Part 01 苦悩する少女、堕天使の一喝
八月二九日。
ゆうべは雪姫の快気祝いで大いに盛り上がり、ベル、雪姫、そしてリズは遅くまで宴を楽しみ、起きたのはすっかり朝遅くだった。
「暇だ~~~~……」
離れにある雪姫のベッド。その上で大の字で寝転がっているベルは心底退屈そうに呟いた。
雪姫はリズと一緒にリハビリ兼気晴らしの散歩へと出かけているので、今はいない。
もちろんベルもついていこうとしたが、リズと雪姫から「まだ病み上がりなんだから今日は家でじっとしていて下さい!」と厳命されたため、ベルは素直に従うしかなかった。
実のところ、ベルの魔力と怪我は快復し、大量に失われた血液も昨夜の快気祝いで出された鉄分とビタミンB1を多く含む料理を食べまくったおかげですっかり元通りになっている。まあ、あれだけ心身共に瀕死に追い込まれたのだから二人が心配するのも当然だ。
そこでふと、ベルは自分の掌を見た。今、自分がこうして暢気に寝転がっていられるのも雪姫と水羽が自分の命と力を与えてくれたからだと思い出し、深い溜息をついた。
「……この命は、もうベル一人の命ではないのだな……」
呟き、手をぐっと握り締める。
(そうだ。これはあの子と水羽がベルのために与えてくれた命と力だ。ならば、ベルはこの命と力を大切に使わせてもらわなくては……)
新たな決意を胸に秘め、ベルは表情を引き締めた。
かり、かり……。
「ん?」
その時、ベルの耳はドアをひっかくような微かな音を捉えた。
「何だ……?」
ベルはベッドから体を起こし、用心しつつ離れのドアをそっと開ける。だがそこには誰もいない。
「おかしいな。確かに何者かの気配が……」
うなぁ~。
「ん?」
ベルの足元から何やら鳴き声が聞こえ、彼女は足元を見る。するとそこにはシルバーの首輪をつけた、足の先が白い猫がいた。
「首輪付きの猫……迷い猫か?」
ベルの呟きをよそに、猫は勝手知ったるといった風に離れへと上がり込んだ。そして、何かを探すように辺りをうろうろした後、ベルに何かを尋ねるかのように軽く鳴いた。そこでベルは何かを察したかのように尋ねた。
「お前、もしかして雪姫に用があるのか? すまないな。雪姫は今、出かけているんだ」
ベルが答えると猫は残念そうに鳴き、そしてベルの足に身を擦り寄せてきた。どうやら懐かれてしまったらしい。
「……やれやれ、ベルに懐くとは物好きな猫もいたものだ。まあ、悪くはないがな」
呆れたような声を上げつつも、ベルは満更でもない様子だった。そうやってしばらく猫を膝に乗せ、撫でたり戯れていると――
なあ~。
猫は一度鳴くとベルの膝から降り、窓に向かっていく。ベルが窓を開けてやると猫はさっと窓から出て行ってしまった。
「やれやれ、また暇だ~~……ふあぁ……」
再びベッドに寝転がり、退屈そうに欠伸をかますベル。しばらくするうちに眠くなってきたベルが目を閉じようとした時――
なぁ~。
「……ん?」
猫の鳴き声にベルは身を起こした。見ると、先程の猫が何かを訴えかけるかのように窓へ猫パンチを繰り出している。
「何だ? ベルを呼んでいるのか?」
ベルが窓際へ歩み寄ると、猫は窓から飛び退き、母屋の方へ走っていってしまった。
ベルはその後を追って離れを出る。すると――
「ひっ……!」
「ん?」
短い悲鳴を聞いたベルが声のした方向へ目を向けると――
「…………」
「お前は……」
そこには母屋の陰に隠れ、びくびくしながらこちらの様子を伺っている少女――冴の姿があった。ベルは何て事ない表情で、冴は怯えた表情で互いを見つめ合う。
「埒が明かないな。やれやれ……」
ベルは軽く溜息をつき、冴を手招きした。
「冴、こっちに来い。取って食ったりはしないから」
