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「陽翔じゃないか!」
それは四月にしては暖かい日の続くある日の事だった。ソメイヨシノは散ったけれど、カンザンやフゲンゾウ等の八重桜は見頃で、夕方十七時を回ってもまだ外は明るい。そんな日にクリニックを訪れた人物がいた。
名前は渋谷陽翔。晃輔の高校時代の同級生である。
「やあ、久しぶり。結婚式以来かな?」
背丈は百八十センチメートルくらいだろうか。晃輔より身長はやや低めでスラリとした体躯は、けして痩せすぎてはおらず、ダークグレーのスーツの上からでも胸板の厚さを感じる。またしっかりとした脚は大腿部の筋肉が発達しており、何かのスポーツをしている、またはしていた事を想像させた。
アップバングに整えられた髪は清潔感があり、顔立ちも甘やかな美形で、顔立ちも相俟って歳をとっても清潔感のあるイケメンが晃輔に向かって笑顔を向けた。
「ニューヨークにいるっていってなかったっけ?」
晃輔が診察室の扉を開けて陽翔を迎え入れる。
「ありがとう。先月日本に帰ってきたんだよ」
そうして久しぶりに再開した友人をリクライニングソファーへ案内して晃輔は自分も席に戻った。
「そうだったんだ。細君は元気かい?」
「元気だよ。娘も二人とも元気だよ」
陽翔は初めて訪れる晃輔のクリニックの診察室の内装をぐるりと見回した。
「あれ?今何歳だっけ」
友人の娘の存在を覚えていなかった晃輔は思わず目線を上に向けて考える。
「娘?小学校四年生と保育園年長さんだよ」
「そうか、全然知らなかったわ」
「そうだね。生まれたのはアメリカ行ってからだから」
懐かしい友人との再開に珍しく晃輔は興奮していた。
「で?今日はどうしたんだい?」
朔が珈琲を入れて運んできた。
晃輔は珈琲を勧めながら今日来た理由を聞いた。
「やあ、高校生以来ぶりだ。朔さんの珈琲」
嬉しそうにそう言って運ばれてきた珈琲に早速手を付けた。
ミルクと砂糖と一杯ずついれスプーンでかき回すと口に運ぶ。
「相変わらず美味しいよ。朔さんはお変わりないですか?」
「お蔭様を持ちまして。陽翔様もお変わり無いようで」
朔はにっこりと微笑んだ。
「朔さんの丁寧な口調も変わりないんだね」
「朔さんは変わらないよ。怒ると怖いところも」
朔は晃輔をギロッと睨んだ。
「あははっ懐かしい」
そんなやり取りも陽翔には懐かしく映るようだ。
「で。今日は何しに?」
晃輔がもう一度聞いた。
「いやあ、一番の目的は晃輔に会いに来ることだったんだけど。実はここ、ほくろができてさ…とれるかな?」
陽翔は前髪を手でかき揚げて、晃輔に見せた。
晃輔はわかりやすいように陽翔に手鏡を渡した。陽翔は受け取った手鏡で自分の額を確認しながら晃輔に尋ねた。
「あーこれね。ちょっとよく見せて」
晃輔は陽翔の前額部にできた、直径一センチメートルほどの茶と黒の間くらいの色彩の出来ものを、拡大鏡で観察する。指で摘んだりして定規で大きさを測ったり色々いじくり回したあと、あっさりと告げた。
「これ癌だよ。取ったほうがいいね」
「えー、癌なの?」
陽翔は驚いて自分の額をもう一度手鏡で見た。
「まじかー」
色んな角度から自分の額にできたそれを見る。
「どうしようか。来週の土曜日また来れる?」
晃輔が卓上カレンダーを見ながら陽翔に聞いた。
「今日は無理なのかい?」
今度は陽翔が聞いた。
「最近は俺はほとんどやってなくて兄貴に任せてるんだよね」
苦笑いしながら晃輔が答える。
「そうか、お兄さんもお医者さんだっけか。…いいよ。また土曜日に来よう」
「悪いな」
「いやいや。癌だって分かっただけでも…これはちなみにほっとくと命に関係するのかい?」
陽翔は晃輔に手鏡を返しながら聞いてみる。
