Part 05 雪姫の思い、ベルの思い
風呂でのスキンシップの後、ベルと雪姫は離れを目指して廊下を歩いていた。すると、雪姫が恨みがましい視線をベルに投げかけた。
「……ベル姉様、あれからまた私の胸を揉みましたね……なんだか胸がくすぐったいです」
「何を言う。雪姫だってあれからさらに風呂の中で凄まじい指使いを見せたではないか。しかし、雪姫があれほどのテクニシャンだったとは……くふふふ、癖になりそうだよ」
「べ、ベル姉様……? なんだか顔が赤いですが、大丈夫ですか? もしかして、のぼせてしまったんですか?」
「……いや、なんでもないよ。つい、先程の事を思い出してしまってな……くふ、くふふふふ」
「????」
男性が聞いたら妄想せずにはいられない会話を交わしながら、二人は離れへと戻ってきた。
「あれ、布団が敷いてありますね」
雪姫の言葉通り、離れにはいつの間にか布団が敷かれていた。どうやら大浴場で別れた後に葉子が敷いてくれたらしい。ベルは心の中で葉子に感謝した。
それから二人は髪を乾かし合う事にした。雪姫に髪を乾かし、整えてもらっていると、唐突に雪姫が口を開いた。
「私、元々は宵乃宮って名字だったんですよ。でも、お母さんがいなくなって、縁あってタカおじ様に引き取られて、今の前田という名字を名乗っているんです」
その言葉にベルは軽く相槌を打つ。
「ほう、よいのみや、か。難しい名字だな」
「私は知らなかったんですけど、私の家は『巫女』って職業で、私をそれにさせたいんで強引な事をしてくる人がいるんです。もしそんな人が来たら、すぐに逃げて下さいね」
その言葉にベルは笑って答えた。
「大丈夫だ、暴漢にはベルの火球でもう二度と雪姫に何かしないよう焼印を押してやる」
事実、力が弱っているとはいえ現在のベルならばいかに武装した人間相手でも負ける自信はなかった。ただ、相手が自分と同じ堕天使や、人外といった者だとどうなるかはわからないが。
すると雪姫はベルを心配する口調でもう一度告げた。
「あんまり関わり合いになっちゃダメです。ベル姉様も女の子なんですから」
その言葉にベルは軽く後ろを振り向き、微笑んだ。
「ありがとう、雪姫。肝に銘じておくよ」
その言葉に、雪姫も微笑み返した。
それから髪を乾かし終えた二人は寝間着に着替える事にした。ベルは旅行鞄から半袖半ズボン状の、女の子らしさが前面に押し出されているピンクのパジャマを取り出した。
「さて、着替えるか……なぁっ!?」
そう言って、ベルは着替え始め、そして絶句した。
ベルの視線の先で、雪姫はなんとスケスケのネグリジェに着替えていた。
「!?!?!?」
ベルの目が驚愕に見開かれる。
薄手の布が小柄な体の割に大きな胸を包んでおり、さらに豊かな谷間を引き立てるような前開き、それを止めるために結ばれたリボンが彼女の持つ可愛らしさを引き立てている。
紺色の生地に雪姫自身の白い肌が見事なコントラストを醸し出しており、異性はともかく同姓まで見とれずにはいられない姿だった。
「雪姫……それ、狙ってるのか?」
ベルが刺激の強すぎる雪姫の姿をちらちらと見ながら尋ねる。すると雪姫は、
「え? 今の時期暑いから寝る時はこの格好がちょうどいいんです」
と、何て事なさそうに答えた。
「…………」
その答えにベルは絶句した。
(こ、この娘……ド天然すぎる……!)
