底辺男と外から来た女
星がネオンに遮られ、闇に溶ける摩天楼の間に見える夜空。ここは自由を是とした国。商売も自由、学習も自由、遊びも自由。自由、自由。ここは自由貿易広域連合国。ここでは、全てに自由が与えられている。それが自らの自己責任と引き換えということを受け入れられれば。すべてが欺瞞で、自由の国。その中心、地下都市・ネオメトロシティは、眠らない。今日も街にはネオンがまたたき、人々の疲れた表情を浮かび上がらせる。
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スカベンジャーが去った後の現場は綺麗なものだ。あれだけ凄惨な殺しをやった後でも、数時間もすればもう新たなホームレスが居座っている。棺桶屋の仕事に食いっぱぐれはない。ネオメトロシティにはいくらでも『商品』がいる。生きている人間をスカベンジャーが商品とし、梱包したものを指定された場所まで運ぶ。タフな仕事だ。商売敵や、別のスカベンジャーに『商品』にされる同業者だっている。だが、元傭兵という経歴を持つ棺桶屋のレイバル──特殊梱包材を詰めた『コンテナ』を持った青年だ──にとってみれば、唯一できそうな仕事だった。
このネオメトロシティにおいては、頭脳労働者とそうでない人々は徹底的に差別されている。もちろん、直接的にそれが示唆されることはないが、人々の意識が、社会の構造がそれを証明している。レイバルは後者だった。傭兵は、傭兵派遣会社に所属し、各地の戦場に送られる。生きて帰れば、使った銃弾の代金や経費を差っ引かれた僅かな給料を渡される。命の危険の代わりに貰えるのは、たったそれだけだ。
「くだらん」
誰に問うたわけでもない、呟きが汚く冷たいコンクリートに跳ね返る。不満だらけだ。だが、現状に満足するしか無い。そうやって脳をだましだましごまかしている。お手軽な電脳ドラッグやセクシュアル・シュミレートで快楽を得るという方法もあるのだろうが、レイバルにとっては魅力的に感じられなかった。本当の意味で脳を騙しても、虚しいだけだ。指定の場所にコンテナを届けると、それで仕事は終わる。指定された場所……倒産した小さな廃工場。
「早かったな」
スーツのがたいのいい三人組が立っていた。目には、サングラスをかけており、表情は窺い知れない。
「ああ。……金は?」
「なんだ、うわさどおりの無愛想さだな。『棺桶屋』のレイバル」
小馬鹿にしたような口調でリーダー格の男がアタッシュケースを放り投げる。
「仕事は確実で迅速、それでいてこんな紙の金でないと受け取らないとは」
レイバルがアタッシュケースのロックを外すと、ケース一杯に紙幣が詰まっているのがわかった。ネオメトロシティでは、紙幣は絶滅しつつある。もちろん、価値が無いわけではない。が、電子化された貨幣は急速に広まり、今や誰もが紙幣を電子貨幣に変え、ネオ・ウォレットと呼ばれる端末に移し管理している。紙幣や硬貨を持ち歩く人間など居ない。単純にそちらのほうが便利なのだ。
「……商品を確認しろ」
レイバルは平坦な声で言葉を発した。金は受け取ることができた。彼にとってそれは変えようの無い事実であり、それ以上の感情を発する必要はないのである。金は生活するための道具であり、手段だ。そしてネオメトロシティにおいては、金が無いということは人間として扱われないということでもある。金は身分の証であり、命そのものだ。いや、金さえあれば命すら買えるのだから、金は命より重い。
サングラスの男はコンテナの開閉スイッチを押す。圧縮空気が開放され、蒸気が抜けるような音が鼓膜を揺らす。ゲル状で透明の梱包材の中には、脈打つ心臓があった。この心臓は生きている。医者に持ち込めば、すぐにでも心臓疾患の患者は救われるだろう。だがそのかわり、この心臓の持ち主は死んだ。何の落ち度もなかった。ただ、商品として手頃だったという理由でだ。
「確かに。これで我が社の社員の命は安泰だ。感謝する」
「取引は終わっている。礼を言う必要など無い」
こんな仕事でも、レイバルはプロ意識を持っている。対価は金で十分だ。
