悪役令嬢になったのは、ずっと比べられていたから
夜更けの公爵家は静かだった。
広い屋敷の奥、家族の私室から離れた書斎だけに、まだ灯りが残っている。昼のうちは整って見えた机の上が、夜になると別の顔を見せる。封蝋の色、書簡の差し出し順、贈答目録の品目、領地報告に添える一文、数字の置き方。どれも一見すれば大きな破綻はない。だが、そのまま出せば後から必ず揉める。受け取る側の面子が足りず、謝意より先に条件が立ち、贈り物の格が半段ずれ、報告書の数値は正しくても、その数字をどう受け取らせたいのかが抜けている。そういう、表に出る頃にはもう遅い種類の不備ばかりだった。
カティア・ヴァルモンは椅子に深く沈むこともせず、背筋を伸ばしたまま一枚ずつ赤を入れていった。細い指先が止まることは少ない。止まるのは考え込んだ時ではなく、考えるべきことが多すぎて、呼吸の仕方まで浅くなった時だけだった。
「こちら、北部の件は順番を入れ替えます。先に謝意、そのあと条件提示。いきなり数字から入ると、押しつけたように見えますから」
横で控えていた侍女がすぐに頷く。
「はい、お嬢様。清書は私が」
「贈答目録も修正を。銀器はひとつ下げて、その代わりに織物を一反足して」
「承知いたしました」
「南部の修道院への寄進は、額を変えずに名義を一部整理して。母上の名だけ先に出ると、叔母上の方が面白く思わないわ」
「では連名に」
「ええ。ただし順はそのまま。母上を立てつつ、角を立てない形で」
「はい」
「……ルシアンお兄様、先方の姪御が療養中だとご存じなかったのね」
「昼の会話ぶりでは、ご存じのように見えましたが」
「そう見せていただけよ」
そこでようやく、カティアは小さく息をついた。笑ったわけではない。笑うほど愉快でもなかった。ただ、いつものことだと思っただけだ。
兄のルシアンは、昼間の会議では堂々としていた。父の隣で背筋を張り、居並ぶ貴族たちの前で言葉を選び、差し出された書類を受け取る所作も堂に入っている。公爵家の跡継ぎとして、いかにも見映えがした。青年らしい明るさもあり、押しの強さを無礼と受け取らせない程度の華もある。遠目に見れば、頼もしい後継ぎそのものだった。
だが、彼は最後の詰めを知らない。
何を先に言うべきか。どこで一歩引くべきか。相手の自尊心を傷つけずに、こちらの条件だけを通すにはどの順で言葉を並べればよいか。断る時に切るべきなのは話なのか、人間関係なのか。そういうところが、いつも甘い。目立つ場では映えるのに、家を崩さず回すには足りない。その足りなさは、夜になると必ずカティアの机へ運ばれてきた。
書類の山は、兄だけのものではない。
母は社交の中心に立つ術を知っていたが、相手の腹の中を読むのは得意ではなかった。妹フローラは愛らしく、無邪気に笑えば多くの大人が甘くなる。そのかわり、甘くなってもらえることに慣れすぎていた。父は家格と体面を守ることには敏かったが、その体面が何によって実際に支えられているかには驚くほど無頓着だった。
兄は家の顔。妹は家の花。
そう言われたことは一度や二度ではない。露骨に「お前はそのどちらでもない」と言われたこともない。けれど家じゅうが、長い時間をかけてそういう顔をしていた。兄のように華がないのだから、せめて気が利かなくては。妹のように愛らしくないのだから、せめて役に立たなくては。そういう言葉は、誰の口からも明確には出ないまま、気配だけが絶えず彼女の周りにあった。
清書を進めていた侍女が、ちらりと時計へ目をやった。
「お嬢様、少しだけでもお休みになった方が」
「あと二束」
「夕食もあまり召し上がっておりません」
「食べている時間があるなら、明日の朝に支障が出ない形にしておきたいの」
「明日の朝のために今のお嬢様が倒れては元も子もございません」
「倒れないわ」
「倒れないように立っておいでなのではなく、倒れる余地がないように動いていらっしゃるだけです」
「エマ」
「……失礼いたしました」
返事は従順だったが、心配を引っ込めていない声だった。
エマは幼い頃からカティア付きの侍女だった。部屋の空気の変化を読み、手元の乱れに先回りし、主人が何を口にしないかまで分かっている。カティアが自分で思っている以上に、疲れている時の顔も知っていた。
