留守番電話
納得できない…。
神崎怜司はまたしても九割九分でしかない仕上がりに喘いでいた。
ヒットチャートが落ち始める前に次の曲を出すことはある意味戦術として正しい。他の歌手への提供曲であれば迷いもなくそうする。
それでも『海の翳り』が消えていくことが寂しかった。消えるのではない、あの曲は消えたりしない、と何とか自分に言い聞かせ新曲を書いてみたものの、その仕上がりは『海の翳り』に遠く及ばない。自分がソロを書くときにどうしても出てしまう違和感を今回も防ぎきれなかった。その違和感に阻まれてレコーディングが出来ずにいる『碧い大地』を見切り発車のように生出演の深夜番組で歌うことになってしまった。
ゴールデンよりはましだと思う。それでも、発売見込みのない曲を世間に晒すことの無意味さを思うと底知れず落ち込む。
番組終了後、局には発売時期を問う電話が殺到したらしい。『決まってない』『解らない』と繰り返すことしか出来ずに、逃げるように局を出た。
いったい俺はどうなってしまうのだろう…。移動車の中で神崎怜司は窓の外を流れる夜の闇に飲み込まれそうになる。携帯電話の着信ランプが点灯していることに気付いたのはその時だった。そういえばオンエアの後、携帯をチェックするのを忘れていた…と操作パネルを見ると伝言が一件ある。
履歴を見ても番号が出ていない。非通知なら無視でもいいか…と思ったが伝言だけでも聞いておこう、と再生してみた。
「新曲聞きました。で、十九小節目のラの音を…」
と流れてきたのは、夢にまで見た歌姫の声だった。
「伊沢杏香…!!」
当たり前のように、三カ所の違和感を指摘する声。そしてその違和感を取っ払うための違う音が吹き込まれている。
まるであのレコーディングの時と同じように、なんでもないことようにあっさりと。録音時刻を見ると、番組終了直後、二十分とすぎていない。
またしても彼女はほんの一瞬で神崎怜司の曲を直してしまった。はやる気持ちを抑えて自分のマンションに戻る。防音室に駆け込み、彼女の置き換えた音の通りにピアノを弾いてみた。
「完璧だ…」
何故気付かなかったのか不思議になる。音の選択肢など数種類しかないのに。いつもいつも指摘されて初めてそんな音の入れ方があるのだと知らされる。
だがそれは彼女、伊沢杏香だからこそ選び取れる音だった。無情にも非通知でかけてこられた電話。しかも留守番電話である。自分がその電話を取れなかったことも悔しい。
でも、冷静に考えれば、自分が出ていたら彼女は声すら出さずに切ったのだろう。伝言を残してくれただけありがたいと思うべきだった。
すぐにレコーディングに入った。今回はシングルCD、しかも制作会社は神崎のGoサインを待ちわびている状態だったために、一週間で完了し半月後には発売となった。
『海の翳り』のように初動一位になるほどではなかったけれど、『碧い大地』は最速でオリコントップに躍り出る。移り気な視聴者は、どれだけ捜しても見つからない行方史枝を忘れつつあった。行方史枝がいなくても神崎怜司は目の前にいる。それで十分だった。
「これで四週連続トップだ!」
戸川が小躍りしている。神崎は『海の翳り』だけではなく、全てのレーベルを戸川企画から出すと決めた。大手がいくら説得しても首を縦に振ることはなかった。いつか必ず伊沢杏香を見つける。そしてまた彼女と歌う。誰が彼女を忘れても俺は絶対に諦めない。だからこそ、彼女を知るこの会社との関係を続けなければならなかった。
「手がかりは全然?」
もう何百回繰り返されたか解らない問いかけがまた横田の口をつく。渋っていたレコーディングがいきなり進んだ理由を聞かされて、連絡が来たと喜んだのもつかの間、それが留守電に吹き込まれた非通知の伝言だったと知った横田の落ち込みもまた激しかった。
「あの番組が放送された範囲のどこかにいるはずだ…。」
全国放送ではなかった。深夜枠の三十分番組。放送されたのは、首都圏と中部地方、それから東北と北海道の一部のみである。
「それにしたって広いよな…」
戸川は日本地図を睨みながら言う。
「でもまあ、日本の半分は除外できますよ。」
あくまでも前向きになろうと必死な横田が、九州四国と関西以西の本州に大きく×をつけた。移動されてしまえばそんな×に意味などないとわかっていながら…。