暫しの別れ
「まあまあおふたりさん。とりあえず今日はお疲れさまでした」
横田が二人真ん中に分け入って肩に腕を回す。
「打ち上げがてら、温泉にでもゆっくり浸かりましょうよ」
その腕を振り払って杏香は横田から離れた。
「私は帰ります。子どもたち待ってるし」
「だめですよ。これからの打ち合わせもあるし」
横田が首を振る。
「まだやるって決まったわけじゃない」
「やるにきまってるだろう。それも相当急がないと間に合わないぐらいだぞ。それに…」
と神崎怜司は五ヶ月ぶりに会った伊沢杏香を見回した。同じく横田も…。そして二人は声を合わせる。
「もう絶対に目を離さない!」
今度消えられたら大変なことになる。
やるといったツアーが出来なかったら暴動が起きる。
「心配しなくてもツアーはやります。みんなに約束したもの」
「まあ、それを抜きにしても、今帰ったら、空色の屋根はマスコミ取り巻かれて子どもたちの生活が大混乱になるぞ。やっと落ち着いたばかりの子どももいるんだろう?しばらく時間をおいた方がいい」
そう言われればその通りだった。杏香さん、と呼んで慕ってくれた子どもたち。毎晩一緒に問題を解いた愛理と紀一は、もう一月もしないうちに受験本番だ。マスコミが押しかけたら煩くて追い込みどころじゃない。
「杏香さん…」
その愛理と紀一がスタッフ準備室のドアをそっと開けて覗いた。杏香と呼んでいいのか、声をかけて良いのかすら迷っている様子で…。
「おいで」
杏香が手招きで呼ぶと、二人はほっとしたように部屋に入ってきた。
「ごめんね、騒がしくしちゃって…」
と杏香はまず詫びた。嘘をついていたわけではない。でも、二人の気持ちを思うと詫びる以外に出来ることがなかった。
「そんな…ぜんぜんだよ。あんなに凄い人だったのに、毎晩勉強手伝ってもらって…」
「こっちこそ、ごめんね。黙ってて」
と二人とも恐縮しきっている。ああもう、この子達と自分の距離は二度と近づかないのだろうか…と寂しくなる。
二人だけでなく他の子どもたちも…。『空色の屋根』での暮らしは穏やかで楽しかった。 体力的にきついこともあったし、好きなピアノを自由に弾いたり歌ったりが出来ない環境も辛かった。でもそれは半分以上自分のせいだ。自分を慕って抱きついてくる子どもたちの体温は杏香にとって至宝だったのに…。
「しばらく落ち着くまで帰れないけど…」
「え…?」
「杏香さん、また帰ってきてくれるの?!」
そっちかい…と苦笑する。私はあそこに帰っちゃいけない人間なんだろうか…。
「私が帰らなかったら、誰があんた達の勉強見るのよ。知恵さんとか園長は今でもさじ投げてるのに」
「ですよねーって、そろそろ追い込みかけなきゃね」
と愛理がやっと笑っていった。
「俺は大丈夫だよ、ひよこ、ちゃんと鶏になってるもん。愛理はまだ尻に卵くっつけてるけど」
何の話だ?と聞いてみれば学校で受けた模試の話だった。合格可能性によって卵から鶏までランクがあるらしく、ひよこに卵状態はかなり危ないという。優秀な愛理であっても上のランクを目指せばそういう事態はままあるのだろう。
「愛理~頼むから頑張ってよ。いくらチャリティーやってお金作っても、合格しなきゃ入学できないんだからね!」
高校学費無償化政策によって学費は無料になるが、入学金やら教材費、制服代…その他諸々,お金は沢山掛かる。それらはどんな手段ででも稼ぎ出す、杏香にその決意はあるし、それが大人の責任だとも思う。だが、その前提は子ども本人の努力だ。
「えへへ…わかった。がんばる!」
「言葉だけじゃなくてね!紀一、愛理の英語見てやってよ。あんたは英語出来るし。そのかわり愛理は紀一の理科を見る。私が戻るまで何とかそれでやってて」
「了解です!」
と二人は最敬礼した。本当にかわいい子どもたち…頑張れ受験生である。そんなやりとりを神崎怜司は珍しそうに見ている。
何見てんだよ!と足を蹴飛ばしたくなったが、子どもたちにとってこの男は神だったと思い出してやめにする。そうだ…。
「二人とも、スタッフTシャツもらったよね?」
イベント用に作られたスカイブルーのTシャツは子どもたちももらったはずだ。
「うん、もらった」
と斜めがけにしていた鞄の中から少ししわになったそれを取り出す。
「神崎さん、サインしてやってよ」
「えーーーーーーーーー!!」
嬌声を上げる愛理。紀一は目を白黒させている。
「おう。なんて書く?」
「うーん…『絶対合格』?」
「どこの受験塾だよ。でもまあいいか」
そういうと、神崎はサインペンでさらさらと二人のTシャツにサインをした。丁寧にそれぞれの名前まで入れて…。
「ありがとうございます!!」
握手までしてもらって震えている二人。本当にかわいい…。
「お前も名前入れてやれよ」
「わたしはいいよね?」
「えー杏香さんもお願い!」
「サインなんてしたこと無いんだけど…」
といいながら、神崎のサインの隣に楷書で行方史枝と書く。
「今現在で、行方史枝のサインもっているの世界中で君たちだけだぜ」
と神崎に言われて紀一がこらえきれず小躍りする。
「超プレミアだー!」
苦笑しながら杏香が言った。
「ま、それを見ながら頑張ってください」
「らじゃー!!」
再び最敬礼で、二人は帰っていった。これからまた勉強をするのだろう。あの努力がどうか実を結びますように…。