「うーん、あんまりないけど、その場でどんどん深くなって骨まで達することもあるかな。まぁ採ってみないと正確なところはわからないけどね。」
晃輔は鏡を机の元の位置に戻しながら答えた。
「そういうもんか」
「採った細胞を調べて判定がつくからね」
晃輔は机の引き出しから予約カードを取り出しながら答えた。
「わかった。えーっといつだ?来週の土曜日…何時に来ればいい?」
陽翔は鞄からスケジュール帳とボールペンを出して、記入準備をする。
「十一時三十分でも大丈夫かい?」
晃輔はカレンダーの予約の入り具合を見ながら時間を指定する。
「大丈夫だよ」
陽翔はパパっと手帳に時間を書き込んだ。
「じゃあ悪いけれどそれで」
晃輔もカードに名前と予約時間を書き込んだ。
「OK」
陽翔は手帳とボールペンを鞄にしまう。
「一応手術の仕方を説明しておくよ」
そう言うと晃輔はメモ用紙を取り出して図を描き始めた。
「基本的にシワにそって切るんだけど…こんな形に癌があるから…こうやってアーモンド型に皮膚を切り取るんだ。で、こんなふうに切り取ったところを縫い合わせていくと最終的に一本の白い線になる」
晃輔は図に描いたアーモンド型の図の間を何本もの線で結び、縫い合わせ方を説明する。
「なるほど…」
陽翔は腕を組みながら晃輔の描く図を覗き込んでいた。
「他には大丈夫かい?」
すると陽翔は考えてから少し困ったような顔をした。
「…いや。大丈夫」
晃輔は陽翔の煮えきらない態度に怪訝な顔をする。
「…?そうかい?」
「ああ…」
陽翔は少し遠くを見るように晃輔から目線を外した。
「それなら、かまわんけど…何かあるんだったら言ってくれよ」
そう言って一応、と書き込んだ予約カードを陽翔に渡した。
「ああ…そうだな。病気とは違うんだが…どうしようもなくなったら相談するよ」
陽翔もありがとう、と言って予約カードを受け取ると先程の手帳にカードを挟んだ。
「そうか…まぁ、困ったことがあったら相談してくれ。金以外で」
「ははっ。そうするよ。じゃあ今日はこれで失礼するよ。また来週の土曜日に」
陽翔は話しは終わりとばかりにパンっと自分の両膝をを叩いて立ち上がった。
「ああ」
晃輔も立ち上がって、扉まで送る。
「なぁ…もしよかったらその日の夜、久々に飲まないか?」
陽翔はふと振り返って晃輔にそう言った。唐突な誘いに、晃輔は少し驚いたが、すぐに口角をあげた。
「いいね」
「じゃ、土曜日に」
陽翔は診察室の扉のプルハンドルに手をかけた。
「ああ、お大事に」
「また」
陽翔はお会計を済ませると来た時と同じように颯爽を帰っていった。
「かっこいい方ですね。お知り合いですか?」
診察室の奥の方で診察についていた晶湖は、晃輔に聞いた。
「高校の時の同級生でね、部活も同じだったんだよ。彼はスタンドオフというポジションで…サッカーでいうところの司令塔だね。あの通りの見た目だったから当時からとてもモテてたんだよ。確か商社マンやってて、ニューヨークにいるってきいてたんだけど、帰ってきたようだね」
晃輔は自分の事のように楽しそうに陽翔の事を晶湖に話した。
「でも…第二診察室なんですね」
「ああ…」
晃輔は少し口ごもった。微かに。ほんの僅かだが、陽翔から妖の匂いを感じたのだ。
「でも気の所為かも知れない。それに必ずしも悪いものとも限らないし。少なくとも悪意は感じなかった」
「そうだったんですか」
晶湖は少しホッとした顔をした。
「うん。たまたま、すれ違った、なんてこともあるし。今日は様子見だね」
「そういうものなんですねー」
晶湖は陽翔の出ていった扉を見つめていた。
陽翔が来た次の日、朝から一日妙な気配がした。明らかな妖の気配だが、特に敵意はなさそう。だが、こちらをずっと伺っている、そんな気配だった。
それが何なのか分かったのはその日の夕方、そろそろ診療時間も終わろうかという頃だった。
診察室から患者が捌け、待合室の窓から外を見た時だった。
