Part 05 悪意の女
帰り道。時刻は午後四時半。辺りは夕方になりつつあった。
「雪姫、疲れたか?」
「ううん、大丈夫です。むしろ、とっても楽しかったです」
雪姫とベルはゴスロリ服のまま、お喋りをしながら川沿いの道を歩いていた。
「そうか、それはよかった。声をかけた甲斐があったというものだ」
そう言って微笑むベルの腕には、レトロゲームがいっぱい詰まった紙袋が堤がっている。
「それはお友達の分?」
雪姫に尋ねられ、ベルはしばし考え込み、ゆっくりと答えた。
「友達……まあ、な」
ベルは思わず苦笑する。その脳裏をよぎったのは、堕天使で、かつ廃人とも言える領域にまで足を踏み込んでいるルーシー・ヴェルトールの姿だった。
(……くふふ、あいつの事だ。これだけのレトロゲームを土産にしてやれば狂ったように喜ぶだろうよ)
ベルがそんな事を考えていた時、二人は急に足を止めた。前方から歩いてきた人影がベル達の行方を遮ったのだ。
「――お久しぶりね、ユキさん。そんな格好をして、あきらちゃんを誘惑しようとでもいうのかしら?」
ベルが視線を向けると、そこにはしゃんとした着物姿で、それとは対照的に凄絶な笑みを浮かべている女性が立っていた。ベルは無意識の内に雪姫を背に庇うように一歩進み出ていた。
「……あれは誰だ? 雪姫」
「この前話した賀川さんのお姉様……時貞冴さんです」
「姉?」
それを聞いたベルの眉が吊り上がる。そして、改めて女性を観察する。
目の前に立つ女性――冴は賀川の姉だというが、賀川とは似ても似つかない顔立ちをしていた。
(しかし、こいつは……)
ベルの表情が険しいものになる。
堕天使特有の感覚は、彼女から雪姫に向けて放たれる悪意、憎悪、嫉妬――様々な負の感情がないまぜになった、どす黒いオーラを感じ取っていた。
ベルの姿に気付いたのか、冴はどこか小馬鹿にしたような笑みを浮かべながら雪姫に尋ねた。
「ユキさん、その子供さんはどなた?」
「ベルは子供ではない。気安く話しかけるな」
ベルの口調も自然と刺々しいものになる。しかし冴はそれを意に介す事なく、雪姫を見据えた。
「この前、お話したの覚えているかしら?」
「あ、でも」
「覚えているなら、何故貴女はあの子と一緒に居ようとするのかしら?」
「別に居ようと何て、その……ただ私、彼が……」
「まさかと思うけれど、軽々しく『好き』なんて言わないでね、あの子は『私』のなの」
冴に断言され、雪姫は返答に困ってしまったようだ。そしてそのまま俯いてしまう。
俯いた雪姫を見て、冴はさらに語気を強めながら言葉をぶつける。
「私の方があの子の事をわかっているわ」
そして冴はくすりと笑いつつ、着物の袖から何かを取り出した。
「貴女はあの子に必要ないの。でもあきらちゃん、貴女がいると私の言う事を聞いてくれないから」
直後、冴の手元が輝き――
「……消えて」
冴はそれだけ言うと、雪姫めがけて突進してきた。雪姫はただ呆然と立ち尽くすしかできなかった。
だが、ベルはこの冴という女が雪姫に害をなす者だと判断した。その証拠に、彼女の手には短刀が握られている。
それを認識するや否や、ベルは紙袋を地面に捨て、駆ける。
直後、ベルは雪姫と冴の間に割って入り――
短刀の刃を、その手でしっかりと掴んだ。
鋭い痛みがベルの掌を襲い、血が滴り落ちる。だがベルは表情一つ変えず、鋭い視線で冴を睨みつける。
「あ、貴女、何をするの!? そこをどいて!」
思いがけない行動をとったベルに、冴が狼狽しながらも吠える。ベルはしばらくの間、冴を無言で睨みつけていたが、やがてその腕力で刃ごと彼女の腕を押し返し、そして刃をぐっと握り締めた。
直後、ベルの手の中で刃がガラスのように砕け散った。
冴は何が起こっているのかわからないという顔をして、呆然と刃のなくなった短刀を見つめている。
「……雪姫に大体聞いてはいたが、思った以上に『歪』だな」
ベルはさりげない動作で冴の手をしっかりと掴み、動きを封じつつ、侮蔑的な口調で呟いた。
「……何、何でっ! 貴女、邪魔しないで」
威嚇するような口調と鬼のような形相でベルを睨みつける冴。ベルはその視線を真っ向から受け止め、言葉を発した。
