1.プロローグ
「あなた悪役令嬢でしょう?どうしてちゃんと行動しないの?」
訝し気な目でいきなりよくわからないことを言われた時には、こんなことになるとは思っていなかった。
「私はここにアレクシア・エイスグレイス公爵令嬢との婚約破棄を宣言する」
婚約者である皇太子殿下から全く身に覚えのない罪状を並べ立てられ、大勢の貴族たちが集まる夜会でそう宣言された。何のこと?本当にわからない。
「全く身に覚えがありません。そもそもそちらの、ええとブリジット嬢?とはほとんど会話したことすらありませんが……」
謎の言葉を投げかけられて以来話していない。あの時だって話が通じないので早々に切り上げたのだ。嫌がらせなど、するはずがない。
「クリス様……」
「怯えなくていいブリジット……私が守る。アレクシアお前は――」
修道院で生涯罪を償え。とのことだった。
あまりの理不尽に私が抗議し、公平に判断してほしいと説得しても、彼に言葉は届かなかった。
父の政敵と手を組み、根回し済みであったあの場面ではもう、何を言おうと結果が覆ることはなかった。
馬車の窓を流れていく景色をぼんやりと見やる。私のこれまでの努力は何だったのだろうか。
こんなことになる為に皇妃教育を受けてきたわけではないのに……。
激しい虚脱感が襲う。なぜ、なぜこんなことに……。
皇太子妃に、ゆくゆくは皇妃になる為あらゆることを学ばねばならないと、厳しい教育を受けてきた。
そう、厳しすぎて同様の教育を受ける皇太子が頻繁に逃げ出していたことは知っていた。
そして逃げ出した先で伯爵令嬢と逢瀬を重ねていたことも……。
私は皇太子に対して全く恋愛感情が湧かなかった。
自分がこなしている教育をさぼり、貴族としての、皇族としての義務を果たそうとしない彼に魅力など感じるはずもなかった。
だからブリジット嬢が己の婚約者やその取り巻きたちと何やら恋愛模様を繰り広げているらしいと知っても、特に何もしなかった。
彼女に正妃は務まらないだろうと、側室の候補が出来ただけだと、そう思っていた。
それがまさか婚約破棄の上、修道院送りとは……
『自分を取りまく世界を恨んではいけません。でなければ周囲に恨まれることになり、あなたは破滅する。あなたは周りの世界に生かされているのです』
何度も言い聞かせれられた、亡くなった母の言葉が蘇った。
母はとても美しく聡明であり、私は彼女が大好きだった。
当然私は母の影響を受け、私の人格の根本は母の教えで出来ている。
母の遺してくれた言葉はもちろん今も大切にしているし、彼女に誇れるような言動を心掛けている。けれども……
「恨むなというのは……無理かもしれません。お母様……」
確かに恋愛感情はなかった。しかし幼いころから国の頂点に立つものとして同じ方向を向いて歩んできた同志としての情があった。
言ってみれば彼はビジネスパートナーのようなものだったのだ。
それが手ひどく裏切られた。
どうしても、どうしても怒りが湧き、恨みに思ってしまう。
修道院へ移送される馬車の中で、私は自分の中の負の感情を持て余していた。
しかしそんなものは、現状を知らなかった私のくだらない思いだった。
「これは……」
宿泊するために立ち寄った町を見て、言葉が続かなかった。
町の人々は皆暗い顔をし、痩せこけている。そもそも出歩いている人が少ない。
道の端には憔悴しきった様子の人々が蹲っている。
建物もところどころ壊れていたりしていて、あれでは雨風が入り込んでしまうのではないだろうか。
皇都とはまるで違う様相に、驚きを隠せなかった。
「ひどい有様でしょう」
護衛のダイアンが声をかけてきた。
彼の顔には何の感情も載っていないように見えた。
いや……握った拳が震えている。押し殺しているのだろうか。
「皇都以外の町は皆同じようなものです。ここは表通りなのでまだマシな方です。裏に行くともっとひどい」
「なぜこんなことに……」
「2年前に大規模な魔物による災害があったでしょう?覚えていますか?」
「ええ、もちろん。あの時は人手が足りないとのことで復興支援の業務に少しだけ関わりました。結構な予算を割いて支援していたはずですが……」
皇妃教育の傍ら、必死で手伝った記憶がある。
結界が張り巡らされている皇都以外の土地のほとんどが大なり小なり何らかの被害にあっていた。
被害状況をまとめ、予算内に収まるよう支援を振り分けていく。
その土地を治める貴族同士による色々ないざこざによって、非常に面倒で大変な業務だった。
ちなみに皇太子は嫌気がさしたようで途中で逃げ出し、ブリジット嬢と愛を育んでいたようだったが。
「届いていません」
「え?」
「復興にどのくらいの費用があてられたのか知りませんが、支援の手は国民たちには全く届いておりません」
「そんな……」
そんな馬鹿な。確かに予算は領主に割り振られていたはず……
「確認されなかったのですか?」
「え……」
