Part 06 「復讐者」
憎い。憎い。憎い。にくい。ニクイ……!
ベルと雪姫が去った後も冴は地面にうずくまったまま、ぶつけようのない怒りや嫉妬、そして憎しみを募らせていた。
その手は固く握り締められ、あまりの強さに爪が掌に食い込み、血が地面に滴り落ちていた。
道の真ん中でうずくまっている彼女の様子を通りがかる誰もが訝しそうに見て、通り過ぎていく。
中には声をかけようとした者もいたが、冴から放たれる、あまりにも強烈な負の念がプレッシャーとなって、何人をも寄せ付けなかった。
(憎い……憎いにくいニクイニクイニクイ! あの女もあの赤毛の小娘も、どいつもこいつも私を馬鹿にして……! 私が誰よりもあの子の事を……あきらちゃんの事をわかっているの! 愛しているのよ! 誰にもあきらちゃんは渡さない……特に、宵乃宮の、あのオンナニハ……! ニクイ……アノオンナガニクイ……! コノテデ、コロシテヤリタイ……!)
冴の負の感情が最高潮に達した時だった。
ニクイカ?
地の底から響きわたるようなおぞましい声が、冴の耳朶を打った。
冴が咄嗟に顔を上げ、周囲を見回した時、彼女の周囲は闇に覆われていた。
その闇は深く、自分がどこにいるのかはおろか、一寸先も見えない。
(……そんな!? さっきまで夕暮れだったのに!? それに、一体ここはどこなの!?)
冴が慌てて立ち上がり、踵を返してその場から逃げ出そうとした時だった。
汝ハ、アノ女ガ、ニクイカ? コロシテヤリタイカ?
先程の声が、今度はより鮮明に響き渡った。その声はまるで鎖のように冴の動きを封じ、声のした方向に目を向かせた。
「――ひっ!」
次の瞬間、冴は喉を鳴らして数歩後ずさった。
視線の先には、闇の中から顔だけを出した「何か」がいた。
「それ」は、のっぺりとしたフォルムに不格好な顔のパーツがついた異様な外見をしていた。
ぎょろりと見開かれた血のように紅い瞳、刃物のように尖った耳、獣のように耳まで裂けた口、湾曲した二本の角を持つ漆黒の異形。
そんな悪夢の中でも遭遇しそうにないおぞましい存在が冴をじっと見つめている。
悪魔。
冴は直感した。あれは「悪魔」だと。本能がこいつに関わってはいけないと警報を発している。
『汝はあの女を殺したくはないか?』
突如、「それ」が異様に裂けた口を開き、はっきりと聞き取れる人語を紡いだ。その言葉は絶対的な強さを持ち、冴の感覚を麻痺させる。
「あの女を……殺す……?」
冴は声を震わせながら尋ねる。彼女の脳裏に、自らが愛してやまない者の隣で微笑む、白髪と紅の瞳を持つ少女の姿が浮かんだ。今、自分が殺したくて仕方がないあの少女が。
「それ」は冴の考えを見透かしたかのように答えた。
『そうだ。我に力を貸せば、誰にも咎められる事なくあの女を殺すための力を与えてやろう。だがそのためには、汝の協力が必要なのだ』
「それ」は冴に頼むかのような口調で彼女に呼びかける。
冴は一呼吸つくと、声を発した。
「……まずは、貴方が何者で、その目的を聞かせてもらいましょうか? 話はそれからよ」
冴の声に、「それ」はグッグッと唸った。
『よかろう』
そして、「それ」は語り始めた。
『我は遙か昔この地に封じられし者。だが、此度のヒトとアヤカシ達が繰り広げた戦により、我を永きに渡って縛っていた封印は解かれた。もはや何者であろうと我を止める事は叶わぬ』
「この町にあなたのような存在が封じられていたなんてね。それで、貴方とあの女、一体どんな関係があるの?」
冴の疑問に、「それ」は憎悪を滲ませた声で答える。
『我は元々宵乃宮によって召喚された。その術者によって巫女の体に降ろされ、使役された。だが次第にヒト、魔、あらゆるモノを殺すためだけの都合のいい道具として扱われ、さらに奴らが呪術の発展のためにその身を贄として捧げる事となった……』
「……」
冴は黙って「それ」の言葉に耳を傾けている。
『その果てに、宵乃宮の者達は我の身を犠牲にして得られた力を、全てを搾り尽くし、搾り滓となった我で試したのだ! その最中でヒトの体を失い、四肢を奪われ、本来の体も朽ちゆく痛みは語らずともわかるであろう! 本当はこの体の消滅までを計画していた奴らの目論見は失敗に終わった。しかし奴らは我が災厄の根元とならぬよう、四肢をなくしたそのままに、我をこの地の奥底に封印したのだ。まるで我など存在していなかったかのように! 誰もが口をつぐんで知らん顔を決め込んだのだっ!』
血涙を流しながら咆哮し、慟哭する「それ」。闇の中に、「それ」の怒りや悲しみ、そして憎しみが蠢いていた。
(……私と、一緒なんだ……)