書類の束をひとつ終えたところで、扉が軽く叩かれた。返事をする前に開いて、兄のルシアンが顔を覗かせる。夜着に着替えたあとらしく、肩に上着をひっかけているだけだった。
「ああ、まだ起きていたのか」
「起きています」
「昼の北部の件、見ておいてくれたか?」
「今、整えています」
「助かるよ。やっぱりお前は細かいところによく気がつくな」
軽い声だった。褒めたつもりなのは分かる。けれど、その言葉はいつも同じところで止まる。どう助かったのか、どこが足りなかったのか、自分が何を任せているのか。そこまでは考えない。考えなくても、この部屋に書類を置いていけば朝には整っていると知っているからだ。
「北部侯は数字そのものより順序をご覧になります。先に謝意を示してから条件に入らないと、押しつけだと受け取られます」
「そこまで神経質になるものか?」
「神経質なのではありません。あの方はそういう順番で、人の敬意を量る方です」
「まあ、形式にうるさい相手ではあるよな」
「形式ではなく、敬意です」
「同じようなものだろう」
「違います」
「はいはい。じゃ、それで頼む。父上にも、お前が見てくれていると言っておくから」
その最後の一言が、ひどく自然だった。
お前が見てくれている。だから大丈夫。だから自分は考えなくていい。
兄はそれを信頼だと思っているのだろう。だがカティアには、その言葉がいつも「お前が後ろで片づけるのは当然だ」と聞こえた。
兄は扉のところでふと振り返り、何でもないことのように言った。
「昔からそうだったしな。お前はこういうのが得意なんだから」
昔からそうだった。
その一言で、彼はどれだけ多くの夜を当然のものにしたのだろうと、カティアは思った。
兄が去ったあと、扉が閉まる。部屋が少しだけ広く感じられた。エマが何も言わずに新しい紙を差し出す。
カティアはそれを受け取りながら、静かに言った。
「褒められたわね」
「お嬢様」
「細かいところによく気がつく、と」
「お嬢様がいらっしゃらなければ、明朝には北部侯家から遠回しな嫌味が届き、半月後には別件の顔合わせで席の順が半段下がっております」
「そこまで早くはないわ」
「では一月後です」
「そういう問題ではないのよ」
「そういう問題にしないために、お嬢様が毎晩ここにいらっしゃるのです」
「それが家のためでしょう」
「お嬢様ばかりが家のために削られております」
その一言に、カティアの手が止まった。
エマは目を伏せたままだった。慰める調子ではなく、ただ事実を机の上に置いたような言い方だった。
屋敷の中で、自分のやっていることをこういう形で言葉にするのは、たぶんこの侍女だけだと、カティアは知っていた。
「削られている、ですって」
「はい」
「大げさね」
「いいえ。皆さまはお嬢様を比べる時、いつも同じものを差し出します。お兄様のような華やかさがない。フローラ様のような愛らしさがない。ですから、代わりに気が利いて当然だと」
「あなたは、よく見ているわ」
「見ております。お嬢様が見ないようにしていることまで」
カティアは答えなかった。
答えれば、その通りだと認めることになる。認めたところで、何かが変わるわけでもない。だから彼女は再び筆を取った。そうしていつものように、怒る前に片づけた。
翌日の午後、屋敷は小さな茶会の準備でざわついていた。
来客は伯爵家の夫人とその姪、ほか数名。大きな席ではないが、ヴァルモン公爵家にとって軽く扱えない相手ばかりだった。母は明るい色のドレスを選び、妹フローラは鏡の前で何度も髪飾りを替えている。侍女たちも忙しなく動き回り、花の位置、菓子の皿、茶葉の銘柄にまで気を配っていた。
カティアはいつものように首元の詰まった、落ち着いた色のドレスを選んだ。布の質は悪くない。むしろ公爵家長女として不足ない仕立てだ。だが華やかさを足すものは少なく、身体の線もほとんど拾わない。自分で望んだわけではない。いつの頃からか、それがいちばん無難だとされ、そのまま誰も変えようとしなかっただけだ。
幼い頃、鏡の前で少しだけ明るい色に目を留めたことがあった。すると母は柔らかく笑って、こう言ったのだ。あなたはフローラほど可憐ではないのだから、可愛らしさを真似るより品を取りなさい、と。悪意のある言い方ではなかった。むしろ親身な助言の顔をしていた。だからこそ、その言葉は長く残った。