そんな思いがベルの脳内を巡る。すると雪姫は彼女に尋ねた。
「狙うって、何をですか?」
「その、それは、誰かの趣味なのか?」
つい、答える口調も歯切れが悪くなってしまう。
「母が、誰が来ても大丈夫なようにて。母もこんな感じでしたので」
「そうか、誰が来て……って、夜に誰が来るんだ!?」
思わずノリツッコミ気味に返してしまうベル。すると雪姫は何やら唸り始めた。
「集金屋さんとか、民法放送とか、うーん……あんまり来ないですよね」
そんな事を言いながら真剣に考えだす雪姫に、ベルは唖然としていた。
(……いや、問題はそれ以前の所にある気がするのだが)
「あの、その、おかしいですか? 似合わないですか?」
雪姫の問いかけにベルは苦笑して答えた。
「若い男の前でその格好は止めた方が良いかもしれんな」
「そういえばこの間、賀川さんが見ていきましたけど。似合わないのか、何も言ってくれなかったです。森の家で倒れていて、着替えた時にもピンクのこんな感じでしたけど、タカおじ様も賀川さんも、ねぇって言うばかりで……あれはよく見ると本当に肌が透けてたから確かにどうかと思いましたが、それでも酷くないですか?」
「まあまあ、落ち着け雪姫」
そう言いながらベルは何とも言えない表情で雪姫の頭を撫で、櫛で髪を整えてやったのだった。
それから着替えを終えた二人は布団へ横になる事にしたのだが、具合でも悪いのか雪姫はずりずりと芋虫のように布団へ這い寄り、横になった。その様子にただならぬものを感じたのか、ベルは労るような口調で尋ねた。
「疲れたのか、雪姫。電気を消そうか?」
ベルの問いかけに雪姫は軽く首肯したので、部屋の明かりを消し、布団へ横になった。
夜十一時過ぎ。しばらく横になって見慣れぬ天井を見ながら、ベルは今日一日を振り返っていた。
(本当に今日は、色々な事があったな。様々な人間と出会う事ができ、当面の宿も確保できた。さて、明日から降魔の書を探すとしようか……あぁ……眠くなってきたな……)
欠伸を噛み殺し、ベルが眠るのに目を閉じようとした時――
「……ベル姉様、まだ起きてますか?」
ベッドにいる雪姫から声がかかった。とたんに落ちかけていたベルの意識が急速に浮上してくる。
「……ああ。どうした雪姫? 慣れない奴がいるから寝付けないか?」
ベルの言葉に、雪姫はしばらく押し黙っていたが、やがて、思い切ったように声を上げた。
「ベル姉様、そっち、行ってもいいですか?」
「え……?」
突然の事にベルは戸惑った。しかし雪姫はベルの返答を待たずに、枕元にあった小さな犬のぬいぐるみを掴むとごろごろと転がり込んで来た。彼女を無下に扱う事はできず、ベルは彼女の訪問を受け入れたのだった。
「…………」
「…………」
ベルの布団の中でお互いに見つめあう二人。しかし会話はなく、何とも言えない沈黙がその場を支配していた。
雪姫の不安そうな顔がベルの視界いっぱいに広がっていた。
(ああもう、そんな顔をするな雪姫。何があったのか気になるし、こっちまで不安になってくるだろう)
そんな事を考えていると、雪姫はいきなりとんでもない事を尋ねてきた。
「ベル姉様は、誰かとキスした事ってありますか?」
「――なっ!?」
思いがけない雪姫の問いかけに、ベルは目を見開いてしまった。
「え、えーと……」
ごまかそうと思えばごまかす事はできた。しかし、雪姫の深紅の瞳を見ていると、嘘をつくのは許されない気がした。
「…………ある」
しばらく逡巡した末、ベルは答えた。
「じゃあ、その先は、ありますか?」
さらに踏み込んだ問いに、ベルは思い切り動揺した。
「はっ、いや、そのっ、ゆ、ゆ、雪姫は」
「ないですよ。でも、キスは、あります……ベル姉様は、どなたとしたんですか?」
すると、ベルの口からは自然と言葉が紡ぎ出されていた。
「そいつとは、初対面が最悪な形で出会ったんだ。そのせいで、すぐさま大喧嘩さ」
ベルは笑って話してはいるが、実際は初対面で互いに壮絶な殺し合いを繰り広げていた。
「それから色々あって、ベルはそいつの家に殴り込んだんだ。そこで、まあ、き、キスしたんだ……ベルの方からな」
簡単にまとめてはいるが、事実は壮絶なものだ。ベルがまだ「彼」からベルの名をもらう前――ベリアルと名乗っていた頃。
ベリアルは「彼」との激戦の末に「彼」の命を奪った。しかし、突然「彼」は大きな力を得ると共に蘇り、そして、ベルを殺した。
しかしベリアルは咄嗟に蘇生の秘術を発動させていたおかげで、なんとか復活を遂げる事ができた。
だが、予想外の事態が起きた。
元々彼女は堕天使の中でもナンバー2という凄まじい力を誇っていたが、復活したせいかその力は限りなくゼロに近い状態にまで弱体化していたのだ。そこでベリアルは「彼」の力に目をつけ、強引に契約を結んでその力をある程度まで回復させたのだ。その手段が、接吻だったのである。
