Part 03 絶望を焼く者
その瞬間、ベルは異変を感じ取った。
「……雪姫!?」
そしてベルはすかさず雪姫を見た。次の瞬間、彼女の体に起きている異変に鋭く息を飲んだ。
「そんな……!」
ベルの目はそれを捉えていた。首筋の傷から、夥しい量のどす黒い瘴気が溢れだし、雪姫の体を包み込んでいくのを。そして、それに反比例するように雪姫の体から生命力が急速に失われていくのを。
そこから全てを察したベルは呆然と呟いた。
「……何という事だ。あいつが放っていた強力な瘴気にあてられ続けたせいで、呪いが一気に進行してしまったのか……!」
ベルの脳裏に、ルーシーの言葉が蘇る。
『その手の呪いはすぐに命を奪うものではなく、長期に渡って苦しめるのが目的だ。だから進行はゆっくりとしたもので、すぐには進まない。つまり、解呪の時間は十分にあるという事だ。ただし、悪意や瘴気といった悪いモノに晒したり、そういうのが渦巻く場所には連れていくな。それに刺激されて呪いが急速に進んでしまうぞ』
長期に渡るという言葉から、ベルは事態を楽観視していたのかもしれない。時間はある、大丈夫だと。
だが現実は非情にも、最悪の方向へ加速している。
ベルは呪いの事を楽観的に捉えていた自分を恥じ、その時の自分を殺してやりたい衝動に駆られた。
「雪姫ちゃん!?」
その時、ベルの呟きを聞きつけたリズが顔を真っ青にし、足をもつれさせつつ冴の近くから二人の元へ駆け寄ってきた。
「先輩! 雪姫ちゃんは大丈夫なんスか!? 大丈夫っスよね!? 大丈夫だって言って下さいっス!」
詰め寄ってくるリズに、ベルは何もできなかった。
そんな二人の側で、雪姫は苦しげであるのに、呻き声を発する事も出来ぬまま、命の炎はどんどん小さくなっていく。
体は冷たくなり、呼吸は徐々に浅くなっていく。顔色は蒼白を通り越して雪のように白くなっていき、心臓の鼓動は堕天使である二人の耳をもってしても捉えられぬほどに弱まっていく。
「雪姫ちゃん! しっかりするっス! また私の頭を撫でたり、お手とかやってほしいっス! 私、もっと雪姫ちゃんと話がしたいっス! 側にいたいっス!」
「雪姫! しっかりしろ、気をしっかり持て! まだ逝ってはいけない! お前はまだ幸せになっていないのだろう! 賀川と話をするのだろう! 雪姫、目を覚ませ、雪姫!」
リズとベルが必死に呼びかけるが、ベルの腕の中で雪姫は身じろぎ一つしない。
そして、彼女が二人に何かを言おうと口を開きかけたが、言葉は形を取る事なく、だが何かを意図するかのように僅かに笑みを唇に湛えた時、その瞳が閉じられ――
二人は、雪姫の心臓の鼓動が止まったのを聞いた。
「雪姫……?」
ベルが呆然と呟く。
いつの間にかベルが握っていた彼女の手は冷たくなっていた。その雪姫の逆の掌から、血に染まって、真紅に光るネジがこぼれ落ち、冷たい金属質の音を立てた。
ヒトが死ねば、その体は少しずつ冷たくなるが雪姫のそれは違っていた。まるで、何者かによって生の全てを奪われたかのように。
今までそこにあった命の温もりまで、一切がその場から消え去っていた。
「……嘘だろう……雪姫……?」
ベルの体が震え出す。嫌に喉が乾く。必死に体に力を入れてはいるが、いつ抜けてもおかしくはなかった。
「……う、嘘っス……こんなの……こんなのってないっス! あんまりっスよ……! うわあああああああっ!」
その場にへたり込み、大声で咽び泣くリズ。そして、涙に塗れた顔でベルに掴みかかった。
「どうして!? 一体どうしてなんスか先輩!? 雪姫ちゃん、今までいっぱい辛い目に遭ってきたのに、ようやくここに来て大切な人達や友達ができたってとても嬉しそうに言ってたんスよ!? まだまだこれからだって時に、こんな形で全てが終わるんスか!?」