「しかし、知っているかね、レイバル。スカベンジャーを使うと言う事は、それだけ切羽詰まっていると言うことだ。そして我が社は情報の管理にとても気を使っている」
「なにが言いたい」
ペットボトルのキャップが開く時に似た音が響く。レイガンだ。
「我が社のイメージの問題だ。棺桶屋が死ねば、使ったことは分からん。『死人に口なし』だ」
「契約違反だ」
「書類を交わした覚えはない」
棺桶屋の仕事は、スカベンジャーからの下請けに過ぎない。スカベンジャーと契約者は細かい条項のある契約書を交わし、前金を払う。棺桶屋は別だ。代金を出し渋る者もいる。こうして、秘密を守ろうとしようとする人間もいる。犠牲になるのは棺桶屋だ。実力がないものは、蜂の巣になるのが常。弱肉強食。ネオメトロシティの縮図だ。
「なら、あんたらがそうなっても文句はないわけだ」
銃声。マズルフラッシュが暗い廃工場を照らす。炸裂する黒スーツの男たち。転がるコンテナ。闇より暗い銃口から硝煙が上がり、埃の間を彷徨う。レイバルの右手に握られていたのは、旧式の中折れ式リボルバーだ。こんなものは今やどこの国でも流通していない。統一戦争の時代に使われた、軍隊の制式採用拳銃らしいが、それ以上レイバルに銃の歴史についての興味はなかった。
仕事は終わった。商品は無駄にならない。スカベンジャーは、臓器売買に関してある程度のネットワークを持っている。そうでなくても、取引先は腐るほどあるのだ。
レイバルは血煙漂う廃工場から暗い裏路地を通り、ホームレスのバラックを抜けて、大通りに出た。どこから来たのかも分からない人々が行き交う、ネオン瞬く世界。もはや広告の意味も失った看板が、ただただやかましい光を放つ。行き交う疲れた企業戦士達。性的サービスに従事する娼婦が手を引き、店へと引きこむ。一方で、金を持たぬホームレス達が店から叩きだされ、罵声と唾を吐きかけられる。明日を恐れているかのように奇声を挙げ、刹那的に生きる若者たち。彼らの服には『ヤバイ』『エンジョイ』『テンション』など、とにかく景気のいい言葉が右から左へ流れていく。超薄型ディスプレイを繊維状に編み込んだ、サイバー・ウェアと呼ばれるファッションだ。
そこには、いつもの光景があった。変わらない日常。その言葉自体は悪くない。今の日常が最悪で、さらに最悪になり続けている、ということから目を背ければ。レイバルの格好は、簡単なものだ。履き古したジーンズに、黒い革のパーカー付きのジャケット。拳銃は肩のホルスターに収まっている。ネオメトロシティの繁華街を歩くには少々地味だが、別に遊んでいるわけではないからいいのだった。
繁華街を外れても、ネオンの数は変わらない。とある雑居ビルの二階、小さな喫茶店『やすらぎ』。客は入っていない。これもいつものことだ。
「お帰り。ずいぶんはやかったじゃないか、レイバル」
背の高い優男だった。柔和な笑みは人を安心させ、大抵の女性に好意を持たせることができるだろう。イヤリングが耳に三つずつつけられており、淡く青く発光している。エプロンをつけ、コップを磨いている彼は、この店のオーナーである。
「金を受け取りはしたが、契約違反があった。商品が無駄になりそうになってる。きちっと流通させてくれ」
レイバルはコンテナをカウンターにぞんざいに置くとそう言い放ち、スツールに座った。
「コーヒーだ」
これもいつもと同じだ。
「商品に関しては了解したよ。コーヒーもすぐに入れるさ」
コーヒーミルで豆を砕きながら、オーナーは話を続ける。
「しかし何だね。君ももう少し穏便にやったほうがいいんじゃないのかい。ここんところ、ぼくのところ以外の依頼も減ってるんだろう?」
「穏便? 俺は自分のために仕事をしている。第二に金だ。相手が約束を守れていないだけだ。そういうリスクも、あんたらスカベンジャーは十分相手に説明してるんだろう」
ソーサーに乗ったカップの中では、芳醇な香りのコーヒーが揺れている。レイバルはそれにありったけの砂糖とミルクを入れ、ガブガブ飲んだ。
