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両想いな僕たち  作者: 痛瀬河 病
2/3

彼女が見ていたものは

「まるで、電池の切れたおもちゃだな」


 竹下先生はため息交じりにそう呟いた。


 次のレッスンの日。

 俺はまともな演奏が出来なかった。

 元々ムラッ気のあるほうだが、今日は酷すぎる。


「コンクールまで、もう時間がないんだぞ」

「はい、すいません、」


 竹下先生が叱咤するが、もうどうでも良かった。

 元々、記念受験のようなものだ。


「……今日はもういい。こんな状態でやってもかえって変な癖が付く」


 竹下先生も呆れて、次を呼んでくるように言った。

 俺の次と言えば、奈央ちゃんだ。


 俺は彼女に合わせる顔がないなと思いつつも、これが関係修復の糸口にならないかと、恐る恐る練習室の扉を開けた。


 しかし、待合室にいたのは奈央ちゃんではなく、中学生ぐらいの男の子だった。


「終わりました?」


 男の子はそう言ったのだろうが、俺の耳をすり抜けていく。

 慌てて、練習室に引き返したからだ。


「竹下先生、今日は月下さんは来ないんですか?」


 月下とは奈央ちゃんの苗字だ。

 竹下先生は、聞かれることを覚悟していたのか、落ち着いた口調で教えてくれた。


「……その様子だと、やはり知らなかったか」


 俺のような感性の鈍い音楽家でも音楽家の端くれだ。

 今、この場に包まれている妙な雰囲気に気が付かないほど馬鹿じゃない。


「詳しくは俺の口から言えん。と言うより、聞くな。唯一言えることは、彼女はもうこの教室には来ない」


「……は?」


 頭の中に七色の絵具を詰め込まれたみたいなパニックと言うに相応しい混沌が俺に訪れた。


「それは破門と言う事でしょうか?」


 この状況下でも日本語を話せている自分を褒めてあげたい。


「違う。自主退会だ。これ以上聞くな」


 自主? それは彼女が自主的にここを去ったと言う事か?

 嘘にしては下手過ぎる。

 そんな事地球が破裂しようが、分裂しようがあり得ない事だ。


「先生、お願いします。教えてください」


 俺は床に膝をついて懇願した。

 しかし、竹下先生の口からは芳しい答えを得られない。


「駄目だ」


 俺は無言で床に頭をつけた。

 これ以上、俺に出来る頼み方はない。


 竹下先生は張り詰めた空気を抜くように、フーっと少し長めに息を吐いた。

 先生はピアノ椅子に座ると、俺の方を見ずに話し始めた。


「……彼女は悩んでいたよ」


 何をだ?


「俺の口から絶対に言わないでほしいと言われたんだけどなぁ」


 何をだ?


「お前との埋められない才能の差にだ」

「……彼女の方が、どのコンクールでもいい成績を残していたはずですが」

「俺が言うのもなんだが、コンクールだけじゃ音楽家って人種は測りきれないよ」


 何が言いたいんだ。

 俺の頭の中は混乱を極めていく。


「自分の声だけはどんなに耳の良い奴でも正確には分からない。しかし、お前ほどの無知さは罪かもしれないな」


 竹下先生は小窓から外を覗く。

 ここまで一度も俺と目を合わせない。


「……あいつ、交通事故に遭ったそうだ。命に別状はないが、両手をタイヤに踏まれている……恐らくは、もうピアノは」


 俺は飛び出した。

 これ以上聞くことなんてない。


 きっと、嘘だ。

 そんな絵に描いたような、陳腐なドラマみたいな、しょーもない作曲家が書いたわざとらしい悲劇があってたまるか!


 俺は彼女の家に向かった。

 向かいながら、彼女の母親に電話を掛けた。


 出ない。

 おばさん、何故でないんだ。


 彼女の携帯にもかけた。

 しかし、何度かかけている内に着信拒否をされた。


 彼女の家に着くと、慌ててインターホンを鳴らす。

 いつもは綺麗だと感じていた赤い屋根も今日ばかりは不気味に感じる。

 誰も出てこないのではないかと思ったが、意外にも直ぐにおばさんが出てきた。


「……直哉君、その様子だと聞いてしまったみたいね」

「……すいません」


 おばさんの顔には覇気がない。

 目の下にくまも出来ているし、顔色も全体的に青白い。

 それでも、俺への配慮を忘れない。


「いいのよ。元々、隠し通せるわけもないものね。でも、あの子のたっての願いだから、やれるとこまではやってあげたくってね」


 この感情は何だ。

 お腹の中にぽっかりと穴が開くと言う表現があるが、今はっきりとそれを体感している。

 自分の身体が欠けたようだ。


「……あの、奈央ちゃんは、今、どこに?」


 俺は途切れ途切れの言葉を切り貼りし、彼女の居場所を問うた。

 おばさんの顔はどんよりと曇っている。


「多分、今、あの子はあなたに会いたくないんじゃないかしら」


 竹下先生の時もそうだが、これは俺の我儘だ。

 百も承知している。

 これだけ周りの人間が俺を彼女から引き離すと言うことは、それが彼女の意志なのだろう。

 今、会って俺が何か出来るわけではない。

 寧ろ彼女の気分を害すだけかもしれない。


 でも、あんな別れ方のまま彼女に会えないなんて嫌だ。


「……俺が彼女に会いたいんです」


 俺は今自分に驚いている。

 俺は今までのらりくらりと自分の人生から一歩引いた位置で傍観していた。

 極力、我を通さない。

 周りに迷惑を掛けない。

 周りの意見を一番に。


 そんな人間が、ここまでエゴイストになれるものなのか?

