碧い大地
夜九時。小さな子どもたちは寝静まる。代わりに杏香のところにやってくるのは中学生組だ。
空色の屋根には育英金や奨学金をもらってなんとか高校進学を目指す受験生が二人いる。
田代愛理と根本紀一。共に努力家で優秀だが、さすがに独学では解ききれぬ問題があるらしく、施設の中で一番若くて学生時代が近い杏香に助けを求めに来る。
「この英文、訳がうまくいかないの」
と、愛理が嘆けば、
「それよりも、こっちの食塩水の濃度の方が…」
と、紀一も愚痴る。
昼は遊戯室、夜は学習室として解放されている部屋で杏香は二人の真ん中に陣取って代わる代わる問題を見る。勉強は嫌いじゃなかった。学生時代もそれなりの成績を収めている。 教えることも下手でも嫌いでもない。音楽が必須でなければ教職を取ることも考えたかもしれない。そこでも引っかかる問題は同じだった。
「さて、今日はこのぐらいにしとこうか。もう十一時だし…」
「本当だ…いつの間にこんなに…。杏香さんと一緒にやってるとすぐに時間が経っちゃうね。教えるの上手だからすごくよくわかるし。」
「変な塾よりずっといいよ。ここに来てくれてほんとにありがとう」
ここの子どもたちはどうしてこんなにまっすぐな子どもばかりなんだろう…。
空色の屋根に来たばかりの頃はよく思った。本来ならば反抗期、中二病…その他あれこれ抱え込んで疾風怒濤の時期のはずなのに…。
そしてすぐに悟った。そんな甘えを許される環境ではないのだ。自分を壊すほどにぶつけたい甘えを、ひたすらに押さえ込んで、彼らは一日も早く成長しようと躍起になっている。 保護してくれる大人の存在が希薄な彼らは自分が早く大人になることで何とか生き抜いていくしかない。更に言えば、反抗的な態度で唯一与えられている保護を失うわけにもいかない。生きる場がここ以外にないのに、あまりにももろい足場をちゃんと解っている。『良い子』でいることだけが楽に生きる道なのだと…。
もっと甘えていいよ、もっとぶつかっていいよ、と言ってやりたくても、いつまでここにいられるかも解らない杏香がそれを言うわけにはいかない。
信じられない大人を一人増やすだけのことになる。それならば、せめて学習の手助けだけでもしてやろう。それが杏香に出来る精一杯だから…。
「杏香さん、ちょっとだけテレビ見せてもらっちゃ駄目…?」
愛理が両手をあわせて拝みながら言う。時計を見るともう十一時を回っていて、受験生だからと緩和されている消灯時間すらも過ぎていた。
「でも、明日も学校でしょ?」
「お願い!十一時二十分からの番組に神崎怜司が出るの。生出演久しぶりだからクラスのみんなが見るって…私もみたい…」
「え…まじ?俺もみたい!ねえ杏香さん!お願いお願いお願い!!」
二人が珍しく意見を合わせてねだる。よりにもよって、神崎怜司か…と杏香はため息を漏らす。
「わかった。本当は駄目だけど、今日は特別!」
「やったーーー!」
飛び上がって喜ぶ二人をつれて、杏香は自分に与えられている部屋に行った。就寝時間後テレビが見られるのは住み込みの職員の部屋だけである。四畳半の狭い部屋に十四インチの小さなテレビが置いてある。テレビをつければどこかで神崎怜司を見ることになるので滅多につけることはなかったが…。
「あ、ちょうど始まるところだよ。間にあったあ…。」
二人は何故かテレビの前で正座している。本当に面白いなあ中学生は…と後ろから見ている杏香はおかしくなる。
「今日は人気沸騰中の神崎怜司さんにお越し頂きました!神崎さんお忙しいところありがとうございます!」
MCがテンションの高い声でさえずっている。彼はJ系グループの一員で自分もアイドルのはずなのに、神崎怜司の前でまるで上がりきったような様相である。
まあ、無理もないか…あの人のオーラは凄いからなあ…と杏香は常道を逸したようなMCに同情する。最後に会ってから三ヶ月、久しぶりに見る動く神崎怜司の姿は、さすがに目に染みるような鮮烈さだった。
「かっこいいよなー神崎怜司!」
愛理が言うなら解らないでもないが、その言葉を漏らしたのは紀一の方だった。
「へえ。紀一君、男なのにあのおじさん歌手がかっこいいんだ?」
「うわーなんて酷い言いぐさ。神崎怜司は誰から見ても神だよ!あの人がかっこよく見えなかったら目がおかしいって」