その境遇に冴は自分を重ね合わせていた。
彼女は賀川の幸せと、己の欲望のために彼を縛り、暴力を振るい、がんじがらめにした。そうする事で、壊れる寸前の自分を保っていたのだ。
それは、歪んだ愛の形だった。
しかし、それは雪姫が現れた事によって終わりを告げた。彼は雪姫にただならぬ関心を抱き、愛し、そしてそのために自分を完全に拒絶した。
『もうこれで終わりにして、姉さん』
決然と、それでいてどこか悲しげな賀川の声が蘇り、冴の中で反響する。
それは、歪んでいたとはいえ彼女が彼に対して注いでいた愛情が何の意味も為さなくなり、彼女の中で決定的な何かが壊れた瞬間でもあった。
冴はその時の事と胸に吹きすさぶ虚無感を思い出し、思わず涙を流していた。
「本当に、酷い目に遭ったのね……可哀想に……」
鏡に映った自分を見るような目で、冴は涙声で「それ」に語りかけた。
ひとしきり心の叫びを解き放った後、「それ」は急に冷静さを取り戻し、言葉を紡いだ。
『……さて、話を戻そう。聞くところによると宵乃宮はあの小娘――巫女の力を用いて再びその権力を蘇らせようとしているらしいではないか』
「……ええ、そうよ。風前の灯火同然の旧家が出しゃばった所で何かができるわけでもないというのに」
涙を拭い、冴は答えた。すると「それ」は憎々しげに呟いた。
『……そうはさせん。あの巫女の力は類い稀なるもの。奴らに利用されるくらいならば、我が喰らってその糧としてくれる』
そして「それ」は冴を見据え、交渉を持ちかける。
『我に汝の力を貸せ。我はあの巫女を喰らい、宵乃宮の復興を妨げると同時に復活への礎とする。そして汝は憎いあの小娘を殺し、汝の大切な者を永久に手中に収める……互いにとって得な事ばかりではないか?』
悪魔の誘いに冴はしばらくの間押し黙っていたが、
「……そうよ。もう宵乃宮もあの女も関係ないわ。私とあきらちゃんの邪魔をするならば誰だろうと、コロシテヤル、ヤツザキニシテヤル……!」
冴は喉の奥からくっくっと笑い声を発し始め、やがてそれは辺りをはばからぬ昏い哄笑へと変わっていった。そしてその目には妖しい光が宿っていた。
「……いいわ。貴方と組みましょう」
ひとしきり哄笑を放った後、冴は宣言した。
それは、冴が悪魔の誘惑に堕ちた瞬間だった。
彼女の視線の先で「それ」が満足そうに頷いた。
『取引成立だな、冴よ』
「ええ。ところで、貴方の事はなんと呼べばいいのかしら?」
冴の言葉に「それ」はグッグッと、地の底から響いてくるようなおぞましい唸り声を立てた。
『名前など、とうの昔に忘れたわ。汝の好きなように呼ぶがいい』
その言葉に、冴はゾッとするような笑みを浮かべた。
「――じゃあ、『アラストール』なんてどうかしら? ギリシア語で『復讐』を意味する言葉で、これは『復讐者』という悪魔の名前でもあるのよ。宵乃宮に、そしてあの女に復讐を誓った私達にお似合いじゃないかしら?」
示されたその名に、「それ」は再びグッグッと、心底楽しそうに笑った。
『――実に良い名だ。これより我はアラストールと名乗ろうぞ!』
――|アラストール(復讐者)の名を得た悪魔は高らかに笑った。
「……ところで、私は一体何をすればいいのかしら、アラストール?」
心底楽しそうな様子で冴はアラストールに尋ねる。するとアラストールは低い声で答えた。
『……何、簡単な事だ。冴よ』
そして、アラストールの姿がふっと消えた。
――汝、その身と魂を我に捧げよ――。
次の瞬間、冴の意識と魂はどこからともなく伸びてきた無数の黒い触手に掴まれ、それと認識する間も与えられずに闇の奥底へと引きずり込まれた。
しばらくして、地面にうずくまっていた冴は幽鬼を思わせるような、それでいて異様に滑らかな動作で立ち上がった。
そして、自分の手を数度握ったり開いたりを繰り返した。掌の傷は跡形もなくなっている。
身に纏っていた着物はいつの間にかへ喪服よりもずっと黒い、あまりにも深い闇で染めたかのような深い漆黒の着物へと変わり果てていた。
そして、彼女は般若を思わせるような凄絶な笑みを浮かべた。その瞳には人のものとはかけ離れた、血のように紅い、危険な光が宿っていた。
「『……待っていろ、宵乃宮の巫女よ。我が完全なる復活を遂げるために……あきらちゃんのために、お前を殺しに行く』」
ゾッとするような低さを持った冴の声と、歪んだ何かの声を同時に発し、冴の姿をした「それ」は歩きだした。
周囲に、強烈な負の波動をまき散らしながら。
桜月りま様 うろな町の森に住んでみた、ちょっと緩い少女のお話より 引き続き冴さんをお借りしております。




