机に並べながら、僕はコップに牛乳を注ぐ。
時刻は朝の七時半。僕は朝早く起床し、台所で朝食を作っていた。ちなみに朝食は全て僕の手作り。伊達に御堂家の家事を任されてはいないのである、この程度は余裕だ。
「僕もいつの間にか家事スキルが上がってたんだな、自分でもびっくり」
この広い一軒家を一人で管理している影響で、僕もこまめに自炊していたが、いざ手を掛けると意外とできるものだと僕は思う。
「姉さん喜んでくれるかな?」
期待に胸を膨らませ、漆が食べるのを心待ちにする。すると、二階から足音が響き、漆が階段を降りる音が聞こえてきた。
(────来たっ)
僕はすぐさま後片付けを終え、漆が来る前に自分も席へと着席する。
「…………」
チラリと瞳に僕を捉え、漆はパジャマ姿のまま席に座る。表情は変わらず無表情のままで、僕が視界に入った際無言で何も言うことは無かった。しかし、彼女が何も言わずとも、僕はただ黙って傍観するわけではない。
緊張と焦りを含みつつ、慎は開口一番に漆へと挨拶を交わす。
「お、おはよう姉さん。今朝は早いね、朝食はもう出来てるから良かったら食べて。今日のは結構自信作で、特に卵焼きなんかは秀逸な出来で────」
間を空けることなく、僕は席に座る漆に話しかけるも彼女の反応は静かなものであった。
「…………いただきます」
僕との会話に加わることもなく、淡々とそう告げてから箸を持って朝食へと手を伸ばす。
「あ、うん。どうぞ」
早速出鼻を挫かれてしまい、すごすごと朝食を食べる漆を眺めるしかなかった。寝起きであろう彼女は、まだ意識が朧気らしく瞳を霞ませており、僕の言葉がが耳に届いていたかすら疑問である。
だがこの程度では諦めない。まだ始まったばかりなのだ。
(今日は駄目でも明日こそは…………!)
再び決意をし、僕は新たにモーションを仕掛ける。
「あの…………漆姉さん」
「…………何?」
「昨日は昼食、購買だったんだよね?」
「…………だから?」
「今日はさ、弁当を用意してあるんだ。良かったら持っていって欲しいなぁ、なんて」
「……」
僕のささやかな計らいに、漆はいつもの如く口を閉じるも、瞳の中にはぼくを映していた。じっ、と見つめる漆。その瞳の奥に何が映っているのか、今の僕には知る由もない。
「────ごちそうさま」
静かに手を合わせながら、漆は席を立つ。そして視界から慎を外し、再び自分の部屋に戻っていく。
「あ……姉さん」
待って、と言いたかったが、中途半端に伸ばした手は虚しくも空を切る。
(弁当……受け取ってくれるかな)
ガックリと肩を落とし、机の上に残された食器を片付けながら、僕は漆の弁当箱を用意していた。彼女は受け取るとも言ってなかったが、念の為に準備はしておくべきだろう。
「僕も学園に行く準備をしないと……」
食器を軽く洗い、水に浸してから身に着けていたエプロンをイスに掛けて僕はソファーに置いた制服を手に取る。
「弁当、どうしよう…………」
ソファーに腰掛けつつ、机の上に置かれている弁当箱を見る。漆姉さんも直ぐに支度をして家を出るだろう、だがその際に弁当箱を持っていってくれるかどうかは微妙なところだ。
「まだ始まったばかりなのに、いきなり躓いちゃったなぁ、道は狭く険しい」
顎に手を当てつつ、慎は自嘲気味に笑う。
「もう時間だ…………行こ」
数秒間ほど天井をぼーっと喘いで、慎はソファーから腰を上げて玄関へと足を進める。
リビングのドアを開け、玄関へと向かおうとした瞬間だった。
「…………」
漆と目が合った。
「────!?」
ピーンと直立不動になり、僕はその場で硬直してしまう。漆は既に制服に身を包んでおり、着衣の乱れは一切ない。漆黒の髪は黒い制服と合っていて、その様子は中学生とは思えないほど優麗としていた。
「ぅ…………あ」
不意打ちともいえる漆の登場に、僕は言葉を失ってしまい、口を魚のようにパクパクさせてしまった。
不意に、漆がボソッと呟く。
「…………どいて」
僕の顔を見ることなく漆は冷たく言い放つ。
「あ、ご、ごめんなさい」
硬直状態が解け、僕は言われるがままバッと漆から離れていた。彼女はそのまま机の所まで歩いて行き、右手を伸ばしてから“ソレ”を手に取る。
「……あ」
紛れもなく“ソレ”は僕が作った弁当で、漆はそれを無言のまま鞄へと納めていた。
「……………」
漆はチラリと慎を一瞥してから、くるりと体の向きを変え玄関へと歩く。その表情では伺えなかったが、もしかしてお礼を言ってくれたのだと感じてしまった。
「…………」
僕は再び硬直してしまうも、不覚にもその表情には笑みがこぼれていた。
「…………大きな第一歩だ」
登校時間も忘れ、僕はただ感激に身を震わせていた。