ロックオン再び
「只今から、東日本大震災、震災孤児支援チャリティーコンサートを開催いたします」
その声は、「空色の屋根」の子どもたちのものだった。司会者に呼ばれて、みんながステージに上がり声を揃えて…。普段のやんちゃ坊主達が、緊張でがちがちな姿はある意味とてもほほえましい。
笑ってる場合じゃないんだけど…と思いながらも杏香は笑みを絶やせなかった。
全部で一時間半に満たないコンサートである。早速一曲目が始まった。伴奏をしながらも杏香の顔から笑みは消えない。久しぶりに弾くグランドピアノの感触に指が喜んでいた。
その笑みが消えたのは神崎玲司がステージに上がったときだった。開会宣言、一曲目の披露、その後すべての出演者がステージに上り紹介される、という段取りで、派手な衣装の演歌歌手が歌い終えたあと、ピアノが置いてあるのと反対側の袖から彼は登場した。一気に会場が沸く。
「ばれてる…かも…」
そうとしか思えない視線が飛んできた。本来、ステージの反対側にいるピアノ奏者など絶対に気にしない男なのに…。
司会者による紹介が始まっていた。
どの出演者も、震災でなくなった方々への慰霊と被災者への激励の言葉を添える。東北縁のアーティストの言葉はみな暖かく、観客を力づける。神崎怜司は例によって、言葉もなく一礼しただけだったが、紹介と挨拶は恙なく終わり、また演奏が始まった。
一時間少しの間、杏香は舞台の袖近くで演奏を続けた。六曲を弾き終わり、神崎怜司を残すのみ。これで杏香の仕事は終わった。そっとステージから幕裏へとさがる。
反対側から神崎怜司が登場した。割れるような拍手と歓声で場内が湧いた。観客の騒ぎが収まるのを待って歌い出したのは「碧い大地」。津波と地震で土色に荒れ果てた東北の地が、放射能にあえぐ福島が、早く復興し、碧い大地となるように…との祈りが込められる。
この福島という地に、このときに、これ以上ふさわしい曲はなかった。歌い終わった神崎怜司は、通常ならそのまま言葉もなくステージを降りる。だが今日は、そうしなかった。彼はそのまま、観客に向かって話し始めた。
「神崎怜司です。この震災の乗り越えてこの場にいるみんな。君たちの命が選ばれた命だと言うことをまず自覚してください。選ばれて生きることを誇りに思ってほしい。家族を亡くしてなお、生きることを求められたことには、きっと意味があります。だから、あらゆる苦難に立ち向かってください。越えられると判断され生かされた君たちです。きっと大丈夫。俺に出来ることは、ほんの一部だけれど、それでも大人として精一杯君たちを支える。だから、頑張ろう」
良い挨拶だ…そして杏香にとってとても無難だ。そう思いかけたその時、神崎はステージ袖にいるだろう杏香を一瞬振り向き、唇だけで告げた。
「悪く思うな」
また…だ。
杏香はステージの影で固まった。前回同じ言葉を耳にした後、杏香は二ヶ月のレコーディングに引きずり込まれた。今度はいったい何をする気だ神崎怜司!と思うまもなく、彼はマイクを握り直し、話し始めた。
「条件が整えば、チャリティーツアーを開始します。各地方の主要都市を廻って、震災孤児支援基金のための寄付を募るツアーです。札幌、仙台、金沢、名古屋、大阪、香川、福岡、沖縄…全国を回ります。」
会場が水を打ったように静まった。神崎怜司の全国ツアー…それだけでも凄いことなのにそれが全てチャリティーだなんて…。ピアノのすぐ脇のステージ裏にいた甲斐がごくりとつばを飲む音が聞こえる。司会者が気を取り直したように質問する。
「これは爆弾発表ですね!で、条件って何でしょうか?」
「行方史枝の参加です」
杏香の血の気が一気に引いた。司会者も一瞬言葉に詰まる。
「そ…それは難しいんじゃないですか?彼女に活動する意志はあるんでしょうか?」
「俺も心配していました。でも、もしかしたら君たちのためなら協力してくれるかもしれない。君たちの未来のためなら…」
やはり神崎は杏香がこの場にいることを知っている。ピアニストのアクシデントについてはもう聞いているだろう。いたたまれず急場を引き受けた杏香。自分との接点になるに決まっているこのコンサートから逃げることも出来たのに、やり過ごすことも出来たのに、それよりも子どもたちの未来を取った。その気持ちに、彼は付けいる隙を見つけた。
「行方史枝。東北の復興のために、ここにいる子どもたちが望む未来のために、どうか俺と一緒にツアーを」
そして、会場中で行方史枝コールが始まった。観客はまさか会場内に杏香がいるとは思っていない。ただ、放送を通じて、杏香の耳に入ればいいと、彼女の気持ちを何とか動かしたいという思いが、声になって溢れ出た。
「史枝!史枝!史枝!!!」
終わることなくコールが続く。止めどころがなく、どうして良いのか解らない司会者。ステージ中央では神崎がコールをじっと聞いている。舞台裏でスタッフたちが固唾をのんだ。