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再会

 それから十年の歳月が流れた。

 長引く不況の煽りを受けて、当初最低五年といわれた父親のドイツ勤務は二年で終わり、帰国子女枠で日本の大学に滑り込んだあと、無事四年で卒業し小さなプロモーション会社に職を得た。

 戸川企画という小さいけれど質のいい仕事をする会社で、杏香が就職した頃から少しずつ成長し、今では結構名の通った会社になっている。

 杏香自身は直接その制作に関係するような部門ではなく、何でも屋の事務員ではあったが、会社がプロモートした商品が世に出て行く過程をつぶさに見ることが出来るその仕事をとても気に入っていた。

 ちょっとした仕事の合間に、今度売り出す新人歌手は結構いい線行きそう…とか、この商品は多分売れないなあ…とか予測を立てるのが面白かったし、プロモーションビデオを作るために会社に出入りするアーティストをどきどきしながら見るのも楽しかった。


「ねえ、知ってる?今、応接室にいるの神崎怜司だよ!」

 そう言いながら、同僚の山下絵美が飛び込んできたのは、五月も終わろうとしているある金曜日のことだった。来客にお茶を出しに行ったら、それが神崎怜司だったという。

 神崎怜司と言えば、この世界では有名な作曲家で詞も時々書く。彼が書いた曲はほぼ100%と言われる確率でランキング一位に入り、しかも数週間にわたって上位から落ちないヒットとなる。

 日本中、いや世界中の歌手が彼の曲を欲しがっていると言う噂だ。更に、彼自身のビジュアルがとんでもなく高品質かつ歌唱力も素晴らしいと聞いている。

 それなのに自分がステージでその曲を歌うことはない。

「もったいないよねー。自分で歌ってCD出せば儲けは倍以上でしょうに…」

 と関係者は皆言うのだが、本人は頑なにステージに上ろうとしないそうだ。

 そんな大物が、うちみたいな小さい会社に何しに来たんだろう…杏香は不思議に思う。

 もっと大きなプロモーション会社はいくらでもあるだろうに…。

「うちの会社、そんな大物の仕事したことあったっけ?」

「ないない。だからもう大騒ぎよ。社長とか浮き足立っちゃって」

 そりゃそうだよね…。彼をうちでプロモーションできるとしたら、軽く年商を超えてしまうような数字が出るだろう。

「で、どんな仕事なの?DVDとか?」

「それがね、ちょっと変わった依頼らしいの…」


 神崎怜司は一枚の楽譜を持ち込んできたという。

 もちろん、彼のオリジナルかつ未発表の曲で、彼の依頼はこの曲を歌えるアーティストを捜してCDを作って欲しいということだった。

 今まで何年も自分も探し、何軒ものプロモーション会社にもあたってみたのだが、彼のイメージに合うアーティストが見つからず、とうとう杏香の会社のような小さなところまで降りてきた。いわばローラー作戦状態らしい。

「そんなに何年もやってたのに誰も聞いたことないって珍しくない?」

 と杏香は当然の疑問を口にする。

「曲についてはもちろん箝口令よ。もしもこの曲のことが外に漏れたら二度とお宅の会社とは仕事しない、とか言ってるらしいわ。神崎怜司にそんなこと言われて破れる会社なんてないわよ。だから、それぞれの会社のほんの数名ずつが知っているだけ。しかも、その数名は決してその曲を外に出さないの。でも、ものすごく良い曲だって噂は飛びまくってて、あの曲を歌えたらそれだけでレコ大取れるって」

「へえーそんなに凄いんだ。発売されるのが楽しみだね」

「うーん…でも難しいかもね。」

「なんで?」

「凄く要求水準が高いみたい。有名歌手が何人も断られてるんだよ。いったいどんなアーティストならいいんだ!ってみんなが頭を抱えてる。神崎怜司本人もイメージできてないんじゃないかって噂があるぐらい」

「逆でしょ。イメージが固まりすぎてるから見つからないんでしょ」

「そうか…そっちの方が正解かも」

「ま、いずれにしてもあんまり実現性はなさそうだね」

「だよねー」

 そして杏香は目下作成中の新人歌手DVDの予算書に目を戻し、山下絵美もひとしきり済んだ噂話に満足したらしく、自分の机に戻っていった。


 杏香はしばらく予算書をチェックした後、銀行にいく用事があったことを思い出してあわてて席を立った。

 もう二時をすぎている、急がなければ…と、上着をとって部屋の外に出たところで、横田弘道に出くわした。制作課の課長で、二十七才と年はまだ若いが、いわばこの会社のブレインという男である。

「あ、伊沢さん、急いでる?」

 もちろん、急いではいるが、この会社の生計を担っている横田に呼び止められて、スルーできるわけがない。

「いえ、大丈夫です。なんですか?」

「悪いんだけど、この楽譜三枚コピーして社外秘印押してくれる?俺がやるべきなんだけど急ぎで電話一本かけたいんだ」

「わかりました」

「伊沢さんなら大丈夫だと思うけど極秘楽譜だから、ミスとかしないでね。で、あんまり凝視もしないで」

 ああ、じゃあこれが例の…と思いながら楽譜を受け取る。

 そんな重大な仕事を私なんかに振らないで…と思ったが、よく考えればただのコピーである。苦笑しながら楽譜をコピー機に挟んだ。なるべく見ないようにしていたが、目を逸らして押印は出来ず、嫌でも目に入ってくる。

「あれ…」

 最初の一フレーズですぐわかった。十年前に拾った楽譜だった。

 きれいに清書されてはいたが、少し傾く音符の書き方にも見覚えがある。転校する日に音楽室で杏香が歌ったあの曲に間違いない。

 じゃあ…あの曲を作ったのは神崎怜司だったのか…どおりで。

 人の心の隙間に染み込んでくるような曲想は、今にして思えば、確かに世に沢山出ている彼の作品に違いなかった。今でも時々口ずさみたくなるあの曲は、間違いなく彼の手による物だ。

「そうかあ…なんかちょっと嬉しいかも」

 と、杏香は一人ほくそ笑む。

 社外秘という印に封じ込められたこのきれいな曲、私は歌ったことがあるんだよ…しかも十年も前に。誰にも言えない素敵な秘密。そしてとっさに曲を確かめて、あのとき歌ったままの楽譜だということを知る。耳に引っかかって杏香が変えてしまった部分が正確に反映されている。

 ぱくりじゃん…とか思っていいのかな?というか、聞いてたの?!なんて更に深い笑みになる。本当に一人だったらくすくす笑い出してしまっただろう。

 けれど、横田がそばで電話をかけながら目は杏香をしっかり見ている。必死で笑いをかみ殺してコピーと元楽譜を彼に返す。横田はなおも電話で話しながら応接室に戻っていった。


「同じ高校だったんだ…」


 そういえば神崎怜司と自分は確か二つ違い。杏香が一年生の時なら三年生として在学していたのだろう。

 ほんの数ヶ月しか在学しなかった学校だし、卒業もしていないので、その後同窓生と連絡を取ることもなかったせいか、全く知らなかった。噂で上級生に凄くかっこよくて歌のうまい男子生徒が居ると聞いたことがあったが、あれはもしかしたら神崎怜司のことだったのだろうか…。


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