海の翳り
なんて卑怯なんだ…。
神崎怜司はまたしてもこんな汚い手を使った。こんなシチュエーションで、ツアーを拒否したら私はどんな鬼畜だ。
全国ツアーをやれば収益は恐ろしいほどの額になる。その収益全てを、東北のために差し出すという。杏香が参加しなければその収益は発生しないのだ。
「復帰しろ」とただ言うだけでは、絶対に戻るはずがないとわかっている。だからこそこんなやり方をしたのだろう。神崎に東北や子どもたちを思う気持ちがないとまでは言わない。 彼にしてみても、ツアーの収益を全て失うのは痛手だ。それでも、そんな自分にも痛い釣り餌を使ってでも杏香を呼び戻そうするなんて…。
コールが止まない。それどころかどんどん大きくなる。数台しか入っていなかったはずなのに、いつの間にかカメラの台数が増えている。
「中央局のカメラがはいったみたいだ」
甲斐が更に興奮している。多分、コンサートの途中で神崎が情報を流したのだろう。さもなくば、福島の小さなチャリティーコンサート会場に、しかも大晦日に、こんなに沢山の報道カメラが入ってくるはずがない。廻るカメラ、続くコール…どこにもない逃げ場。
「もういいだろう?」
紛れもなく自分に向けて、神崎怜司が言った。もういいだろう、とコールを切る下げ口調ではなく、問いかけるような上げ口調に観客は疑問を感じコールを止める。
神崎がさっきまで杏香が弾いていたピアノに歩み寄った。その先にいる杏香は、いまだステージ裏で、観客からその姿は見えない。杏香にマイクを投げると、神崎はピアノの前に座った。傍目からは、邪魔になったマイクを裏のスタッフに渡したようにしか見えない。
何故杏香に向けてマイクを投げたのか解らないスタッフ達は、とりあえずマイクを回収しようと杏香に手を伸ばす。その時、神崎がピアノを弾きはじめた。
『海の翳り』だった。
受け取ろうとのばされたスタッフの手を拒み、杏香はマイクを握りしめた。意を決して、ステージに向けて足を踏み出す。杏香の決心を待つように続いていた前奏が終わり、ジーンズにフリースの歌姫が歌い始めた。
マイクを持って出てきたのが、さっきまで伴奏を引き受けていた女性だと気付いた観客はどのぐらいいただろう。ステージに立つにはあまりにふさわしくない衣装のこの女性が、いったい何をしに来たのか、と首をかしげた人の方が遙かに多かったに違いない。でもその疑問は、彼女が第一声を発した瞬間に霧散した。
「行方史枝だ…!!」
全国民が覚えるほどに聞いたと言われる『海の翳り』を歌っていた。
一度でいいから、生で聞いてみたいという願いが、この福島で叶えられた。報道カメラの全てのランプが灯り杏香の姿を追う。声しか聞いたことがなかった行方史枝の歌う姿。
たとえ着ているものが 大量生産のリアルクローズであっても、彼女自身が発する光を覆い隠せるものではなく、それは会場の隅々まで照らす。神崎怜司を伴奏者という脇役に追い込んで歌うにふさわしい輝きだった。
機材スタッフが大急ぎで神崎のところにボーカルマイクを設置に走っていった。歌いながらその姿を目の端に捉えていた杏香は、『海の翳り』を歌い終えた後、ピアノに歩み寄り神崎と入れ替わる。
マイクの位置少し調節して、神崎と目で合図を交わした後、アップテンポのデュエット曲を歌い始めた。前奏なしで入る曲なのに、打ち合わせなど何もしていないのに、歌い始めが寸分もずれることなど無かった。完璧なデュオに観客は酔いしれた。
ステージの一番隅に置かれたピアノを弾く伊沢杏香。そしてその横に張り付くように立つ神崎怜司。二人の声はぴったりと重なり、拡がり、やがて、消えた。
「今日はご来場ありがとうございました。会場のあちこちに募金箱が設置してあります。F放送でも募金を受け付けております。どうぞよろしくお願いいたします。」
いつまでも歌っていて欲しかったが会場の関係でそうもいかない。凄まじいブーイングに包まれながら司会者が閉会を告げた。そのマイクを杏香が奪った。
「募金数が、一万口を超えたらツアーに参加します。募金箱にお金を入れてくれた人は隣にあるメモ用紙に正の字チェックを入れてください。ひとりが沢山のお金を下さることも大事ですが、沢山の人が少しずつ支援してくださることも大切なんです。沢山の人が自分たちを支えてくれると子どもたちに感じさせてやって欲しいのです。十円でも一円でもいい。子どもたちに暖かい気持ちをわけてやってください」
そして杏香は、ポケットから百円玉を取り出して、ステージの横に置かれていた募金箱に入れた。横にあったメモ用紙に、大きな正の字の一番上の横線を引いて…。
その様子をカメラがアップで映し出した。続いて司会者が財布を開けて千円札を入れる。正の字の縦線が足される。さらに、神崎怜司が一万円札を入れようとして杏香に叩かれた。
「後の人が入れづらいでしょ!!」
あの神崎怜司を後ろから叩いた…しかも叱ってるし…と周囲は唖然とする。
更に神崎が素直に五千円札と入れ替えたものだから、もう開いた口がふさがらない。一瞬にして神崎怜司と行方史枝の力関係が暴露される。
行方史枝最強。会場は笑いに包まれ、正の字はどんどん増えていく。メモ用紙が足りなくなって追加される。あっちでもこっちでも…。
「すごーい…入場者数より多くなっちゃった…」
「さてはずるしたのがいるなー。」
「募金箱はしごした人一杯いたみたい。」
「まあ、それだけツアーを熱望してるってことだな」
「だろうね」
スタッフは一杯になった募金箱とメモ用紙を眺めながら大満足のほほえみだった。
放送局からの連絡では、放送直後からネットバンキングによる振り込みが凄い勢いで増えているらしい。昔なら年末年始の銀行休業期間で、振り込みなど出来なかっただろうに、今はなんと便利なことだろう。
「この勢いだと、数日で一万件突破するよ」
と甲斐がこれ以上にないといった良い笑顔で告げた。杏香がうんざりしたように答える。
「えー…絶対行かないと思ったのに…」
千や二千ならすぐだろう。でも一万なら…と。神崎怜司が笑う。
「お前ね。自分の商品価値がどれだけあるか全然解ってないな。」
いつ『君』から『お前』扱いになったんだよ、と唇をとがらせる杏香。
横田も重ねる。
「そうそう、それに観客だって解ってますよ。そもそも行方史枝はツアーなんてやりたくない。それを子どもたちのために曲げて参加する。だから、もしかしたらツアーが終わったらまた活動を止めるかもしれない。千載一遇のチャンスだって」
横田さんの口調は『ですます調』になってるし…なぜなんだ…と杏香は脱力する。
「読まれまくってるってことですね…」
「やっぱりそういうつもりだったのか」
憮然として言う神崎。当たり前だろう、人を巻き込みやがって、と睨み返す杏香。ステージの上ではあんなに息を合わせて歌えるのに、降りた途端この対立姿勢はどうしたものか、とスタッフ達はおろおろする。
平気なのは二人の侃々諤々になれている横田のみだった。