思いのたけを吐き出した後、リズは地面にうずくまり、辺りをはばからずに慟哭した。
それを見たベルは何か一言かけようとしたが、できなかった。今の自分も、そうするだけの気力が残っていない事に気付いてしまったからだ。
「…………くそおぉっ!」
ベルは歯を食いしばり、地面を全力で殴りつけた。殴られた箇所が小さく陥没し、その衝撃と地面の破片が容赦なく拳を傷つけ、血を流させる。だが、今のベルはそんな事など気にならなかった。
そして、俯いているその表情は自分の無力さに対する凄まじい怒りと、言いようのない絶望で彩られていた。
(……ベルは、なんて無力なのだ……! 目の前でヒトが、大切な者が死んだというのに、何もできないのか……! たった一つの命すら救えず、何が堕天使だ、七大罪だ! 今のベルは……救いようのない『無価値』だ……!)
自分を責めるベル。その時――
(べる……きこえる? べる――)
彼女の精神に何者かが語りかけてきた。その声は凛としていながらも、どこか緩さを感じさせるような不思議な声だった。だがそれはどこかで聞いたような声だったが、どうしても思い出せない。ベルはすかさず思念を飛ばした。
(誰だ?)
(こうしてかたりかけるのは、二回目ね。まあ、そんなことやわたしがだれかなんていうのはたいしたことじゃないんだけど。それよりもべる、あなたはユキをたすけたいのでしょう?)
(ああ。この子はまだ幸せになっていない。人生はこれから、そして想い人と結ばれていないというのに、ここで雪姫を死なせるわけにはいかない! 方法があるなら教えろ!)
すると、声の主は声を低くして語りかけた。
(……この子のために、べるはなんでもする覚悟はある?)
ベルは間髪入れずに答えた。
(――ああ! 自分でもわからないが、今のベルはこの子を救うためならば、魂をも賭けられる! どんな事だろうと、やってみせる!)
その答えに声は鈴を転がしたような声で笑い、ベルに成すべき事を示した。
(ユキがもっていたネジ……それは巫女の血が合わさることで本来の力をはっきするの。あらゆる魔を祓う、『くらみづは』の力を――)
(くら、みずは……?)
ベルが尋ね返したその時、声は焦ったように叫んだ。
(……たいへん! ユキに危険が迫っているわ! べる、あとは、わかるよね!?)
そこまで一息に言い終えたきり、声は聞こえなくなったた。
(……何だったんだ、今のは?)
現実に引き戻されたベルの視界に、声が示したネジが映る。それは雪姫の血によって深紅に染めあがっていた。ベルは声に言われた通り、それを手に取った。
「――――ッ!」
その時、雷に打たれたかのような衝撃と共に、ベルの脳裏に一つの奇策が閃いた。
それは、一か八かの逆転の一手。成功すれば全てが丸く収まる。だが、失敗すれば全ては無に帰す。そう、ベルの生命までも。
成功する保証はおろか、この方法が正しいのかどうかという保証もない。
(……確かにこの方法ならば、全てを丸く収める事ができるかもしれない……だが、本当にこれでいいのか……? ベルは、あまりにも愚かな方法をとろうとしているのではないか……? 誰でもいい、教えてくれ……! ベルは、どうすればいい……!?)
ベルが祈るような気持ちで苦悩しながら、無意識のうちに雪姫の冷たくなった手をそっと握った時だった。
(ベル姉様……)
その時、ベルの頭の中に雪姫の声が響いた。弾かれたようにベルは雪姫の顔を見つめた。だが彼女は相変わらず目を閉じたままだ。
(……雪姫? お前なのか? 頼む、応えてくれ……!)
