Part 06 ドッグデイズ‐犬日和‐
不意に声をかけられ、ベルははっとして声のした方を見た。
するとそこにはまだ顔色は悪いが、比較的しっかりと立っている雪姫の姿があった。
「雪姫、起きたのか。具合はどうだ?」
すると雪姫はベルの問いかけには答えず、ナベリウスの方をじっと見つめている。そして、納得したかのように手をポンと打ち、深紅の瞳をキラキラと輝かせた。
「――ああ、今まで水音がしていたのはお魚ではなくて、そのわんちゃんを洗っていたのですか? 言ってくれればお手伝いしたのにぃ。翼付きのわんちゃんは初めて見ました!」
突然の雪姫の発言に堕天使二人は揃って首を傾げた。
「え、何? わんちゃん? ゆ? 雪姫?」
ベルがわけがわからないという顔で雪姫に聞き返す。すると雪姫は軽い足取りでナベリウスの元へと歩み寄り、そっと跪くと、
「お手、してくれますかね? お手っ!」
と、満面の笑みを浮かべて手を差し出した。するとナベリウスは――
「ワンッ!」
と、一声吠えると雪姫が差し出した手にすかさず軽く握った自分の手を重ねた。
「よしよし、いい子いい子」
そう言って雪姫はナベリウスの頭を犬にやるような手つきで撫でた。
「くぅん、くぅん♪」
ナベリウスは幸せそうに目を細めて頭を撫でられていたが、やがてはっと我に返ると、首だけを動かしてベルに尋ねた。
「……って、あれ? 私、なんで言う事聞いてしまうんっスか、先輩……」
「知らん……が、笑っていいか?」
すると、雪姫はナベリウスが言う事を聞いた事に気を良くしたのか、さらに、
「お座り!」
と命じた。するとリズは、
「ワンッ!」
と、お座りという言葉に即座に反応し、正座を崩すと片膝を突いて雪姫の前にきっちり跪いた。そして再び彼女に頭を撫でられつつ「何で?」と言いたげな表情でベルを見た。
彼女は必死に笑いを堪え、そして雪姫に尋ねた。
「……雪姫、何をやっているんだ?」
「え? ここにいる大きなわんちゃんの頭を撫でて……あれ?」
そこで雪姫は初めて、何か違和感に気付いたような顔をした。見る見るうちに雪姫の色白な顔が紅潮していく。
「ええええええっ、い、犬が人間になりましたっ! てか私、と、とんでもない事を……ごごごめんなさいっ!」
オロオロし始める雪姫。それを見たベルはとうとう声を上げて笑いだした。
「それにしても、わんちゃんか! そいつは傑作だぞ、雪姫! 実に的確にこいつの本質を突いている! あはははは!」
ナベリウスは気恥ずかしさからか顔を赤らめた。そして雪姫は慌てながら弁解する。
「ごめんなさい、私ちょっと、そのその……」
どもってしまう雪姫にベルは穏やかな口調で告げた。
「雪姫、大丈夫だ。こいつはそのくらいで怒りはしない。そうだろ?」
「こいつ? そういえば、まだお互いの名前を知りませんでしたね」
雪姫が思い出したように言う。
「あの、私はユキ、前田……雪姫です。お名前を聞いて良いですか?」
そう聞いた途端、びくっと背筋を伸ばして彼女は、
「わ、わたしはひな……ひ、痛っ!」
「……おい、お前の名はそんなに噛むような名前なのか?」
(おい、何でそんな噛むような名前にした?)
肘でナベリウスを軽くつつきながら、ベルは言葉と思念の両方でツッコむ。
するとナベリウスは軽く咳払いをし、改めて自己紹介した。
「緋辺・A・エリザベスっス! よろしくっス、雪姫ちゃん!」
そう言って、テーブルに打たんばかりの勢いで頭を下げ――そのままテーブルに額をぶつけた。
「きゃん!」
ナベリウスは悲鳴を上げて額を押さえた。その様子を二人は何とも言えない表情で見つめていた。
(……おいおい、大丈夫か? そしてえらく凝った名前だな)
再びベルは思念で偽名を名乗ったナベリウスに呼びかけた。するとすぐに思念が返ってきた。
(え? 私、火属性だから『火』を『緋』にして、さらに『ナベリウス』からナベをとって緋とくっつけて『緋辺』、さらに堕天使っぽく『angel』をアンジェと読んでミドルネームに、そしてナベリウスに近いニュアンスの名前にエリザベスを持ってきたんス! どースか!?)
