プロローグ
「……むむむ」
この唸っている人物の名前は御堂 慎。
ごく普通の家庭に生まれ、ごく普通の環境で過ごしている。しかし、何故慎がこんなにも呻いているのかといえば、 それには重大な理由があったりする。
その理由はもう一人の“家族”たる人間が関わっていた。
「姉さん弁当忘れたな……」
目の前に存在する二つの弁当箱。一つは自分の、 そしてもう一つは慎の姉────御堂 漆の弁当である。別に弁当くらい大したことではないと思うだろうが、 彼にとってはそうじゃない。
「姉さんはもう学園に行っちゃったし、やっぱり届けないと不味いよなぁ」
現在の時刻は朝の七時。
学園の登校時間までは後一時間ちょっと。漆は二年生で、慎が通う【神前魔法学園】(しんぜんまほうがくえん)の生徒会長様だ。
漆は生徒会の仕事で朝早く登校して行ったのだが、まさか弁当を忘れるとは露ほどにも思ってなかった訳で。
「…………仕方がない、届けよう」
ここで無視するほど御堂 慎という人間は冷酷な人間ではない。二つの弁当箱を鞄に押し込み、慎は玄関から外へと出ていた。
「行ってきます」
誰もいない家にそう言いつつ、慎はドアを閉めてから学園へと足を進める。
●
「……し、失礼しまーす」
現在の時刻は八時。慎は学園へと登校してから憂鬱な気持ちで上級生のいる階へと進む。
そして姉が所属する生徒会室へと足を運んだが、予想通り姉はそこに居た。教室の広さと同じ程度の室内に、生徒会用の備品が幾つもあり、そのどれもが綺麗に整頓してある。
これも偏に生徒会長の管理が行き届いている結果で、 清潔感溢れる素晴らしい空間だった。
そんな教室の中央に我らが生徒会長こと御堂 漆が堂々と座っており、黙々と書類に筆を走らせる。どうやら集中のあまり、こちらにはまだ気がついてないらしく、粛々(しゅくしゅく)と責務を全うしていた。
邪魔するのもどうかと思ったが、 いつまでもここで立ち往生する訳にもいかない。僕は意を決して声を掛ける。
「姉さん、 漆姉さん。 弁当忘れてるよ?」
音を立てずに漆の座っている所まで近づいて呼び掛けるも、その反応は全く無く、どうやら僕の声が耳から抜けているようだった。
「…………」
依然と彼女は書類に没頭しており、入室した人間がいることにすら気づいていない。学園内で危険があるとは思わないが、少しは警戒した方がいいと思う。
(凄い集中力だけど、感心してる場合じゃないよなぁ…………早く渡して僕も教室に帰りたいし、こうなったら────)
持ってきた弁当を近くの机に置き、慎は漆の肩に手を伸ばす。
「姉さん。 漆姉さん、 弁当忘れてるよ」
先程と同じ台詞を繰り返し、不意に肩に手を置いた瞬間だった。
「ひゃっ!」
ビクッと。肩を揺らして彼女が反応してから、勢いよくこちらへと振り返って僕を視界に入れる。
「し、 慎くん!?」
「や、やあ、漆姉さん。 驚かせてゴメンね。 弁当忘れてたからさ、 届けに来たんだけど…………やっぱ仕事中だった?」
あはは、と愛想笑いをしてみるも、姉の反応はいまいちで、それどころかプルプルと肩を震わせる始末。
「……っ」
(……やばっ、やっぱり昼休憩中に届けるべきだったか?)
自分の早計な行動に後悔しつつ、来るであろう叱責に構える。だが僕の予想とは違い、姉が取った行動は衝撃的なものだった。
「ありがと!慎君!」
猪の突進の如く、僕の胸にその細い体躯が飛び込んでいた。肺の空気が押し出され『ぐはっ!』と叫びつつも、なんとか倒れまいと足に力を入れて踏ん張る。
「うわっ、 ちょっと姉さん!?」
だが、思いの外突進してきた漆の勢いが強く、僕は一人の人間の体重を支えることが出来ずに、後頭部から床へと倒れてしまう。
「────っ!」
ゴンッ、という鈍い音と共に強打し、目の前はチカチカと星が回る始末。その衝撃に声も出ず、情けなくも僕は“潰れたカエル”のような有り様であった。
だが、当の本人である漆はといえば嬉しそうに顔を綻ばせて僕の胸元に額を擦り付ける。
「慎君、慎君、慎君!お姉ちゃんの為に弁当を届けてくれてありがとぉ!お姉ちゃんも慎君のこと大好きだよぉー!」
ちなみに訂正しておくと、僕は入室してからこの状態になるまでの間中、一言も『大好き』などとは言ってない。
これが御堂 慎の日常。
姉は学園で最強で、 冷酷で冷徹な生徒会長で。
でも、僕の前では甘々(あまあま)で、そんな姉と弟の日常の物語です。