冴はしばらくおどおどして迷っていたが、やがて意を決してそろそろとベルの側へやってきた。
「で、ここまで来て何の用だ?」
「あ、あの、ユキちゃんは、いらっしゃる……?」
「雪姫? ああ、あの子ならリズと散歩に出かけているぞ。帰るにはしばらくかかるんじゃないか?」
すると、冴はがっくりと肩を落とした。
「そ、そうなんですの。じゃあ、またきますわね……」
「まあ待て」
足早に立ち去ろうとする冴をベルが呼び止める。冴はビクッとして動きを止めた。
「その顔と口ぶりからして、お前は何か雪姫に相談事があったんじゃないか? 葉子は忙しくしているし、他の者は出払っている。そうなれば残っているのは自ずとベル達だけとなる。だからこうしてベルに遭遇する危険を犯してまでここに来た……違うか?」
ベルの問いに冴はしばらく黙っていたが、やがてこくんと頷いた。
「え、ええ。ユキちゃんに話があって、ここに近付いたらさっきの猫さんが『こっちだよ』って言っているみたいに、わたしをあんないしてくれたのですわ」
「そうか。まあ、ベルでよければ話を聞こうじゃないか。もちろん、話したくなければ話さなくてもいい」
それだけ言うと、ベルは離れへ入り、冴に手招きした。すると、冴もきょろきょろとしながらも離れへ足を踏み入れた。
「まあ座れ。とりあえずゆっくりしていってくれ」
座るよう勧めるベルに、冴はおずおずとしながらも腰を下ろした。二人の間に長い沈黙が訪れる。やがて、冴が重い口を開いた。
「……あのね、とってもこわい、ゆめを見ましたの」
「怖い夢?」
ベルの問いに冴は頷き、続ける。
「ええ、わたしはひとりぼっちでまっくらなところに立っていて、わたしは泣きながら前へ歩いてるのですわ。そうしたら、あっちこっちから『お前は悪いんだ』『お前のせいだ』『お前なんか死んでしまえ』って声が聞こえてくるのですわ……そして、その声が聞きとれないぐらいにおおきく、たくさん聞こえてきたところで、めがさめたんですの……」
「……」
ベルは静かに話を聞きながらも考えを巡らせる。
(今は体が小さくなっている上に、記憶があやふやだから心の奥底にあった今まで自分が行ってきた行為、そして罪悪感が夢という形で噴出しているのか……?)
考え込むベルをよそに、冴は続ける。
「なんだかわたし、アレは夢じゃなくて……ほんとうに、たくさん、わるい事をした気がするのですわ。おおくの人をきずつけ、ユキちゃんやべるちゃん、りずちゃんもきずつけて……。なによりも、あきらちゃんにとてもひどい事をしてしまった気がしてならなくて……ねえべるちゃん、わたし、何をしてしまったの?」
「…………」
ベルは答えない。いや、かけるべき言葉が見つからなかった。
「わたし、やっぱりわるい子? ……ここにいたらいけない? べるちゃん、なにか知ってることはないですの……?」
「…………」
縋る冴にベルは何かを言おうとする。だが、冴の悲しみに満ちた瞳はベルにいい加減な答えを許さなかった。すると、ベルが何も答えないのをネガティブに受け取ったのか、冴は悲しげな表情を深めて呟いた。
「そうなんですわね……やっぱりベルちゃんが言えないほどわるい事したのですわね……でも、覚えていないのですわ。でも、でも、きっとここにいたらいけないのですわ……わたしなんて、いなくなってしまえばいい……そう、いっその事……死んでしまえばいいですの……」
冴が呟いたその時――
「……えっ?」
冴は浮遊感を覚えた。そして次の瞬間、彼女の体は仰向けに倒されていた。
突然の事に冴は呆然としながらも顔を起こそうとする。すると――
「ひっ……!」
冴は鋭い悲鳴を上げた。そこには、憤怒の表情でこちらを睨みつけているベルの姿があった。
(あかい、おばけ……!)