「あれか。今日一日ずっと気配がしていたのは」
晃輔は窓の外の向かいの電柱の下に一匹の猫がいるのが見えた。
「どうもそのようでございますわね」
朔も一緒に窓の外の猫を見ている。
猫もこちらを見ているようだった。
「どうしたんですか?」
晶湖もそばに寄ってきて窓の外をみた。
「あ、猫ちゃん!かわいいーこっち見てるー」
晶湖は聞こえもしないのに猫に向かってニャンニャンと鳴いてみせた。
「この辺の猫ですかかねー」
晶湖はどうやら猫好きのようだ。そう言えば狐姿の朔も気に入っている。晶湖は動物が好きなのだろう。
晃輔は猫に上に上がってくるよう、手で合図を送った。
猫はそれを見てクリニックの入口の方へ走って行った。
「あ、猫ちゃんが入ってきちゃう」
晶湖が両手を窓につけながら下を覗き込むようにして猫の後を目線で追う。
「櫻川さん、たぶん今日最後の患者?さんですよ」
「え?」
晶湖は窓に手をついたまま、晃輔を振り返った。
律儀にエレベーターを使って上がってきた猫はスラリとしたまだ若いサバトラだった。
身体はそこまで大きくないが手入れされているのか毛並みは整っていて美しい。
エレベーターを降りると、自動ドアの前で大人しく座る。
「朔さん、頼むよ」
「よろしいのですか?」
「今日一日待っていたみたいだしね」
「承知しました」
そう言うと朔は猫に向かって
「お入りなさい」
と招き入れた。
するとその言葉に従って自動ドアが開き、猫が中に入ってきた。
「きゃー猫ちゃん。先生、いいんですか?クリニックに入れて」
晶湖はしゃがみ込んで、入ってきた猫を一応これ以上敷地内に入れないようブロックしながら、猫の下顎を四本の指で撫でた。
「ええ、どうやら、今日はこの猫はうちに用があったようなので。でも診察室というわけにも行かないから、ここでいいかな猫くん」
「お招きいただきまして、ありがとうございます」
すると猫は急にしゃべりだした。人間のように後ろ足二本で立ち、前足を揃えてお辞儀をする。
「きゃっ!」
晶湖はびっくりして後ろへ尻もちをつく。晃輔はその姿に少し笑いながら晶湖を起こすのに手を貸した。
「櫻川さん、大丈夫ですか?」
「猫が喋った…」
晶湖は呆然としながら二本足で立つ猫をみた。
「これはお嬢さん、驚かせてしまい、申し訳ありません」
これまた律儀に猫はお辞儀をした。
晶湖は晃輔に起こされると、少し気圧された様に晃輔の後ろに下がった。
それでも気になって晃輔の後ろから覗き込むように猫を見る。
「それで、うちへは何の用だい?」
そんな晶湖の気配を可笑しく思いながら、晃輔は猫に尋ねた。
「はい、先ずは、昨日は主がお世話になりまして、ありがとうございました」
ペコリ。また猫はお辞儀をする。
そこで晃輔は気がついた。昨日陽翔に感じた僅かな妖気。
「そうか君は陽翔のところの猫なのか」
「はい、コタローと申します」
またペコリ。猫はお辞儀をする。慣れてくるとその姿がだんだん可愛らしく見えてくる。
最初は驚いて怖がっていた晶湖もその可愛らしさに目が輝いてきた。
「実は主の事で相談がございまして、こうして伺った次第にございます」
コタローはぺろりと前足を舐めた。
「まぁ…立ち話…って猫に言うのも何だけど、立ち話もアレだから、どうぞそこの椅子におかけください」
晃輔はコタローを待合室の適当なソファーを示し、自分も近くの椅子に座った。
「これは、ご丁寧にありがとうざいます。お言葉に甘えて失礼いたします」
コタローはとことこを待合室を横切ると、ふわっと晃輔の座った椅子の近くの革張りのソファーに登り、そこに腰掛けた。
「それで…陽翔の事でっていうのは…?」
晃輔が椅子に座ったまま足を組む。
「はい、実は…主は何者かに狙われているのです」
「陽翔が…?」
「はい」
猫と晃輔の会話。これを不思議なものを見るような目(実際不思議なものではある)で晶湖は見ていた。