「黙って聞いていれば自分の言い分ばかりだな、お前。何が『私の方があの子の事をわかっている』だ? 確かに過ごした時間はお前の方が長いだろうさ。しかし、心の距離はどうだ? お前は口では賀川を気遣っているようだが、実はあいつを恐れ、自分から拒絶しているだけだ。その一方で雪姫には嫉妬か? まったくいい身分だな。そんな奴に、二人の何がわかる? お前の言い分は、欲しい物が手に入らないからといってわがままを言う餓鬼にも劣る」
「ベル姉様!」
雪姫が叫び、立ち入ろうとしたが、ベルはすっと手を上げて彼女を制した。
「雪姫も賀川も、自分の意志で互いの側にいたいと考えている。身分や立場など、そんな瑣末な事は捨て置いてな。それを何故、お前に指図されなければならない?」
ベルの深紅の双眸に怒りがこもった炎が宿る。それを見た冴は鋭く息を飲んだ。
冴の顔に怯えの色を見たベルは不敵に笑った。さらにベルは何かを思いついた表情をし、笑みを深めた。その笑みはまるで、鼠を捕らえた肉食獣そのものだった。
「……そうだな。目玉の一つくらい抉り取った方が、あいつの痛みを理解できるかもな」
ベルは言い終えるや否や、目にも留まらぬ速さで足を払いつつ冴を押さえ込み、仰向けに転倒させた。冴の口から苦悶の声が漏れる。
ベルはすかさず彼女に馬乗りになり、片手で首を掴む。そして、ベルはもう片方の腕を限界まで後方へ引き、力を溜める。
次の瞬間、ベルはその腕を勢いよく伸ばした。冴の、目をめがけて。
冴と雪姫が同時に短い悲鳴を上げる。その時――
「……やはりやめた」
ベルは冴の眼前で手をピタリと止めた。それも、あと僅かでも手を伸ばすだけで爪が眼球に達する寸前で。
本能的な恐怖に目を白黒させ、歯をカチカチと震わせる冴を見たベルは舌打ちを一つし、言葉を紡いだ。
「お前にはそのような価値などない。他人の痛みを理解できない奴に、自分の痛みが理解できるはずもないからな」
そう言い切ると、ベルはすっと立ち上がる。
「――失せろ」
ベルは凄絶な表情で冴を睨み、冷然と言い放った。
そしてベルは落とした紙袋を拾い、雪姫に声をかけた。
「雪姫、大丈夫か? 行くぞ」
「えっ? あ、あのっ」
ベルは怪我をしていない方の手で雪姫の手を取り、その場を立ち去った。
二人が去った後、冴はそろそろと首に手をやる。そして、手に触ったものを見て絶叫した。
首には、堕天使の腕力によって締め付けられた手形がしっかりと残り、その手にはベルが刃を掴んだ際に流れ出た血がべっとりと残っていた。
そして後には、本能的な恐怖と圧倒的な力の差を見せつけられた事によって慟哭する、一人の女が残された。
その帰り道、ベルは雪姫の手を引き、無言で道を歩いていた。
手に刻まれた刃の傷はもう完治している。常人にとっては深い傷だが、堕天使である彼女にとっては大した傷ではない。堕天使特有の治癒能力をもってすれば、このような傷は数分で完治する。
と、その時雪姫がベルに声をかけた。
「待って、ベル姉様」
「……説教なら聞かないぞ。ベルは間違った事は言っていな……」
雪姫の顔を見たベルの表情が変わる。雪姫の顔は目に見えて真っ青になっており、滝のような冷や汗が頬を伝っている。ベルはすぐに立ち止まって尋ねる。
「雪姫、どうした?」
「……お姉様と話しているうちに何だか気分が悪くなってきて……」
雪姫の腕からバザーで買った品物が落ちる。
「……少し、休んだら大丈夫だから」
「そうは言うが……雪姫、そこに座れ」
ベルは近くにあったベンチを示し、雪姫の体を支えながらベンチへ雪姫の体を預ける。
(……どういう事だ? 先程まであんなに元気だったのに……まさか)
ある可能性にたどり着いたベルは雪姫の背後に回る。
「雪姫、少しチョーカーを外すぞ。少しでも呼吸を楽にしよう」
そう声をかけつつ、ベルはチョーカーをそっと外した。次の瞬間、ベルは鋭く息を飲んだ。
そこには、傷口からどす黒い瘴気が膿のように吐き出されているおぞましい光景があった。
「……くそっ、あの女の放つ悪意にあてられたか」
ベルは苦々しげにそう呟いた。
桜月りま様 うろな町の森に住んでみた、ちょっと緩い少女のお話より ユキちゃん、冴さん、お借りいたしました!