「この街で相手に『信頼』を期待するのは無謀だと僕は思うけどね」
スカベンジャー達は、子飼いの下請け業者をいくつか抱えている。商品となる人間を殺す『シメ屋』。商品となる臓器をとりわけ、適格に梱包する『ギフト屋』。最後に、それを取引相手に確実に移送するのが『棺桶屋』だ。別々の業者を使うのは、出来る限り機械的に、迅速に作業を行い、なおかつリスクを分散するためだ。現場でこうした下請け業者たちが、『商品』にされることもあるこの街において、替えが効くかどうかは重要視されている。
逆を言えば、それらを使役する立場であるスカベンジャー達は、彼らの安全のことなどほとんど考えていない。立場は弱いのだ。自分の身は、自分で守るしか無い。レイバルが相手に対して躊躇をしないのも、傭兵時代から培った自衛意識の強さにある。
「してるさ。それなりにね。ただ運が悪いだけだ、君のね」
「それはお前にも当てはまるだろう。嫌ならいい加減、俺を使わなければいいだけの話だ」
「その通りさ、レイバル。でも僕は君のことが気に入ってる。仕事は確実だしね。だから、もう少しスマートに、利口に立ちまわる術を身につけて欲しいんだよ。クライアントから、依頼したら殺されるなんて噂は立てられたくないからさ」
「なら、クライアントの質をよく選ぶことだ」
棺桶屋は、商品と引換に直接報酬を受け取る。当然、そこで裏切られるリスクも大きい。ネオメトロシティでは、黙って金を渡すことに抵抗がある人間が多いのだ。
「……ギフト屋はもう帰ったよ。金は代わりに払っておいた。『シメ屋』は……もうすぐ来るはずだ」
報酬の半額は、棺桶屋が受け取る。よって、棺桶屋とスカベンジャーの信頼は重要だ。金をそのまま持ち去る棺桶屋も少なくないが、棺桶屋としてあってはならない行為だ。この業界で干される原因となりうる。この街のネットワークは、そういう悪評はすぐ流れるようにできている。
ドアベルが鳴る。白い影がするりと店内に潜り込み、女が姿をあらわす。白いつばの長い帽子に、白いスーツ。スカートから覗く足には、サイバネ化の証である、ブルーのダイオード光がスリットから淡く走っている。
「まるで嗅ぎつけたようなご到着だな、メイ」
「そう、私よ。『シメ屋』のメイ・リーよ。大層な物言いだことね、レイバル? 今日は相手を殺さずに済んだのかしら」
全身サイバネ化された彼女にとって、先ほどの会話が聞き取れなかったとは思えない。痛烈な皮肉だ。
「彼女は優秀だし、競争相手にとってみれば『商品』にはならない。シメ屋には最高の人材だ。……棺桶屋でもいいんだがね。君の代わりにさ」
メイ・リーはウィスキーをロックで注文する。優秀さと業界での扱いは比例する。結果を出せば評価されるのだ。喫茶店であるこの店にウィスキーが置いてあるのは、彼女のためにほかならない。
「サイボーグが酒を呑むなんて、いつ見ても皮肉だぜ」
「わたしはガイノイドよ。……味はわからないわ。でも、仕事が終わってからこうして一杯やる。まあ癖みたいなものよ」
長く白髪交じりの蛍光グリーンの髪の毛から、青く淡く発光する瞳が覗く。片方だけだ。もう片方は、髪の毛で隠れてしまっている。その下は、付き合いの長いレイバルでも見たことは無い。メイ・リーはレイバルが何も言わないうちに、アタッシュケースを見て表情を不満気なものに変えた。
「で、また分け前は現金ってわけ? いい加減クレジット素子にしてくれない? ネオウォレットをわざわざインプラントした意味が無いじゃない」
グラスを置き、メイ・リーがいつもの不満を垂れる。マスターは苦笑を浮かべ、大型モニタのスイッチを入れ、ナンセンスなTV番組を見始める。今日も、いつもどおりの夜だ。危険で、どうしようもない、そんな毎日だ。金は入る。生活も出来る。だが、足りない。刺激が、生きている気概が足りない。半分死んでいるような気さえする。あの、梱包されている心臓のように、無理やり生かされて、社会を回転させているような。
「一杯あげようか、レイバル?」
メイ・リーが青く淡い光を発する瞳でこちらを見つめる。