 俺の中で何かが変わっていく。

 俺は今、彼女の為でなく自分の為に彼女に会いたい。


 おばさんは何かを悟った顔をし「ちょっと待ってて」と家の中に入っていった。

 そして、すぐに戻ってくると俺にメモ用紙を渡した。


「奈央をよろしくね」


 俺は頭を下げ、礼を言うと、また走り出した。




 真っ白な建物、それに合わせたかのように俺の吐く息も白い。

 清潔感のある室内に似つかわしくない、汗まみれの俺。

 心臓が今にも破裂しそうだ。

 実は嘘でしたと言ってもらえるんではないかと、淡い幻想を抱き、メモに書かれた部屋番号の前に立つ。

 飲み込んだ唾が重い。

 ノックをしなくてはいけないのに、腕が上がらない。

 俺の横を通り過ぎていく看護婦さんが奇妙なものを見る目で通り過ぎていく。


「早く入りなさいよ。周りの迷惑でしょ」


 彼女の声がした。

 奈央ちゃんの声だ。

 聞き間違えるはずがない。


 その声は俺の背中からだった。


 俺は後ろを振り返ると、松葉杖をついた奈央ちゃんがいた。


「やっぱり来たのね」


 彼女は溜息をつきながら、スライド式のドアを開ける。

 俺は何も言えずに彼女の背について部屋の中に入っていった。


 


 奈央ちゃんはベッドに座ると、俺は来客用の椅子に腰かけた。


「で、何しに来たの?」


 俺はもっと強烈に怒られ、追い返させるのかと思っていた。

 しかし、意外にも彼女は怒っている様子はなく、物静かに俺の話を聞こうとした。

 俺は彼女の両手に目を落とす。

 大げさであって欲しいと願いたくなるほどの痛々しいギプス。

 よく見れば、肌の見えるところには所々裂傷が見える。

 顔に大きな傷がないのが、不幸中の幸いだろうか。


 俺は意を決した。


「あのね、奈央ちゃん、この間はごめん」


 あの日、最後に彼女に言われた「死ね」と言う言葉。

 一秒だって忘れちゃいない。

 このまま、壊れてしまった関係でなんていたくない。


「何について謝ってんの?」


 奈央ちゃんは低い声色で俺に問うた。


 そう、謝罪とは謝る側に何かしらの落ち度がある場合に発生する。

 この場合、俺の非は何か、それが分かっていなければ空の謝罪だ。

 そこに意味はなくなる。


「……辞めるなんて軽々しく言って、ごめん」


 今ある贅沢な環境を簡単に投げ捨てることは、同じ環境下にいる者にとって冒涜に近い。

 彼女はそれに怒ったのではないか。


「……それだけ?」


 彼女の視線が俺を刺す。

 他に何か言わなくてはいけないのだろう。

 他に、他に、他に。


 何だ?


 竹下先生の言っていたように仮に俺の方が才能があるとして、それを謝るのか?

 そんな馬鹿な話はない。


「ほら、やっぱりわかってない」


 時間は有限で俺を待ってはくれなかった。

 奈央ちゃんの声に苛立ちが混ざる。


「だから、あんたの顔なんてもう見たくなかったのよ」


 しかし、短く息を吐くと何か感情を切り替えるように冷たさを覗かせ、矢継ぎ早に俺に自分の要望を叩きつける。


「言っとくけど、この事故は完全に私の不注意よ。あんたのせいじゃないから」

「邪推して、責任感感じて毎日見舞いとかこなくていいから」

「じゃあね、もう来ないでね」


 その別れは、一生の別れを予感させた。

 ここで俺が立ち上がとあって、病室を出れば二人が合うことは二度とないだろうと言う予感。

 俺は食い下がった。

 すがるように右手を前に伸ばす。


「なっ、奈央ちゃん―」


 ̄パリンッ


誰かが持ってきたのだろう。

彼女の横の机に置かれていた花瓶が地面に落ちて割れる音だった。

花弁が散り、中に入っていた水が波紋のように広がる。


落ちたのではない、落としたのだ。


彼女が。


そのギプスに覆われた両手で。

そして、彼女はその両手で頭を抱える。


「あんたに投げたいところだけどこの両手だし我慢してあげる。それにもしそれで手でも切られてピアノに影響が出たなんてなったら寝覚めが悪いわ」


 彼女の感情が湧きたっている。

 自分ではコントロール出来ていない。

 しかし、そんな時でも根底にピアノがある。

 