「あの…朔さん」
「はい、なんでございましょうか」
「あの猫ちゃんって、妖なんですか?」
「そうですね。アレは猫又でございます」
「猫又っていうと…あの長生きするとしっぽが二つに割れるっていう…?」
「そうでございますね。そう言われておりますね」
「尻尾…あ、本当に二本あります!」
少し離れたところで会話する晶湖と朔。
「おーい、そっちでこそこそ話してないでこっちで一緒に話を聞いてくれ」
晃輔は朔と晶湖を呼んだ。
「…参りましょうか」
「は、はい」
朔が自分と晶湖の分の椅子を運んできた。
猫が座るソファーを囲むように晃輔と朔と晶湖が座る。
晃輔は足を組んで。朔は背中がピンと伸びている。晶湖は何処と無く落ち着かず、椅子のなるべく端の方に。猫を囲んで三者三様に座っている。
おかしな光景である。
「…では続きをどうぞ?」
晃輔は改めてコタローに話の続きを促した。
「ありがとう存じます。ではお言葉に甘えて続きをお話しさせていただきます」
コタローが続きを始めようとした時に急に朔が話の腰を折った。
「失礼。お話は長くなりますか?よろしければ珈琲をお入れいたしましょう」
「お構いなく」
コタローはあくまで礼儀正しい。
しかし、晃輔はふうっとため息をついて、
「そうだね。コタローさんとやら?時間が大丈夫なら珈琲を飲みながらでもいいかい?」
「それはもう」
「では朔さん、珈琲を頼む。…コタローさん珈琲は?」
「よろしければミルクをお願いしたい」
「…お皿でお出しした方がよろしいかしら?」
「いえ、お構いなく」
「そうですか。承知しました」
朔はそういうとスッと立ち上がって受付カウンターから裏へ入っていった。
残された晃輔と晶湖とコタロー。
「…」
「…」
「…」
静かな時間が流れていった。
晶湖の目線はコタローに注がれる。見た目はどうみてもかわいい猫。でもよく見れば確かに尻尾は二本ある。
「…ここへはどうやって?」
晃輔は何となく間を持たすように会話を始めた。
「電車というものに乗って参りました」
コタローは身繕いをしながら答えた。
「猫の姿のままで?」
晶湖も興味津々とばかりに会話に加わる。
「いえ、あの」
そう言うと見せたほうが早いとばかりにふわっと宙を一回転した。
次の瞬間には十代後半の若い男の姿になっていた。
アッシュ系の短い髪に白い肌。瞳の色はグリーンゴールド。目尻の吊り上がったなかなかの美形である。
服はパーカーに黒のデニムを履いており足元はバスケットシューズのようなミッドカットの靴を履いていた。
「この格好で参りました。服は家にあったチラシなるものを参考にいたしました」
「成る程。それならばカップでも飲めますね」
丁度朔が四つのカップをトレーに乗せて運んできたところだった。
四つのカップのうち三つは珈琲、一つは冷たいミルクである。
朔がコタローの座るソファーの横にカップを置くと、コタローは丁寧にお礼を述べた。
「ありがとう存じます」
コタローは早速カップを両手で大事そうに持ち上げペロペロとミルクを飲み始めた。
人の所作としてはお行儀のよいものではないが、何故かそれが可愛らしく見えた。
それから朔は晃輔と晶湖にもカップを渡し、自分の席に戻ると頭を下げた。
「話を折ってしまって失礼いたしました。続きをどうぞ」
「あ、そうでした」
夢中でミルクを飲んでいたコタローは朔の言葉にハッとすると、カップを大事そうにソーサーに戻し、改めて晃輔の方を見て話しはじめた。
「では、改めまして、主の事なのですが…」
「確か…誰かに狙われているって?」
晃輔が先程までの話を思い出しながら言った。
「そうなのです…どこのどいつだかはわかりませんが、我が主が狙われているのです」
コタローはそこで一旦言葉を切ってそれから続けた。
「猫又に」
「は?」