「きちんと支援用の予算が運用されているか確認はされなかったのですか?」
強い目線を私に送りながら、ダイアンが問いかける。
彼が平民であることを考えるとそれは公爵令嬢に向けるにはとても不躾なものであったが、きっと今そんなことは問題ではないのだ。
「え……その……私が主体で行っていた業務ではなかったので……」
ただ手が足りなかったから手伝いとして入っただけで、そこまで考えていなかった。
気まずくて目をそらし、歯切れの悪い返答を返す。
「あなたは……!」
思わずといった感じのダイアンの大声に驚いてしまい、体がビクッと跳ねる。
その様子を見たからか、ダイアンは声を落として、絞り出すように続けた。
「……あなたは貴族で、政にもかかわることができる位置にいらっしゃったようだ。今目の当たりにされている光景が我が国全土に広がっているのです。関係ないようにおっしゃられるのは……あまりにも……」
無責任ではないか。そんな声が聞こえた気がした。
何を返したらいいのかわからない……
「……失礼なことを申しました。申し訳ございません。……町はご覧の通りに荒れておりますので、治安が悪化しています。滞在中の外出はお控えください」
ダイアンはそう言って宿に入っていった。その背を呆然と見送った。
私は……私は……
「申し訳ありません。ダイアンは最近妹を亡くしていまして……原因は風邪です。栄養失調の状態じゃなければ死ぬことはなかったでしょう」
別の護衛の一人のエリックが穏やかな笑顔を浮かべて声をかけてきた。しかし目の奥が笑っていなかった。
そこで初めて気が付いた。私は彼らに憎まれているのだと。
……頭を殴られたような衝撃があった。
権力争いに負けた女の移送など面倒な仕事だし、歓迎されることはないだろうとは思っていたが、私は全く現状が把握できていなかったようだ。
「どうぞ宿へ。それなりのところですが、馬車の中よりは快適だと思いますよ。城で過ごされていた時のように娯楽は提供できませんが」
娯楽……彼の言わんとしていることが理解できた。
息が苦しい。
頭がガンガンする。
彼らにとって私は、生きるか死ぬかの状態の人々を放って、恋愛事に興じていたような人間でしかないのだ。
くだらないことに興じていたくだらない人間を貴族だからという理由で責めてはいけないし守らなくてはいけない。
やってられないだろう。
これは彼らだけに言えることだとは思えなかった。お前は何をしていたのかと、世界中に責められているような気がした。
私は顔を上げることができないまま、足早に宿に入った。
……クリスフォードやブリジットのことなど、もはやどうでも良くなっていた。
あれほど恨みに思っていたのに、為政者であったはずの私たちが起こした恋愛のもめごとやその為の結末など、些末な問題にしか思えなくなっていた。
「いたぞ!」
「こっちだ!」
宿を取った町を出立して少ししたところで、野盗に襲われた。
本当に治安が悪いらしい。
護衛の士気は低く、すぐに突破されたため、隙をついて一人で逃げた。
私は一応身体強化の魔法が使えるので、すぐに捕まることはない。
ただ簡単な護身術しか習っておらず、相手が大人数のため制圧することなどは難しい。
普通なら金品を置いてある程度逃げれば、スピードがあって追いつきにくい人間をわざわざ追いかけたりはしないが……1時間ほど逃げているが、諦める様子がない。
「貴族だ!逃がすな!殺せ!」
「何としてでも捕まえて殺せ!」
そうか、略奪が一番の目的じゃない。もちろんそれもあるだろうが、何より彼らは平民で、ただ貴族を殺したいのだ。
こんな風な国にした貴族を。
彼らの大事な人を守らない貴族を。
「……!」
崖だ。これ以上進むことはできない。
「追い詰めた!」
私はその声に弾かれたように崖に沿って逃げようと駆け出す。
しかしその時、足元が崩れた。
ふわりとした浮遊感とともに空中に身が投げ出され、私は終わりを確信した。
憎々し気な野盗たちと目が合い、あぁやはり彼らは心底貴族を恨んでいるのだなと思った。
その瞬間、襲撃された恐怖も、命を奪われた恨みもどこかへ行き、何かがすとんと胸に収まったような気がした。
また母の言葉を思い出した。
『あなたが皆に頭を下げられるのは、貴族としての責任があるからです。もしそれを果たさぬのであれば――』
そうです。その通りですね。お母様。
どうやら私は責任を果たしていなかったようです。
申し訳ありません。
為政の中枢にいる貴族同士で下らぬ恋愛劇など繰り広げている場合ではなかった。
自らは何もしていなかったなどというのは、言い訳にもならない。
止めなければいけなかった。
その時間を、労力を、疲弊した民達に割かなければならなかった。
命を賭してでも。
ここで私は終わる。残った者たちは、変わらず笑いながら劇を続けるのだろうか?
消えゆく己の命よりも、ただ、民たちが哀れだった―――