(……ほほう、お前にしては上出来だな)
(ふふん、知恵熱出しながら必死こいて考えた甲斐があったってものっス!)
すると、居間に葉子が入ってきた。
「えー……えっと、エリザベスさんっていうの? 長くて呼びにくいわねぇ、日本人には……でも緋辺さんって感じじゃぁ……ベルちゃんは何て呼んでいるのかしら」
「そ、そうだな、普通にエリザベスって……」
いきなり話を振られ、流石のベルも面食らった様子で適当な呼び名を考えようとする。そこへ――
「…………リズ、またはべス、が一般的だ」
急に低い声が聞こえ、一同が振り返ると、そこには賀川が立っていた。葉子が驚いた様子で声をかける。
「お帰りなさい、気付かなかったわ、賀川君」
賀川は葉子に軽く会釈すると、リズに向き直った。
「リズさん、どうも、賀川です。……葉子さん、今からちょっと出てくるから。夕飯には戻ります」
葉子が何か尋ねようとしたが、賀川はそれだけ言い残して部屋を後にした。
(……くふふ、まだ改めてあの子と向き合うには踏ん切りが付かないか。でも、先程よりもいい目になったじゃないか)
ベルは一同から見えないようにクスリと笑った。すると、ナベリウスがボソッと呟いた。
「……あの男、臭うっス」
「さっきまでのお前の方が臭っていたけどな、リズ」
「え、ベル先輩、私の呼び名、あの男が付けた名前で決定っスか!? っていうか、女の子に対してその言い種はあんまりじゃないっスか!?」
「リズちゃん、可愛いじゃないの。おばさんはそう呼ぶわね? あ、ベルさんと同じで結構お年が上なのかしら? サン付けの方がいいかしら?」
「私はベル姉様に合わせて、リズ姉様とお呼びして……」
そう言いかけると、ナベリウス――リズはぶるぶると首を素早く横に振って、
「わわわわん! ちょっと待つっスよ! なんか話が進んでるっスけど、そんな姉様とかサンとか、おこがましいっス。その、私の事は『ちゃん』付けでいいっスよ」
「じゃあ、リズちゃんってお呼びしますね?」
雪姫がそう言うと、リズは落ち着いたように数回頷いた。それを見た葉子は笑ってパンパンと手を打ち、
「さあさ、そろそろ晩御飯の用意をするわ。昨日は急な事だったから材料があれだったけど、今日はイイ鯛が二匹も手に入ったの。一匹はお刺身、もう一匹で鯛飯にしましょう?」
「メデタイ、か。いいな、実に日本らしい」
ベルが嬉しそうな声を上げる。
「大きい鯛だけど、何しろうちは人数が多いから、一品は鯛飯とかしないと全員の口に入らないのよねぇ。火の方任せていいかしら、ベルちゃん」
「任せておけ。腕が鳴るというものだ」
自信満々にベルが頷く。するとリズはぽかんとした様子で首を傾げた。
「だ、台所までやるんっスか?? ベル先輩が?」
「ん? ああ。さて、じゃあやろうか」
何て事ないように台所に入っていくベル。
「わ、私も手伝うっスよー!」
「うーーーー私も……」
慌ててその後をリズが追いかけ、雪姫もふらつきながらその後に続いた。
葉子とリズ、そして雪姫が下拵えをし(リズ曰く、野宿生活でこういうのには慣れているという)、ベルが自慢の炎で仕上げを務めた。
だが、雪姫は人参の皮むきなどを手伝っていたが、上手く力が入らないようで、途中から休んでいた。
すると、そんな雪姫を元気づけようとしたのか、リズは自分が今までにあちこちを旅してきた事を話し、彼女を励ました。
そして、この町に来て財布をなくしたが、ベルに会えてよかったと本当に嬉しそうに語っていた。するとそれに触発されたのか雪姫もリズに自分が絵を描いている事やうろなでの暮らし、そして身の上話を返していた。
特に、彼女の母親が行方不明だという話を聞いた時、リズは、
「そ、そんな! こんなに若いのにお母さんがいないなんて! でも、今までよく頑張ってきたっスね! うう、雪姫ちゃん、君は偉いっス! うわああん!」
と、自分の事のように泣いた。そんなリズに、雪姫もすっかり心を許したようだった。
それから、夕食時になって鷹槍と職人達が帰ってきた。