 彼女にとってピアノはそれだけ重いものだ。


「分からないなら、教えてやるわよ。なんで、私が怒っているのか」


 彼女の目が俺の目を捉え、放さない。

 その目の中には水滴が浮かび、歯軋りをしている。

 その水滴は彼女の頬を伝ってベッドのシーツに染み込む。


「あんた、スポーツは見るかしら?」


 突然、何の話だろう。

 しかし、俺がここで何を考えていても答えは出ない。

 だから素直に答えておこう。


「野球とサッカーなら」

「そう、じゃあ好きな選手もいるわよね」

「まぁ、いるよ」

「そんな選手が不甲斐ない成績を残し、それも本人の自己管理が問題だったら頭に来ない?」


 好きな選手とは憧れだ。

 自分では届きはしない世界で活躍する憧れ。

 それはヒーロー。

 そんな人たちの不振が本人自体の生活やつまらない事にあるなんて、幻想を壊される気分だろう。

 それは面白くない。


「……面白くないかもね」


 俺はぼそりと溢した。


「一目惚れよ」


 彼女はそう溢した。

 次は恋の話?

 奈央ちゃんにそんな相手がいるなんて、そんな場合ではないけど、ショックだ。


「私が小学校六年生の時、いつものようにルンルンで竹下先生のもとに向かったわ。私は選ばれたんだって、凄い先生が私を認めてくれて、私はそれに答えてどんどん上手くなってやるって」


「そして、そんなある日。私は一目惚れをした。いや、一聴き惚れかしら」


「待合室で待っていると、練習室から聴こえてくるのよ。その演奏がね」


「練習室は当然防音でしょ。他の生徒の演奏も待合室で漏れ聞いたことはあったけど、その演奏は漏れたのでなく、聴こえた。」


 彼女はその思い出を語る時だけ、今までの怒りも忘れたかのように楽しそうに笑顔になっていた。


「どんな人が弾いてるのだろうって、決して上手くはないけど、音が多彩ではっきりとしている。力強い人に聴かせる音楽」


 そこまで話して、彼女は俺を見て嘲笑気味に笑った。


「で、練習室から出てきたのが中一のあんた」


 俺は中学に上がりたてだったろうか。

 多分、竹下先生の所に試験を受けに来た日だ。


「初めは絶対に良いライバルになってくれると思ったわ。仲良くして共に切磋琢磨しようと一生懸命話しかけたわ」


 確かに初めて会った頃の奈央ちゃんは優しかった気がする。


「でも、すぐにあなたと言う人間を嫌いになった。それだけの才能を持ちながら、全く活かす気がないんだもの」


 確かに彼女が中学生になった辺りから、あたりが強くなったような気がする。

 彼女はギプスを付けた両手をあげる。


 丁度、鍵盤があるくらいの高さに。


「私は駄目よ。この小さな手じゃ満足に鍵盤を駆け巡れない。病弱な体ではホールの端から端まで響く音を出せない」


 それは確かかもしれない。

 でも、そんなものは多くのピアニストが埋めてきた問題だ。


「奈央ちゃんにはそれを補える技術があるじゃないか」


 彼女の瞳に自嘲の色が見える。

 あげた両腕が小刻みに揺れる。

 まるで演奏をしているように。

 

「馬鹿ね。一流のピアニストになるなら、そんな技術は最低条件よ。あって当たり前、あんただって、これから必死になればいくらでも身につくわ」


 なんと、過酷な言葉だろう。

 それが彼女の覚悟であり、俺が見ずにいた、彼女が見続け、聞き続け、抗い続けている世界のお話。

 そして「でもね」と付け加え、彼女の目に熱がこもる。


「スタッカートよ」


 跳ねるように弾く。


「あんたのスタッカートは力強いサラブレッドの駆ける音。私のはノミが跳ねる音。軽やかに弾けとは言われているけど、それは軽くとは違う。軽やかな音であって、軽い音ではない」


 多分、そこが彼女が俺と一番に感じていた部分なのだろう。

 俺は何も言えなかった。


 でも、彼女は続けた。

 俺のピアノの凄さを自慢の彼氏でも紹介するように惚れ惚れとしながら続けた。


 そして、俺を呼ぶ。


「直哉」


 名前で呼ばれるのは随分久し振りかもしれない。


「私はあんたが嫌いよ。でも、あなたの演奏は世界で一番大好き。だから、私を直哉自身まで大好きにさせてくれないかしら」


 それは、告白ではない。

 言っている。

 必死にやれと、がむしゃらに、本気になれと。


 でも、それはどんな告白よりも嬉しいものだった。


「……うん、頑張る」


 僕は椅子から立ち上がる。


「僕、看護師さんに割れた花瓶を片付ける道具貰ってくるね」


 彼女は花が咲いたように笑った。

 その笑顔は花瓶に刺さっていたどの花にも負けていなかった。


「なによそれ、僕って」


 また出ていた。

 僕の癖、音楽にのめり込めばのめり込むほど出てくる恥ずかしい癖だ。


 でも、もう気にしない。

 それが自分の演奏にプラスになるものならなんだっていい。


 だって、僕が世界で一番好きな演奏をする大好きな人に背中を押してもらえたのだから。




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