その時の事を憎しみではなく、懐かしい話として語るベルの表情は楽しそうだった。
「そいつは、『統哉』って名前なんだ。現在ベルが世話になっている家の主で、地元の大学に通う学生だ。それで――」
それからベルは、紆余曲折あった末に段々お互いに仲良くなっていった事、料理がとても上手である事、なんだかんだ言って自分達の世話を焼いてくれる事、ボケに対するハリセンを用いたツッコミが苛烈な事、他に|同居人(堕天使)が増えて周りが賑やかになった事――たくさんの事を雪姫へ一方的ではあるが、熱く伝えていた。
「――そういうわけで、ベルはあいつといるのが楽しいんだ。あいつは本当に優しく、そして強い人間なんだ」
雪姫の目には、統哉の事を語るベルの姿がとても楽しそうで、そして誇らしげに映っていた。
そこでベルはようやく、自分が一方的に話し込んでしまった事に気が付いた。それも、統哉の事で。
「……ああ、すまない雪姫。つい一方的に長々とお喋りしてしまった。雪姫だって話したかっただろうに」
雪姫に謝りながらも、ベルは心の中で驚いていた。何故ならば、他者――それも人間の事をここまで饒舌に語った事は今までになかったからだ。
すると、雪姫は笑って答えた。
「いいんですよ。とてもいいお話が聞けました。それにしても、ベル姉様はその『統哉』さんって人の事が本当に『好き』なんですね」
雪姫の言葉に、ベルは首を傾げる。
「『好き』……? まあ、確かにあいつといると退屈はしないな」
すると、雪姫は静かに首を横へ振った。
「いいえ、そうではありません。『ライク』ではなく『ラブ』ですよ、ベル姉様。ベル姉様はきっと、統哉さんの事を一人の男性として好きなんですよ。一言で言うならば、『恋』です」
「……ベルが、あいつを、一人の男として、『好き』……『恋』……?」
雪姫に言われた言葉を口の中で反芻した瞬間、ベルの体が急激に熱くなった。それは、自分が操る炎とは異質だが、それを越える程の熱さだった。
その熱さに驚きつつも、ベルは考えを巡らせる。
(……ベルは、あいつの事が『好き』なのか……? 確かにあいつは料理が上手だし、ツッコミ上手だし、なんだかんだ言ってベル達の面倒を見てくれるし、優しいし……)
いったん考え始めると、心臓が激しく鼓動を打ち、血液が猛スピードで循環する音が体中に響き渡る。おそらく自分の顔は今、炎のように真っ赤になっているだろう。
(……何より、ベルはあいつといて楽しい……いや、もっとあいつの側にいたい。あいつの笑顔が見たい。まさか……これが『恋』なのか……?)
ベルが未知の感覚について真剣に考えている姿を、雪姫は穏やかな笑みを浮かべながら見つめていた。
しばらくして、雪姫はそっと口を開いた。
「私、夏祭りの時、賀川さんにキスされました」
その言葉にベルの心臓が大きな音を立てた。雪姫は続ける。
「綺麗だよ、キスさせてって言葉と一緒に。あの時は何がなんだかわかりませんでした。混乱して、ああ、返事しなきゃって」
「雪姫……」
声は嬉しそうなものの、その表情はどこか悲しい笑みを浮かべている雪姫に、ベルは何も言えなくなってしまった。
「色々考えましたが、私は賀川さんを受け入れませんでした」
「どうして?」
思いがけない雪姫の言葉にベルは思わず聞き返していた。
「私、彼を好きだって思ってなかったから。『賀川さんの事、あまりよく知らないし、私は賀川さんが『特別』に好きじゃない』……そう答えました」
「『特別に』って……それは酷いというか、ご愁傷様だな」
そう言ってベルはくすくすと笑う。しかし雪姫は笑わない。その様子にベルは笑いを消し、真剣な表情で、
「まさか断ったと言うのに、好きだって、気付いたのか?」
その問いに雪姫は力なく首を横に振った。
「わからないんです……」
そこで一旦言葉を切り、雪姫は続けた。
「彼の事、何も知らない。お姉様くらい彼を知っていたら、少しはわかったでしょうか?」
「お姉様?」
ベルの疑問に、雪姫は軽く頷いてから語り始めた。
「賀川さんは本来、細密電子TOKISADAという会社の息子さんで、彼には冴というお姉様がいるんです。でも、私はあの人が怖い。だって、あの人は賀川さんや私に対して何か憎しみに近いものを抱いているようなんです。例えば、夏祭りの時に人前で賀川さんに飲み物をかけたり、先日は彼の昔の写真を私に見せました。そ、そこには……」
言葉尻を震わせる雪姫に、ベルは慌てて制止をかけた。
「雪姫、もういい」
「わ、私、そんなの知らなかった。でも彼、ずっと笑っていました。誰もいない森にお母さんも帰って来てくれなくなって、一人で住んでいた時、絵を描き終えると決まって彼に電話をしました」