「辛くて飲めない」
「舌が子供よね、あなた」
くすくす笑うメイ・リー。ナンセンスなテレビ番組から、合成された笑い声と、やかましいファンファーレが鳴り響く。マスターは柔和な顔つきでテレビ番組を見ている。
その表情が険しいものに変わったのを、レイバルもメイ・リーも見逃さなかった。
「誰か来たようだね」
「客じゃないのか」
「ありえない。君たち以外にこんな真夜中にくる客はいない。知ってるだろ。このビルには、この店しか入っていない」
レイバルはホルスターから銃を抜くと、銃口を下に向けカウンターに回る。メイ・リーも同じくそうした。ただ、彼女の場合は手首を捻ればそこが外れ、銃口が現れる。マスターは、ボタンを押したことでずれた戸棚から現れたショットガンを、表情を変えずに取った。階段が鳴る音がする。誰かが上がってくる音だ。どことなくぎこちない。
「一人ね」
「おい、誰か分からないのか。お前、眼もサイバネ化してるだろう」
「誰が好き好んで透視装置なんてつけなきゃいけないのよ。このエロガッパ」
階段を登る音が、止まった。扉の前にいるのだ。銃口を扉に向ける。扉が開く。
子供だ。十代かそこらの子供が、転がり込んできた。その手には、小さなカバン。ズタボロの血まみれ。生きているか、死んでいるかも分からない。
「いつから子持ちになったんだ」
「……私に言ってるんじゃないわよね」
「少なくとも敵じゃないようだね。心臓は動いてるかな」
「商品にする気か?」
「ああ」
マスターは事も無げに言った。
「若い臓器は高く売れるからね」
「冗談だろ。あんたは今日、さっきの心臓で十分稼いだじゃないか」
「お金はいくらあってもいいものさ。……レイバル、君がこのくらいの年頃の娘が好きだとは知らなかったな」
薄く笑みを浮かべるマスター。この男もナリこそ優男だが、間違いなくネオメトロシティの人間なのだ。金のためなら、いくらでも下劣になれる。そんな彼を尻目に、レイバルとメイ・リーは少女に近づいた。
「どう、レイバル?」
メイ・リーは心配そうに少女を見る。脈でも見られればいいのだろうが、彼女はサイバネ化の副作用として、触覚を失っている。サーモセンサーくらいはついているが、触覚による細かい反応を読み取ることはできないのだ。
「脈はある。体温もだ。お前のセンサーなら、どっちも分かるだろう」
「ええ。呼吸に乱れた感じはないわ。血も返り血みたいね。自分の血じゃない」
駆動音と共に、メイ・リーのサイバネアイが起動し、センサーが少女の身体をグリッド化、スキャニングを開始する。大きな怪我はない。細かいすり傷が、身体や洋服についている。
「なおさら結構だ。傷なしなら高く売れるだろうね」
「今はそんな場合じゃないだろう」
レイバルは少女を抱え、テーブル席のソファーに下ろした。
「こいつは多分、訳ありだぜ」
「まあ、十中八九そうでしょうね」
「どういうことだい? 行き倒れにしか見えないが」
「このトランクを見ろよ」
トランクにも、返り血は飛んでいた。紋章が描いてある。しっかりした作りで、電子制御の鍵までついている。この辺りの浮浪者では手も足も出ないだろう。
「こんな頑丈な鍵がついてて、血みどろなんだぞ。何が起こったかなんて押して図るべしだ」
「中身はなんだろうね」
「さあな。……心臓じゃないことだけは確かだろ。メイ、開けてみろ」
レイバルはメイを顎でしゃくる。
「……ちょっと待ってよ。いくらなんでもそれは不用心じゃないの?」
「鍵は立派だからいいだろう」
「この子のことを言ってるんじゃないわよ。私たちのことを言ってるの。あんた、たった今わけありって言ったばっかりじゃない。中に、とんでもないものが入ってたらどうすんのよ」
「僕は見ないぞ」
いつの間にかマスターは後ろを向いていた。ショットガンは可動式の棚の奥に戻っている。
「僕は見ない。好奇心は猫をも殺すって言うからね」
「私だって見ないわよ! っていうか、開けない!」
メイは外した手首を戻すと、スツールにかけ直し、ウィスキーを舐めた。