「そうそう、いくら杏香さんが芸能界に興味なくても神崎怜司ぐらい見ておかないと時代に置き去りにされちゃうわよ!」
さっきまでしっぽを振らんばかりに杏香にまとわりついて勉強を見てもらっていたくせにこの子達、なんて言いぐさ…だった。
「そういうもんですかね。それは失礼しました!」
そして、相変わらず黒を基調とした地味なスーツのくせに目映いばかりの光を発している神崎の姿に目を戻す。
ちょっと痩せたかも…と思うほどその姿を記憶している自分が悔しい。
「今日はアルバムリリース以来初めての新曲を披露して頂けるそうですね!」
そういった途端に、スタジオに詰めかけていたらしいファンの黄色い声が爆発した。もちろんテレビの前の愛理と紀一も…。
「ねえ新曲だって!!すごいすごい!!!」
とハイタッチで喜んでいる。これはありがたい…と杏香もハイタッチに参戦した。さっさと沢山作って、次のアルバムを出せ!である。
神崎怜司はテレビに出演したところでMCと馴れ合ったりはしない。ただ紹介されて、歌うだけだ。普通ならするだろう新曲紹介さえも彼はしない。ただただ歌うだけ…。彼らしいといえばあまりにらしい。
今日も、紹介はMCに任せ、そのままセットに入ってスタンバイした。
「それではお聞き下さい。神崎怜司新曲『碧い大地』です。」
強い曲想だ…それが第一印象だった。いかにも神崎らしい強さ。
彼自身の声質を一番把握している人間が書いたのだから当たり前だろう。まだレコーディングもされていない、この番組で初めて披露されるとMCが紹介していたから、出来上がったばかりなのかもしれない。
一人の歌手がノーカットで歌い切ることなど珍しい深夜の歌番組で、神崎怜司はフルコーラスの時間を与えられた。
いわゆる『数字を持つ』男だけあっては当然のことかもしれない。だが、そのお陰で杏香は気付きたくもないその曲のあらをまた見つけてしまう。
あー…もう、あの人本当にソロ作るの下手だわ…と心の中で呟く。もちろん、下手なはずはない。下手といってはあんまりだとはわかっている。当然それは当社比の話で、デュオに比べて若干見劣りがする、というだけのことである。それでも杏香に言わせれば下手は下手、なのだ。
耳が捉えてしまった引っかかりが三カ所あった。あのままレコーディングしても別に支障はない。恐らくまたミリオンセラーになるだろう。現にスタジオの観客も、テレビの前の二人も、うっとりと神崎の歌声に聞き惚れている。それでも、あの三カ所を直せばもっと聞きやすくなる。誰か教えてやればいいのに…。
歌い終えた神崎怜司をカメラが追う。にこりともしない歌手にMCの緊張は更に高まる。
わかってるんだな…と杏香は思う。あちこちからの要望を押さえきれなくなって、新曲を書いたものの、どこかうまくいっていないことに彼自身は気がついている。
いわば未完成のままに披露することになったが故に、深夜のこの番組を選んだのだろう。出来るだけ視聴者が少ないように…。そんな苦労をしたところで、神崎怜司の生出演とあっては睡眠時間を削ってテレビに張り付く人間ばかりだろう。気の毒なことだ。
そうこうしているうちに番組が終わった。満足した愛理と紀一は、ありがとう、お休みなさい!と部屋に戻っていった。
杏香はさっき聞いた神崎怜司の新曲を頭の中のピアノで何度も弾き直す。どうしても引っかかる三カ所を紙ヤスリで削り、違う音に置き換える。
どうしよう…と迷う。余計なお世話に決まっているけれど…あの不機嫌そうな顔は若干同情に値する。あの不機嫌に付合う周囲も気の毒だ。仕方ない、一度は同じ曲を歌った仲である。袖振り合うも…を選択しよう。
「ただいま電話に出ることが出来ません…」
というメッセージに杏香は小さくガッツポーズを決める。それはそうだろう。さっき生出演を終わったばかりである。その後のあれこれで電話に出られるわけがない。わかっているからコールした神崎怜司の携帯電話。
「新曲聞きました。で、十九小節目のラの音を…」
卑怯にも留守電に吹き込んだ。捜されていることは解っている。だからこそ、非通知で要点だけを短く伝えてすぐ切った。きっと本人が出ていたら無言電話になっていただろう。とりあえず用件を伝えられてよかった。彼が聞き入れるとは限らないけれど…。