ベルは雪姫の手を握り直し、心の声で雪姫に呼びかけてみる。すると――
(……ベル姉様? どうかしましたか?)
(どう、って……)
雪姫は自分が「死の際にある」事も気付いていないのか、何とも表現のしにくい一言が返ってきた。だがベルは余りにも変わらぬいつもの雪姫がそこに今も居るのを感じた。
(……えーと、雪姫? 今自分がどうなっているかわかるか?)
(え? うーん、何だか雪が積もった場所にいます。何だか、懐かしい風景です)
(そうか……雪姫、今から大事な事を伝える。今のお前は非常に危険な状態だ。今からベルが助けるが、もし失敗したら二人共死ぬ事になる……それでもいいのか?)
しばしの沈黙。そして――
(くふふ……ベル姉様らしく、思いのままに。その結果がどうなっても、私はそれを受け入れます。だって、ベル姉様の妹ですから……私は、ベル姉様を信じています……)
それきり、雪姫の思念は途絶えた。一方、ベルは驚きを隠せなかった。
死の際にあって笑う? それも普通の人間が? ベルの妹と言い、笑い声まで真似て……
「く、くふふ……面白いじゃないか、最高だ、雪姫……」
――それでいて、堕天使であるベルが何を迷う事がある?
「く、くふふ……くふふふふ!」
そしてベルは雪姫の命の炎がまだ奥底で小さく燃えている事を感じ取り、高らかに笑った。
「先輩……?」
リズは突然笑い出したベルに驚き、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
(――雪姫、ありがとう。お前の思いと覚悟、確かに受け取ったぞ。ならばベルも覚悟を決めた!)
思念で雪姫に礼を伝えた後、ベルはすっと立ち上がった。その顔は先程の怒りと絶望に満ちた顔ではなく、決意と覚悟に満ちた、力強い顔だった。
「……まだ終わっていないぞ、リズ。分の悪い賭けだが、雪姫を助ける事ができるかもしれない」
「えっ!?」
驚くリズをよそに、雪姫の血に染まったネジを一度握り締め、その手を開いてリズに見せる。そして、驚くべき一言を口にした。
「よく聞いてくれ。何故かわからないが、このネジから強力な破魔の力を感じる。確証は持てないが、おそらく雪姫の巫女の血と、ネジに宿る力が合わさったものだろう。そこでベルはこれを自分の手に突き刺し、出力を限界以上にまで高めた<高揚の炎>を使う」
それを聞いたリズはベルのやろうとしている事を察し、驚きに目を見開いた。
「……まさか、先輩がやろうとしている事って……!」
「そうだ。ネジが持つ力とベルの力を同時に限界以上まで引き出して雪姫に巣くう呪いを完全に断ち切る。それに、雪姫の命の炎はまだ完全には消えてはいない。火種のように儚く小さいが、確かにまだ炎は燃えているのを感じ取った。そこで呪いを断ち切った後、ベルの力でその微かな命の炎を強化し、燃え上がらせる」
<高揚の炎>。それは、ベルの炎で魂に熱を与える事によって、魂や肉体、魔力、あらゆるものを活性化させる事ができる魔術。攻撃魔術がメインのベルが操る事ができる、他者を助ける力。
「そんな事ができるんスか!? で、でも、もし失敗したら……!」
不安げなリズにベルは軽く視線を落とし、呟く。
「……ああ。雪姫は蘇らないし、ベルは消滅するだろうな。封印されていて本調子ではない上にこの大怪我――この状態で自分のキャパシティ以上の力を使うというのだからな。分の悪い賭けどころか大穴もいいところだ」
軽い口調でとんでもない事を言うベルに、リズは慌てふためいた。