兄のような華やかさはない。妹のような愛らしさもない。
ならばせめて、役に立つこと。失敗しないこと。人前で場を崩さないこと。
それがいつしか、彼女の立ち位置になっていた。
茶会そのものは穏やかに始まった。花の話、天候、最近の舞踏会、修道院への寄進、春に増えた行商の話。誰もが笑い、音もなく茶器が置かれる。母は明るく相槌を打ち、フローラは可憐に目を輝かせ、客人たちはその二人へ自然に目を向けた。カティアは必要な時だけ口を開き、話題の継ぎ目を滑らかにしていた。
そこまでは良かった。
問題は、伯爵家夫人が姪の婚約について話題にした時だった。
「先方の侯爵家には、本当に良くしていただいておりますの。少し体調を崩していた時期もありましたのに、丁寧に待ってくださいまして」
柔らかな声に、周囲も頷いた。侯爵家からの厚意を褒めるのは自然な流れだし、婚約が人と家の両方の誠実さで成り立っていることを示す、社交の場らしい美しい話でもあった。
その時、フローラが無邪気な顔で言った。
「まあ。では、もしもっと長くご病気でいらしたら、婚約も見直しになったのかしら」
一瞬、空気が止まった。
悪意のある口調ではなかった。だからこそ厄介だった。言われた側が怒れば、こちらが大げさに見える類いの無神経さだった。しかも、フローラ自身は本気でただの疑問を口にしたつもりなのだろう。それがなおさら救いがない。
伯爵家夫人の口元の笑みが、ほんのわずかに硬くなる。姪は茶器へ目を落としたままだった。部屋の中の空気が、目に見えない薄い膜で一枚張りつめたようだった。
カティアはすぐに茶器を置いた。
「フローラ。侯爵家が待つとお決めになったのは、先方がご令嬢のお人柄を重んじておいでだからでしょう。そういう誠実なお話でしたのに、あなたったら」
「あ……ご、ごめんなさい。わたくし、そんなつもりじゃ」
「ええ、存じています。だからこそ、言葉は選ばなければなりません」
そこでカティアは、わずかに笑って伯爵家夫人へ向き直った。
「妹はまだ、人の厚意の重みを測るのが拙くて。どうかお許しくださいませ。侯爵家がそうしてくださったのは、何よりご令嬢が日頃から誠実に過ごしていらしたからでしょう。病ひとつで揺らぐご縁なら、そもそも真っ当なご縁ではございませんもの」
夫人の表情が、少しだけ和らいだ。
「まあ、お上手」
「本心ですわ」
「お姉様は、いつも本当にきちんとしていらっしゃるのね」
フローラがそう言った。場だけを見れば、姉を立てる美しい言葉だった。だがカティアには、それがいつもの言い回しに聞こえた。可憐な妹が、きちんとした姉を褒める。その並びが完成した時、部屋の誰もが安心する。兄は華やか、妹は愛らしい、姉はきちんとしている。役割が収まる。それだけのことだった。
茶会は、そのまま何事もなく終わった。
何事もなく終わらせたのは、カティアだった。
帰りの馬車の中で、フローラはずっと黙っていた。しおらしく膝の上で手を組み、時折まつ毛を伏せる。何かを反省しているようにも見えるし、傷ついた自分を大事に抱えているようにも見えた。
屋敷へ着き、母の前へ出た途端、フローラは目を潤ませた。
「お母様……わたくし、あんなつもりではなかったのに」
「まあ、フローラ」
「お姉様が、あんなに強い声でおっしゃるから……皆さま、わたくしがとても酷いことを言ったみたいに」
「カティア、あなたも少し厳しすぎるのではなくて?」
母の視線が向く。
カティアは一瞬だけ目を閉じた。伯爵家夫人へ向けた笑みを作る方が、今この瞬間より簡単だったと思う。
「あの場であのまま流せば、伯爵家との関係に影が差します」
「でも、フローラは悪気があったわけではないでしょう」
「悪気の有無と、失礼かどうかは別です」
「あなたは昔からそうね。正しいことを言う時ほど、相手がどんな顔をするかを忘れてしまうの」
「忘れておりません」
「なら、もう少し柔らかくしてちょうだい。フローラはあなたほど強くないのだから」
「お姉様は、いつも正しいことばかり言うの」
フローラが潤んだ瞳のまま言う。そこには責める色より、庇ってもらえると知っている者の安堵があった。
「だから怖いのよ。わたくし、お姉様の前だと何を言っても間違えそうで……」