「じゃあどうするんだ。この子を放り出すか? 夜のこの街に? 一人で?」
「当たり前じゃない。面倒はゴメンよ」
「同じく」
メイとマスターは、ネオメトロシティで育ち、ネオメトロシティで生きている生粋のネオメトロシアンだ。外の常識とは隔絶されて生きている。もちろん、どういう文化があって、何を食べている、という知識はある。ただ、この街では知識はメシのタネになっても、常識を構築するものではない。あまりにもこの街に縛られるあまり、この街での倫理を他の知識で覆そうとは考えないのだ。
無視と、自身の利益の追求。
この二つが、このネオメトロシティで生きていくための最低限の倫理だ。
ただ、傭兵上がりのレイバルはそうではない。外の世界でいかにして生きるか、心得ている。他者への接触が利益を生まないものであったとしても、直ちに自分にとって害を為すわけではないことを知っている。その結果、故郷であるはずのこのネオメトロシティでは、どこか浮いた存在になってしまっているのだ。
「分かったよ。じゃあこうしよう。このガキは俺が預かる。そして、トランクは開けない。少なくともここじゃな。それでいいだろ」
「やだあ、やっぱりアンタ『そういう』趣味なの?」
「人にはそれぞれ趣味があるものさ」
「黙れよ。もう仕事は終わったろ。いちいち詮索するな」
マスターが関心を失ったようにテレビを見始めた。
「……早く出て行ってくれ、レイバル。仕事の連絡はまた、いずれ」
殺風景なワンルームが、レイバルにとっての全てであり、城だった。粗末なベッドに、テーブル。最低限の情報を得るための旧式のデスクトップパソコン。ごみだらけで足の踏み場もない割に、彼が部屋に必要として置いているものは少なかった。ベッドに少女を寝かせようと、ゆっくりと少女を下ろしたその瞬間……少女が覚醒し、目を開けた。次にレイバルの目に入ったのは手のひらで、鋭い痛みが頬に走った。
「触らないで!」
「もう触ってる」
レイバルは彼女から離れると、血まみれのトランクを一瞥する。
「触らないで」
「もう触ってないだろう」
「わたしじゃありません! そのトランクに!」
「じゃあ、あんたには触っていいのか?」
「あんたってどうしようもない最低の下衆ね!」
少女はヒステリックに叫ぶ。
「触らないでって言ってるじゃないですか! わたしにも、そのトランクにも! お父様に言いつけますよ!」
レイバルは少女の物言いを無視し、冷蔵庫を開けた。缶ジュース以外に何も入っていない庫内を見回し、オレンジ味の缶ジュースを二つ取った。
「甘いものは好きか?」
「なんですか、突然! わたしをどうするつもりなんですか!」
缶ジュースを少女の額にくっつける。考えても見なかった攻撃に、少女は小さく悲鳴をこぼした。
「落ち着けよ。缶ジュースだ。見ての通り俺のと同じ、工業製品だ。毒なんか入ってない、全く普通の缶ジュースだ。薬物だって、添加物以外ははいっちゃいない。で、甘い。まずは落ち着いたらどうだ?」
未だ状況がつかめていないのであろう少女に缶ジュースを握らせ、プルタブを起こした。空気が音を鳴らす。レイバルも同様にプルタブを起こすと、一気に飲み干し、空になった缶しか入っていないゴミ箱に向かって投げた。缶同士がぶつかって間抜けな金属音を立て、得体のしれない黒い虫が素早く引越しを済ませた。
「男やもめでな。汚いところですまない」
少女は混乱したままと言いたげな表情で、恐る恐る缶ジュースに口をつけた。
「……甘いですね」
「ああ。ジュースだからな」
「あなたは?」
「俺はレイバルだ。このゴミ溜めのどうしようもない最低の下衆ってところさ」
少女の発言を茶化したレイバルだったが、少女はそれを想像以上に深刻に捉えたようで、まるでバネ仕掛けのおもちゃのような勢いで立ち上がると、頭を下げた。
「ご、ごめんなさい!」
「……変なやつだな。俺は別にお前に何かしようってしてるわけでもないし、何か見返りを求めているわけでもない。良い人に会えてラッキー、くらいに考えておいたらどうだ?」
