人捜し
そんな日から一ヶ月が過ぎて、社内の雰囲気は日に日に重苦しくなっていた。
「うまくいってないみたい…」
山下絵美が耳打ちをしてきた。神崎怜司の依頼の件だろう。
あれから、制作課は必死になって人捜しをした。それこそストリートミュージシャンから大御所と言われる歌い手まで、男女を問わず…。これぞと思うような歌手は既にどこかのプロモーション会社が提案して却下された後だけに、その作業は予想以上に難航している。
「ああもうだめだ。種が尽きた…」
と横田が嘆いている。それでも諦めきれないのか、新人歌手リストをいじくり回す。
もう何度目になったか数え切れない打ち合わせという名の愚痴大会が会議室で行われていた。杏香はその部屋に三時のコーヒーを運ぶ。
「ありがとう、伊沢さん。君のコーヒーは唯一の楽しみだよ」
なんて、横田はうまいことをいって喜ばせてくれる。この気配りの細やかさだからこそ、沢山の良い仕事をしているのだろう。そんな横田がしおれているのは見ていて辛かった。
「また駄目だったんですか?」
「うん。もう何人目になるんだろう…」
「なんか凄いこだわり方ですね」
「これだけの会社と神崎さん本人が探しても駄目なんだから、そんな人はいないと思うべきじゃないんだろうか…」
「どんなイメージなんですか?さわやか系?それとも濃厚?」
「どっちなんだろう…もうそれすら俺には解らない。楽譜だけじゃ…」
クライアントの求めるイメージが掴めないって…横田に限ってそんなことあるんだろうか。音大出の彼の譜読み能力は相当高い。楽譜からイメージを起こすことなど簡単だろうに、いったい神崎怜司は何を求めているのやら…。
「実際に聞いたことあるんですよね?」
「何度も自分で弾いてみたけど、歌は…」
「一度ご本人に歌っていただけばいいじゃないですか。こういう風に歌って欲しいんだって…。例え求める声じゃなくてもイメージぐらい解るでしょう」
「無理だって。あの人、歌わないことで有名なんだぞ。あんなにいい声なのに…」
「音痴でもないですよね?」
「ありえない。絶体音感保持者だよ」
「でも、このままじゃどうにもならないでしょう。うちみたいな小さなところまで来ちゃうぐらい困ってるんじゃないんですか?少しぐらい妥協してもらわなきゃ…」
「そうだなあ…だめもとで頼んでみるか」
煮詰まっていた会議室の雰囲気がほんのわずかに緩んだ。誰が言い出すか、横田と社長の戸川が押し問答していたが、結局横田が電話をかけることになったらしい。
「そこを何とか…」という言葉が何度も聞こえてくる。
別にステージに立てなんて言ってません、うちのスタジオでちらっとだけでも…と食い下がっている。がんばれがんばれ…と杏香は心の中で応援をする。正直、あの曲を作った本人がどう歌うのか聞いてみたかった。きっと凄く素敵だろうなあ…と。
「ありがとうございます!」
横田が携帯を持ったまま深く頭を下げた。
よかった…了解してくれたんだ…と安心して、コーヒーカップを引こうとした杏香のところに電話を切った横田が飛んできた。
「いやー、言ってみるもんだねえ!渋々だったけど、万策尽きたのはお互い様だったらしくて、今からこっちに来て歌ってくれるって!」
「うわあ!よかったですねえ!」
「助かったよ。良いアイデアをありがとう」
アイデアと言うほどのことはない。新しい曲をプロモーションするときはまずそれを聴くのが当然なのに…。神崎怜司があまりに大物すぎてそれを忘れてしまったのだろうか。
「伊沢さん、早速スタジオ押さえて準備してくれる?三十分ぐらいで来るってさ」
「わかりました~っていっても2スタしかあいてませんけど?」
「えー…あそこかあ…」
横田が眉をひそめたのは、その第二スタジオ、通称2スタは今ほとんど空っぽの状態になっているからだ。
もともとはちゃんとした設備があるのだが、ロケのためにほとんどの資材を持ち出している。残っているのは移動不能のグランドピアノぐらいである。
「まあ、しょうがないか。録音するわけじゃないし、ピアノさえあれば事足りる」
自分を納得させるように横田は言った。杏香は、むしろあの曲はピアノしかない方がずっといいと思う。キーボードの電子音は似合わない。
「じゃあ、エアコン入れてちょっと掃除しておきますね」
「よろしく」
2スタの準備は十五分で整った。もともと何もないに近い部屋である。準備しようにも出来ることがない。それなのに、神崎怜司が現れたのは一時間もしてからだった。