Part 13 蠢く闇
全てが眠る丑三つ時。
うろな町の北に位置する、神秘的な雰囲気を湛えた深い森。そこに、一つの「闇」が蠢いていた。
『はあっ……はあっ……!』
地獄の底から響いてくるような喘ぎ声を上げながら、黒いタールのような「何か」が這いずっていた。それを一言で例えるなら、煙。
その動きはナメクジのように緩慢としていたが、その僅かな動きから伝わってくる重々しさと、辺りに撒き散らされる怨恨は凄まじいものがあった。
『グ……ガ……この我が……アラストールがここまで消耗するとは……っ!』
呻きながら、「それ」――アラストールは自分をここまで追い詰めた者達に対する憎悪を燃やしていた。
永きに渡る封印から目覚め、宵乃宮に復讐するため巫女――雪姫の力と命を奪いその前準備として彼女を憎む女――冴と契約し、あと一歩のところまで追い詰めた。しかし、雪姫を守るために立ち上がった真紅の髪の堕天使と、黒髪の堕天使によって阻止されたのである。
真紅の堕天使が放った一撃がアラストールを討とうとした瞬間、彼は残された力を振り絞り、冴を切り捨てて逃げ出した。負の感情を重ねた人間の体を得た事で、その力は大幅に回復していた。しかし、依り代を失った事でその力の大半は失われ、ただの人間に憑依し、酷使した反動が逆にアラストールを摩耗させていた。
さらに追い打ちとばかりに今朝方うろなに降り注いだ闇御津羽の禊の雨によってその力は文字通り洗い流され、ただでさえ少なくなっていた力をさらに削ぎ落とす事になった。
(闇御津羽……本当に忌々しい……っ! ……だが、何よりも腹立たしいのは、森にいたあの男……いや、火之迦具土神だ……あやつ、一体何のつもりだ……?)
彼の中で明け方に遭遇した、柔和な笑みを浮かべ、その瞳に人ならざる者の眼光を宿した男の事が蘇る。彼は濃密な瘴気に覆われている自らの体に平然と触れ、神力をもってその体を燃やしたのだ。神の力がこもった炎により、彼の消耗は限界を超えていた。
『あちらの方に、あの堕天使達が探している『物体』があります。アレは力を求めていますから、交渉次第ではあなたの助けになってくれるかもしれませんよ?』
アラストールの脳裏に男の声が蘇る。何故あの男は神であるにもかかわらず、自分にとって有益となりうる情報をもたらしたのだろうか。
最初は当然疑ってかかっていたアラストールだったが、男が示した方向に意識を向けると、僅かだが、己の力と近い邪悪な気配を感じ取る事ができた。長年に渡りあらゆる負の感情を己の内にため込む事によって邪悪の塊と化していたが、人間という枠を越える事はできなかった冴よりも、潜在的、かつ膨大な魔力が宿っている「それ」にアラストールは心動かされた。故に彼は今日の明け方から今に至るまで死力を振り絞り、獣一匹すら寄り付かぬほど深い森の奥へと這い進んでいた。森の奥に近付くにつれ、その魔力は確実に強くなっている事を彼は感じ取っていた。何故だかはわからないが、彼にはその魔力の根源が自分を呼んでいるような気がしてならなかった。
(あの男が何を考えているのかはわからんが、この好機、絶対に逃すものか……! 必ずやこの先で我を呼ぶ「力」を手に入れ、復活を遂げてやる……! そして、この地に住まう人間や人外を問わず、全ての命を我が糧として喰らい尽くしてやる。ゆくゆくは宵乃宮に復讐を果たし、その果てには闇御津羽、火之迦具土神、他の神々をも喰らい、我こそが唯一絶対の存在であると証明してやろう……!)