少女は目を白黒させると、改めて一言「ごめんなさい」とつぶやく。再びゴミ溜めの中で静寂が二人を包む。
「お前は何者だ」
少女は俯いたまま、答えなかった。秘密を抱えて離さない意思を示すように、両手で自分を掻き抱く。青ざめた表情には恐怖が張り付いている。何かを引き出すことは難しそうだった。
「ここは、外の世界の人間が来るようなところじゃない」
「知っています。でも、来なくちゃいけなかったんです」
「なぜだ」
「答えられません」
レイバルは再びちらとトランクを見て、少女を見た。全く普通の人間だ。トランクも、多少血まみれで紋章が入っていることを除けば、まあ普通のトランクだろう。少女にここまでの警戒を持たせるものは一体何か。レイバルは自問する。答えは見つからなかった。
「まあいいさ。好きなだけいるといい」
レイバルはそっけなく自分の中で結論を出した。ここで少女を放り出せば、同業者かマフィアかサイコパスが彼女を食い物にするだろう。その事実がレイバルの良心を刺激したわけではないが、よりよい可能性を探るのは傭兵としての本能めいたものと言えた。
つまりは、成り行きだ。理由など無いのだ。
「あの、早速申し訳ないんですけど」
「なんだ」
「わたし、追われてるんです」
「おい」
レイバルは手で彼女の話を制した。悪い予感がした。とてつもなく悪い予感だ。ネオメトロシティでは、あらゆるものがネットワークを介在しつながっている。分からないことなどない。ネットワークから隔絶した部屋を持つことが、一種のステータスとなるほどだ。
こうして、レイバルが少女を部屋に上げていることも、知ろうと思えば分かる。もちろん『知ろうとすれば』の話だ。少女の言葉はその『知ろうとしている』人間が存在している明白な証拠になってしまっている。
「まさか、そのトランクを血染めにした連中とでも言う気じゃ無いだろうな」
少女は答えなかった。だが、人の機微に疎いと自負しているレイバルでも、事実を肯定しているのだとわかった。そして、その『彼ら』が近くにいるのだろうと言うことも。
「出ろ」
「待って下さいよ、話聞いて……」
「違う。とにかく出ろ。ここは危ない」
レイバルは肩のホルスターからリボルバーを抜くと、銃口を下に向け態勢を低く構えた。少女を後ろ手で制しながら、ゆっくりと裏口へと向かう。ベランダは既に危ないと見るべきだ。レイバルが持っている非電子制御式のものと言えば、このリボルバーと車くらいなものだ。既に部屋の内の何かしらはハックされ、この場の情報はただ漏れになっていることだろう。
「どうしたんですか」
「逃げるぞ。俺の部屋はあまりプライバシー値が高くないんだ」
「プライバシー値?」
「つまりは、やろうと思えば俺達の会話はダダ漏れなのさ。さ、早く」
少女の手を引きながら、レイバルは裏口を抜け階段を降りる。男達の怒声が玄関の方向から響く。階段の下から二・三人の男の足音。レイバルはリボルバーを折ると、残弾数を確認する。八発分。ジャケットの中にも弾のストックはある。ハズさなければ大丈夫だ。
「しばらく目をつぶれ」
「いたぞ!」
「殺せ!」
黒服サングラスの男がレーザーブラスターの細い銃口をこちらへ向けた瞬間、レイバルのリボルバーは火を吹いていた。二人の男は頭蓋を爆裂させ即死。
少女は固く目を閉じていた。こんな少女にこれ以上ショッキングな出来事を見させれば、この場で卒倒しかねない。レイバルは冷静に死体をまたぐと、少女の手を引き下へと急ぐ。トランクが死体にぶつかり、再びべっとりと血がへばりつく。
地下駐車場に辿り着いたレイバルと少女は、数人の黒服たちを撃ち殺しながら走った。今やオーパーツと称されるレベルの、黄色いおんぼろ車。ところどころ塗装は剥げ、ライトのカバーも片方割れてしまっている。少女を放り込むように後部座席に乗せると、レイバルはこれまたふるめかしいキーを差し込みエンジンをスタートさせる。
「かかれ……かかれよ、畜生」
三度回した後、ようやくエンジンに火が回った。アクセルに悪態をぶつけるように踏み込むと、愛車はふてぶてしく発進を始めた。