「電話?」
「そう、集配を頼むのです。彼、凄い森の奥なのに、飛ぶように来てくれて。笑って、受け取って帰るんです」
「その時に彼に見初められた、と」
すると雪姫はベルの言葉を思い切り首を横に振って否定した。
「ち、違うんです。賀川さん、酷いんです! この白い髪、目も気持ち悪いだろうからって、丁寧に染めてカラコンして。頑張ったのに不気味って思っていたんですよ! 酷いって思いません!?」
「ま、まあまあ、雪姫、ちょっと落ち着け」
急に語調を増した雪姫にベルは気圧されつつも苦笑混じりに雪姫を宥める。すると雪姫は溜息をつき、
「彼が来たって知らせを待って、来たら絵を渡して、その背を見送ると、彼、笑ってくれて。それだけで次を早く描かなきゃって、やる気になって……」
雪姫の言葉にべるはうーんと唸りつつ、慎重に言葉を選んで口に出した。
「要するに、何も知らず、意識さえしないうちに賀川が気になって、早く会いたいがために絵を描き、彼に好かれるために身支度をしていた、と」
「彼に好かれるだなんて……」
(……なるほど、そういう事か)
そして、ベルはふっと柔らかい笑みを浮かべた。
「雪姫、何も言う事はない。それは『恋』だ。お前がベルに言っただろう? 『ライク』ではなく『ラブ』。それも、お前の場合は『恋』ではなく、『愛』だ」
「!?!?!?」
ベルの言葉に雪姫は顔を急激に赤くさせたかと思うと、悲しげな顔をした。
「……どうした?」
ベルが心配そうに尋ねる。
「賀川さん、私が断ったのに、それでも『好き』って言ってくれたのに。笑わなくなってしまいました……」
「雪姫……」
ベルが沈痛そうな声を出す。そんなベルをよそに、雪姫はさらに思いの丈をベルにぶつけていく。
「愛とか恋とかわからないです。でも私が賀川さんから笑顔を奪ってしまったんでしょうか……? いや、もしかすると私は、賀川さんに実は甘えているだけで、彼の事を想ってなんか、いないのではないでしょうか……? 都合良く考えているだけで。それとも、賀川さんの方が、もう私を必要としていないんでしょうか……?」
いつの間にか、雪姫は泣いていた。
「私は、あの人が好きだから笑っていてほしいだけなのに。私は、あの人から笑顔を奪ってしまったんでしょうか……? 私はあの人の事が……私は……」
雪姫の声が切羽詰まったものになってくる。彼女は首筋の傷にそっと触れつつ、続ける。
「私は愚かだから、賀川さんの無表情が怖くて、彼をそうしてしまった自分が嫌で、逃げていたんです。そこを突かれて、私、誰かに全てを持って行かれる所でした。体も、心も、親友も、命も、そして、死ぬ事を奪われて……」
「――雪姫」
その時、ベルは雪姫の頬にそっと触れた。
「っ!?」
急に触れられ、雪姫がビクッと身を震わせた。そんな彼女にベルは諭すような口調で語りかける。
「悩みすぎるな。そうやって悩みに悩みを重ね続けていたら、自分が潰されてしまうぞ。そうならないようにするには、行動を起こせ。思い切って、あいつと話をしてみろ。賀川に自分の言いたい事、気持ちをぶつけるんだ。一度で駄目なら二度、二度で駄目なら十度と、何度でもぶつかってみるんだ。
あいつが雪姫の事を避けているのだったら、ベルがあいつを縛り付けてでも逃がさないようにしてやる。『姉』に任せておけ」
最後の方は悪戯っぽい口調で語りつつ、ベルは雪姫を励ます。すると雪姫は安らいだような笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、ベル姉様。私、賀川さんと話をしてみます。避けられても、諦めずに」
力強い口調で答えた雪姫に、ベルも頷き返した。
「その意気だぞ、雪姫……雪姫?」
「…………すぅ」
返事をしない雪姫にベルが声をかけると、彼女は穏やかな寝息を立てていた。
「……寝てしまったか」
穏やかな表情を浮かべ、ベルは嘆息した。そして、優しく雪姫の髪を撫で、その寝顔を見つめながら彼女は考える。
(この娘……いや、この子はこんなに若いのに、一体どれだけの辛い体験をしてきたというのだ……? 賀川とのすれ違い、人ならざるものとして動いていた時の記憶、首の呪い……辛いだろうに。しかし、何故だ? ベルはどうしてこの子の事が気がかりになって仕方がないのだ? どうして、他人事のような気がしないのだ……?)
彼女の目尻に残った涙を指で拭い、頭をそっと撫でてやりつつもベルは考えを巡らせる。しかし、いくら考えても答えは出ず、いつの間にかベルは眠りに身を委ねてしまっていた。
桜月りま様 うろな町の森に住んでみた、ちょっと緩い少女のお話より ユキちゃん、名前だけですがタカさん、葉子さん、賀川さんをお借りいたしました!