地獄の底から響いてくるような、低くおぞましい声でアラストールは哄う。全ての命を喰らう快感、命が消える瞬間の断末魔がもたらすこの上ない愉悦。自分を恐れ、命乞いをする者共を容赦なく蹂躙する圧倒的な暴力と征服感。それらを考えているだけで、彼は身が軽くなるような心地を覚えた。
そして、明け方から進み始めてついにアラストールは目的地――森の最深部へとたどり着いた。そこは開けた場所になっており、そしてそこに気配の根源があった。
『あれは……』
それを目にしたアラストールは思わず呟く。
そこには、一冊の本が落ちていた。
アラストールは用心深くそれを警戒しつつ、意識を集中させる。
その本からは弱々しいが、その内に宿る凄まじい魔力を感じ取る事ができた。
『お前なのか? 我を呼んでいたのは……』
無意識の内にアラストールが尋ねる。その直後、彼の意識に本の記憶が洪水のように流れ込んできた。
その本は、魔界に住まうある悪魔によって作られた魔導書だった。
その悪魔が本に込めた魔術は、「邪念や負の感情といったマイナスエネルギーを無限に溜め込み、自在に操る」というものだった。
今まで誰も為し得なかった偉業に魔界は大いに湧いた。その事に自信を持った悪魔はさらに研究を重ね、魔導書を改良した。その結果、魔導書は新たな力を得、意志を宿した。
魔導書に宿った意志自体は幼児のように単純なものだったが、新たに宿った力は魔界に衝撃を与えた。それは、マイナスエネルギーを糧とし、自らの分体を生み出すというものだった。悪魔が公開した実験結果により、その分体は他の生命――人間や動物、果てには天使や悪魔を襲う事で痛みや恐怖といったマイナスエネルギーを集め、本体にそれを捧げる事でさらに力を増し、より多くの分体を生成、それを使ってさらに多くのマイナスエネルギーを得るという。
今は小さくとも、自らの世界を滅ぼしかねない可能性を持つその力に魔界の住人達は恐れをなした。
そして、彼らは密かに協議した末、悪魔を討った。
悪魔は死ぬ間際、全てを呪った。ただ自分は魔界のためにこの魔導書を生み出しただけなのに。あまりにも短絡的な理由で討たれた事に。自分を討った悪魔達を。その果てに、生きとし生ける全ての命を。悪魔は自らの魂と魔力を魔導書に移していた。急激な魔力の流入により魔導書は休眠状態に入った。
休眠状態に入った魔導書は回収され、魔界最大の貿易会社――後の|Abaddon.comで厳重に管理・封印される事となった。
長い時を経て、魔導書は些細なトラブルによって魔界から地上界に渡り、数世紀もの間様々な人間――時の権力者や魔術師、好事家達の手を転々とし、封印されているにもかかわらずその強大な力によってマイナスエネルギーと命を奪い続けていった。
だが、永遠ともいえる時間は魔導書から吸収するよりも多くの力を奪っていき、ついにその力と存在は消えようとしていた。
その時、ついに永きに渡る封印は解け、魔導書は残された力を振り絞ってマイナスエネルギーの吸収に乗り出した。しかしそれも真紅の堕天使と漆黒の堕天使の二人組によって水泡と帰した。
そして今、魔導書は闇御津羽が降らせた禊の雨によってその力と存在を風前の灯火といえる状態にまで追い込まれ、今まさに消えようとしていたのだ。
気が遠くなるような量を誇る魔導書の記憶を一瞬のうちに垣間見たアラストールは何も言えず、ただ佇んでいるしかできなかった。その中で彼は、魔導書が抱くたった一つの願いを見出していた。
長い沈黙の後、ようやく彼は思念を放った。
『そうか……お前も、『生きたい』のだな……』
静かに語るその口調には、どこか同情するような響きが含まれていた。そして、決然たる口調で宣言する。
『お前の願い、確かに受け取った。魔導書よ、我と共に往こうではないか!』
アラストールは叫ぶや否やその煙のような体を大きく膨らませ、一気に本を飲み込んでいく。
そして、自分が持つ全ての力を解放し、本との融合を開始した。
桜月りま様 うろな町の森に住んでみた、ちょっと緩い少女のお話より 話題として雪姫ちゃん、冴さん、闇御津羽、火之迦具土神、お借りいたしました!