葉子が彼らにリズを紹介し、事情を説明してくれた。ベルに続いて新しい美少女がやってきた事に職人達は色めき立ち、鷹槍は「また変わった嬢ちゃんだな……」と呟いていたが満更でもなさそうだった。
そして鯛飯が振る舞われ、その味の素晴らしさに全員が唸った。
雪姫は相変わらずあまり食べていなかったが、本当に美味しかったと語っていた。
「美味かったっス! ごちそうさまでしたっス!」
リズが満面の笑みを浮かべて手をパンと打った。
「今までで一番うまい鯛飯だったな。炊き加減がサイコーだ。さすがベル嬢ちゃんだ」
鷹槍も満足そうに食後のお茶を啜る。職人達も「ベルさんマジパネェっス!」と彼女を誉めちぎった。するとベルは少し頬を赤らめ、
「何、葉子の塩加減が絶妙だったからな」
と照れくさそうに言った。
その後、ベルと雪姫は風呂に入る事にした。ベルは雪姫を先に向かわせ、彼女が戻ってきたのと入れ替わりに風呂へ向かった。
雪姫が風呂から上がって髪を乾かし終え、くつろいでいる所に賀川がふらりと帰ってきた。雪姫が声をかける。
「おかえりなさい、賀川さん」
「……ただいま、ユキさん」
ぎこちないながらも笑みを浮かべ、賀川は挨拶を返した。
「ウウウゥ……」
一方リズは賀川に対して威嚇するかのような唸り声を上げている。その様子に雪姫と賀川は驚いている。すると、そこに葉子がいくつかの器を載せたお盆を持ってきた。
「賀川君、いつも別メニューでごめんなさいね。鯛飯無くなっちゃったの。でもこれも美味しいわよ?」
出された献立を見て、賀川はきょとんとしてそれを見つめた。
「刺身と、ワサビ……御飯にお茶……」
「昨日もお茶漬けだったから悪い気がするけど……これは美味しいわよ」
「ああ、え? これでお茶漬け?」
賀川が顔を上げて葉子に尋ねていると、手元のワサビがどっさりとご飯にかかってしまった。それに気付いた葉子が慌てて止めたが、もう遅い。
「あ、賀川君、それ入れ過ぎ! ……大丈夫?」
「ごほっ、ごほっ……だ、大丈夫です……」
どうやら賀川は鯛茶漬けは初めてだったらしく、ワサビの入れ過ぎで噎せてしまい、涙目になっていた。
すると、そこに風呂から上がったベルが戻ってきた。
「良い風呂だった……おや、遅い帰宅だったな、賀川」
「…………やあ」
「お前は何で泣いているんだ? 飯を食いながら……」
ベルはきょとんとして首を傾げた。
するとその側ではリズと葉子が話し合っていた。
「そうそう、リズちゃんは座敷で寝てね? 布団出しておくか……」
するとリズはすかさず立ち上がり、首を横に振った。
「いいっスよ、も、もったいないっス。私は庭を借りられれば……」
「庭?」
するとリズは自信満々といった様子で胸を張った。
「テント張るっス!」
すると葉子は素っ頓狂な声を上げた。
「ええええええっ! お客様にそんな所で寝ていただくわけにはいかないわよ!」
「いいえ! 一文無しの自分に美味しい昼ご飯と晩ご飯を振る舞ってくれたのに、さらに泊まっていけだなんて申し訳なさすぎるっス! 自分は庭での野宿で十分っス!」
すると、ベル、雪姫、賀川もリズの説得に乗り出した。
「おいリズ、葉子の言う通りだぞ」
「リズちゃん、外はもう暗いですし、泊まっていった方がいいですよ?」
「リズさん、遠慮しなくていいんだよ?」
しばらくの間、ベル達はリズを説得していたが彼女は頑として首を縦に振らなかった。
しばらく説得合戦が続いていたが、突然葉子は手をポンと打ち、リズに言った。
「こうなったら、リズちゃん、勝負よ! 私が人数分の布団を敷き終えるか、リズちゃんがテントを張り終えるか! 負けた方が勝った方の言う事を聞く! どうかしら!」
すると、リズの橙色の瞳がキラリと光った。
「望む所っス! 旅で鍛えたリズ式テント張り、とくとご覧あれっス!」
そして、それぞれに賀川とベルが付き、審判を務める事にした。
桜月りま様 うろな町の森に住んでみた、ちょっと緩い少女のお話より ユキちゃん、葉子さん、賀川さん、タカさん、職人の方々、お借りいたしました!