「先輩、どうしてそこまでできるんスか!? 確かに私だって雪姫ちゃんの事は大好きだし、助けたいっス! でも、そのために先輩まで失ったら私は、私は……!」
「簡単な事だよ、リズ」
ベルはリズの頭に軽く手を置き、穏やかな笑みを浮かべて言った。
「――『妹』だから、かな」
「妹……?」
「ああ」
リズの頭から手を離し、今度は雪姫の前髪を梳いてやりながら言葉を紡ぐ。
「この子は、人間ではないベルを恐れず、真っ向から『大切な姉』だと言ってくれた。正直、本当に嬉しかったよ」
ベルはそこでいったん言葉を切り、続けた。
「だからベルは、こんな自分を『大切な姉』だと言ってくれた彼女の思いに応えなくてはならない。その結果が、いかなるものになろうとも」
「…………」
リズは黙ってベルの言葉を聞いていたが、やがて大きな溜息をつくと、ベルを見た。その表情は憑き物が落ちたかのように晴れ晴れとしていた。
「……了解っス。もう私は何も言わないっス。だけど先輩、これだけは言わせてほしいっス……雪姫ちゃんを助けて、先輩も戻ってきて下さいっス!」
そこでベルは表情を緩ませた。
「ああ。上手くいったらお慰み、成功した暁には……」
その言葉にリズは笑顔で頷いた。
「わかってるっス。その時は乾杯といきましょう! 先輩と私と、ユキちゃんで!」
その言葉にベルはくふふと笑い、おどけた口調で応えた。
「言っておくが、払いはお前持ちだぞ?」
「えーっ!? そこは割り勘っしょ先輩!?」
二人はそんな会話を交わしていたが、やがてベルは真剣な表情になった。
「――お喋りが長くなってしまった。すぐに始めよう、最早一刻の猶予をも争う状況だ」
そう呟くベルに先程までの穏やかな雰囲気はどこにもない。あるのはただ、目の前の「大切な者」を救いたいというその一心だった。
そしてベルは「すまない」と短く謝り、雪姫の服を軽く引き下げ、胸をはだけさせる。
その時、ベルは雪姫の首にかかっている賀川とお揃いの青く輝く石――夜輝石を見つけた。それを見たベルは軽く微笑み、そっと呟いた。
「賀川、聞こえているかいないかは関係ない。力を貸せ、お前の雪姫が危ないぞ」
自分でも何故かはわからないが、呟かずにはいられなかった。そしてベルは手の中のネジを左手の親指で軽くピンと弾き、キャッチする。
「雪姫を救うため、そして彼女の幸せのために、ベルは魂を懸ける」
一言呟き、そして、躊躇う事なくネジを右の掌に突き刺した。
「――ぐっ……あああっ!」
ベルが苦悶の叫び声を上げる。ネジを通してベルに強大な破魔の力と雪姫の血に宿っている巫女の力が流れ込んでくる。掌から血がだらだらと流れ出したのを見たリズが叫んだ。
「先輩!」
「……大丈夫だ。ネジと雪姫の力の強さにちょっと圧倒されただけだ。だが、これならいける!」
ベルはいけるという確信を持った笑みを浮かべ、魔力を右腕に集中させた。
「――<高揚の炎>!」
ベルは叫び、魔力を解放する。
次の瞬間、掌にネジを突き刺したベルの右腕が炎に包まれ、燃え上がる。炎はどんどん勢いを増し、やがて白熱していき、最終的に右腕は白い光に包まれて眩く輝く腕へと変貌した。
「凄い……」
右腕から迸る凄まじい魔力にリズは無意識のうちに呟いていた。
ベルは雪姫に向き直り、宣言した。
「待っていろ、雪姫よ! 必ずお前を救ってみせる!」
そして、ベルは迷う事なく光り輝く右腕を雪姫の胸に突き立てた。
桜月りま様 うろな町の森に住んでみた、ちょっと緩い少女のお話より ユキちゃん、
小藍様 キラキラを探して〜うろな町散歩〜より 夜輝石をお借りしております!