冴の脳裏に、記憶の奥底にこびり付いていた異形の影――凄まじい形相で爪を伸ばし、こちらに襲いかからんとする真紅の悪魔の姿が蘇る。そしてそれは目の前の紅髪の少女と重なっていき――像を結んだ。
「――きゃああああぁぁぁぁっ! やめて! 来ないで!」
パニックを起こした冴が絶叫する。しかしベルはそれを意に介す事なく、幽鬼のような動きで冴に近付く。そして――
「……今、何て言った……? 『死んでしまえばいい』だと……?」
恐ろしく低い声で問いかける。だが冴は恐怖のあまり泣く事はおろか、声を出す事すらできない。
「そうか。ならば、ベルが殺してやる」
静かに呟き、ベルはそっと冴の首に両手を伸ばした。
「…………」
冴はただそれを見つめるしかできなかった。ベルの手に僅かな力がこもる。その時――
「…………ない」
「あ?」
冴が何事かを呟いたのを聞き、ベルは手を止める。そして――
「死にたくない! 死にたくないのですわっ!」
顔を涙と鼻水で濡らし、冴は絶叫した。
ベルはしばらくそれを見つめ、そっと手を離した。冴はガバッと身を起こし、泣き叫ぶ。
「死にたくない! わたしはまだあきらちゃんにあやまってないのですわ! 会ってだきしめてあげたいの! 今までわたしがしてしまった事をきちんと知ってつぐなわないと……その為に……わたしは……まだ生きたいのですわ!」
それは、心からの叫び。他ならぬ、冴の本心だった。ベルはその言葉を神妙な面持ちで聞いていたが、やがて――
「この、大馬鹿者っ!」
そう言って、ベルは冴を強く抱き締めた。
「今までお前がしてきた事を償いたいのなら、逃げるな! 死んでしまえばいいなんて言うな! 生きろ! お前が死んだ後に残された者達の事を考えろ! お前が死ぬと悲しむ者がいるのだろう! 鷹槍も、葉子も、雪姫も……そして何よりも賀川……玲が悲しむぞ! ……ついでにベルもだ! ならばそいつらのためにも、石にかじりつこうが、みっともなく地べたを這いずり回ろうが、生きて、生きて、生き抜いてみせろ! そして、お前が為すべき事をやり遂げろ!」
そう言ってベルはより強く冴を抱き締め、背中を撫でてやる。
すると、緊張の糸が切れたのか、冴の目尻に大粒の涙が溜まっていく。そして――
「べるちゃん、べるちゃん……う、ううう……ふわああああん! ごめんなさい! ごめんなさいっ!」
冴は声を上げて泣き出した。ベルは何も言わず、彼女を抱き締め、その背中を優しく撫で続けた。
「落ち着いたか?」
「……うん」
あれからたくさん泣いた事ですっかり泣き止んだ冴は頷いた。するとベルはばつの悪そうな顔をした。
「……さっきは、すまなかった。あの時は自分を抑える事ができなかった」
すると、冴は首を横に振って言った。
「ううん。いいのですわよ、べるちゃん。むしろ、わたしがあやまらないといけないのですわ。わたしをおもってくれている人たちがいっぱいいるのに、その人たちの事をかんがえられなくて……」
そして、強い意志を宿した顔で言葉を継いだ。
「「……わたし、生きます。べるちゃんに言われたように、生きて、生きて、生き抜いて……きちんと思い出して必ず、つみをつぐなってみせますわ」
「その意気だ。その様子ならもう心配はいらないな」
ベルが力強く頷く。すると、冴はにこやかに微笑んだ。
「ありがとう、べるちゃん。とても、あたたかかったのですわ」
「暖かい?」
ベルは首を傾げる。確かに自分は炎を操る堕天使だが、あの時に炎を出していただろうか? そんなベルの考えをよそに、冴は続ける。
「そうですわね、なんだか、お母様にだきしめられているかんじでしたわ。あたたかくつつみこまれ、こころもからだもあたたくなるように感じましたの。ありがとう、べるちゃん」
「そ、そっちか……でも、ベルが温かい……そうか……」
屈託のない笑顔を向ける冴に、ベルは思わず照れ臭くなってそっぽを向いた。
「あ、でも……」
「ん?」
「だきごこちは葉子さんやユキちゃんのほうがよかったかなぁ」
「……ふん、やはり生意気なガキだ」
屈託なく笑う冴に、ベルは憮然とした表情で鼻を鳴らした。すると――
なぁ~♪
二人が視線を向けると、いつの間にか先程の猫が側におり、それぞれに擦り寄ってきた。
「ねこさん……」
「わかるか、冴。この猫はお前を好いている。お前の事を受け入れてくれる者は必ずいるんだ」
「うん……うんっ! ありがとう、べるちゃん、ねこさん!」
笑顔を浮かべて猫と戯れる冴。それを眺めるベルの口元には無意識のうちに穏やかな笑みが浮かんでいた。それから二人は雪姫とリズが帰ってくるまで猫と戯れた。もっとも、散歩から帰ってきた雪姫とリズの二人が打ち解けていた事に首を傾げていたのはまた別の話である。
そして数日後、事態は大きく動き出す――。
桜月りま様 うろな町の森に住んでみた、ちょっと緩い少女のお話より 冴ちゃん、名前だけですが雪姫ちゃん、タカさん、葉子さん、玲さん(賀川さん)、
とにあ様 時雨より 手袋ちゃん(時雨ちゃん)、お借りいたしました!




