行方史枝
「全面拒否か…」
事務所の応接セットに座り込んで、男三人が頭を抱えていた。
そこに杏香の姿はない。歌手として会社と契約したときから事務員の仕事はしていない。だから、レコーディングが終わった今、彼女は会社に来ることもなかった。
あのCDを発売するなら、自分の姿は一切報道に載せない。それが伊沢杏香の申し入れだった。名前はもちろん芸名を使う。プロモーションビデオにも出ない。コンサートなどもってのほか、サイン会も記者会見も全て、やるなら神崎怜司一人でやってくれ、と。
「裏目に出たな…」
神崎が独りごちた。自分の歌う姿を見るまではあそこまで頑なではなかった。いったいどんなことを考えてここまで強硬になっているのだろう。
「ああ…金の卵を産む鵞鳥が逃げていく…」
戸川に至っては泣き出さんばかりである。
歌声だけでも十分に価値はある。でもそこにあのビジュアルを加えたら怖い者なしである。どれだけの利益をもたらすことか…。
それでも、ここで彼女の意向を無視してあのアルバムが出せなくなったり、二度と歌わないと言い出されるよりも、とりあえず条件を飲んで彼女の軟化を待った方が得策だと意見が一致した。
発売されれば、彼女の声が街中にあふれるだろう。その状況を見て、もっと歌いたいと思ってくれるかもしれない。もともと歌もピアノも大好きだと言っていたのだから…。
アルバム『海の翳り』は初動で売り上げランキングを上り詰めた。
あの神崎怜司が『自分で歌った』アルバムである。それだけでも話題を攫う。加えてCFで明かされた彼のルックス。
若手アイドルのそれと異なり、完全に大人の男である神崎怜司の魅力が余すところなく晒されたポスターは貼られる端から盗られた。
アルバム発売日、販売店で行われたサイン会は数時間前から長蛇の列で、店舗周囲が大混乱に陥り警察が出るほどだった。発売されてからの報道はどこも神崎怜司を追い続け、ワイドショーも週刊誌も彼の話題で持ちきりである。そして同時に彼とデュオを組んでいる女性歌手を捜し求める声が日増しに高まる。
アルバム最後に入れられたたった一曲の彼女のソロは、全国に衝撃を与えた。まさに『天上の調べ』と言うべき歌声。さらに神崎怜司と作り上げた神懸かり的なハーモニー。どこの誰なんだ、という問いあわせが戸川企画に殺到していた。
「対応不能です!!」
鳴り続ける電話にスタッフは悲鳴を上げている。電話回線を全て塞がれて、通常業務が成り立たず、事務仕事は私用の携帯電話で行わねばならないぐらいだった。戸川も横田も一日中マスコミに張り付かれ、彼女の所在を探られる。
「どこにいるんです?!行方史枝は!!」
行方史枝。それは杏香が選んだ芸名だった。なめかたふみえ。ずいぶん地味な名前だと笑っていられたのは発売前までで、発売されると共にその名前の意味を知らされた。
「行方史枝は『行方不明』だったのか…」
どんなだじゃれだ…と神崎怜司は笑うしかなかった。
レコーディングが終わって初回プレスを確認した後、伊沢杏香は姿を消した。アパートを引き払い、携帯電話も解約して、文字通りの行方不明、完全失踪であった。
十年間探し求め、やっと見つけた歌姫は、たった一枚のアルバムを残しただけでまた逃げ出した。とてもじゃないが承服できない。だが、あまりの忙しさに彼女を捜すことすら出来なかった。
「まだ見つからないのか」
会社では戸川が探偵を締め上げている。杏香を探すために何人もの私立探偵を雇った。だが、彼女の所在はようとしてしれず、時だけが過ぎていった。
発売して三ヶ月、チャートの順位は一向に下がらない。マスコミ出演もコンサートもライブもない。神崎怜司自体は時折姿を見せることもあったが、彼一人で歌える曲はソロの三曲のみ。彼が画面に出るだけで視聴率は鰻登りだったが、視聴者は行方史枝の声を求める。アルバムの売れ行きは止らない…。
杏香が見つかったところで、彼女がまた歌うかどうかは定かではない。けれど、とにかく交渉だけでもしたかった。その思いが横田と戸川を焦らせる。
そして神崎怜司は、全く違う次元で杏香を求めていた。今の彼は、杏香のためだけに曲を書いている。他のアーティストなど眼中にない。
自分自身すら論外だった。行方史枝、いや伊沢杏香のための曲は泉のようにあふれ出る。 それなのに、それを歌う人間がいない。自分の曲は彼女に歌われてこそ完成するのに…。 CD発売とか、売り上げとか、オリコン順位ですらもうどうでもよかった。彼女の声が聞きたい。彼女が自分の曲を歌う声が聞きたい。それが世に出ようが出まいがどうでもいい。自分のためだけでいいから歌って欲しかった。