母が妹の肩を抱いた。
「フローラ、もういいのよ。カティアは昔からそうなの。家のことを思ってのことだから」
「なら、なおさら……もう少し優しく言ってくださっても」
「お前は少しきつすぎるところがある」
父までが、通りがかりのように口を挟んだ。
「お兄様なら、もっと上手におさめたかもしれないのに」
「ルシアンはああいう席で空気を悪くしないものね」
母の何気ない一言が落ちた瞬間、カティアの中で何かが冷えた。
そうだろう、と彼女は思う。兄はああいう席で空気を悪くしない。悪くなった空気の後始末を、そもそも自分が引き受けなくていいからだ。フローラは泣けばよい。母は宥めればよい。父は体面だけ整っていれば満足する。そしてその陰で、誰かが関係の綻びを縫い合わせる。その役がいつも誰だったのかを、彼らは本当に考えたことがない。
優しく。
その言葉が喉のあたりに薄い棘のように残った。
夜、カティアは伯爵家へ送る詫びの品と、言外に妹の若さを詫びる手紙を整えた。母はもう眠った。フローラも泣き疲れたような顔で寝室へ戻った。エマだけが黙って封筒を差し出していた。
「怖い、ですか」
「ええ」
「お嬢様を怖いと思ったことはございません」
「あなたは甘いわ」
「いいえ。怖いのは、失礼をしても誰かが直してくれると信じている方です」
「それは……」
「お嬢様がきちんとしておいでだから、皆さまは自分がきちんとしているようなお顔をなさるのです」
エマの声は静かだった。怒りよりも、あまりに長く見続けた者にしか出せない諦めが滲んでいた。
王城へ上がる日は、朝から緊張する使用人が多い。第三王子との婚約以来、カティアにとって王城は晴れの場であると同時に、気の抜けない仕事場でもあった。
エリアス第三王子は、笑うと人当たりの良い青年だった。顔立ちも悪くない。声も柔らかい。少し距離を詰めれば、多くの令嬢が「親しみやすい殿下」と感じるだろう。三男であることも手伝って、重すぎない魅力があった。長兄ほど責務の圧を背負っておらず、次兄ほど野心が鋭いわけでもない。そのぶん、近づきやすく、柔らかく見える。
ただ、軽い。
本当に大切な場面で、どこまで踏み込んでよいかを考えない。相手の立場より、その場の気分を優先する。誰に微笑むべきか、何曲踊れば誤解を呼ぶか、贈り物にどの程度の意味が付くか。そうしたことを、彼は面倒だと思っていた。そこを詰めるのは窮屈で、気が利かない者ほどそれを「優しさ」と呼ぶ。
婚約が決まった時、父は満足そうに言ったものだ。第三王子は少しお軽いが、お前がつけばちょうどよい、と。
ちょうどよい。
その時もカティアは黙っていた。公爵家の娘として、王家へ嫁ぐのは名誉だと知っていたからだ。だが今になって思えば、あの時すでに役割は決まっていたのだろう。王子の隣で愛される婚約者ではない。軽い三男が大きな失敗をしないよう、境界を引き、後始末をし、表向きは穏やかに見せておく重しとして。
王城の控えの間で、カティアはその日の席次と挨拶の順番を再確認していた。
「今日はセルヴィエ侯爵家のご子息がいらっしゃいます。北方交易の件で、陛下がお父上とお話し合いを進めておいでですから、殿下は軽くお言葉を交わす程度に留めてください」
「そんなに固く考えなくてもいいだろう」
「固くではなく、必要な距離です。フェルベール伯爵令嬢とは舞踏は一曲までに」
「またそれだ」
「婚約が整っている方です」
「分かっているよ。少し話すくらいで何も起こらない」
「何かが起きてからでは遅いのです」
「君は本当に、こういうことが好きだね」
「好き嫌いの話ではございません」
「いつも眉間に皺を寄せて。もっと楽にしたらどうだ」
「殿下が楽をなさる分、どなたかが整えねばなりませんので」
「ほら、そういうところだ。君はすぐ説教になる」
その場にいた王妃付きの年嵩の侍女が、気まずそうに視線を落とした。聞いている者はいる。だが誰も、王子の言い方を咎めはしない。カティアなら受け止めると知っているからだ。
その夜会でも、彼女は何度も殿下の進路を変えた。侯爵家の若い未亡人へ近づきすぎぬよう話題を挟み、婚約中の令嬢に贈るには重すぎる花束を品を落として作り直させ、酒に酔った側近が余計なことを言わぬよう別の者へ入れ替えた。廊下で偶然を装って待っていた令嬢がいると知れば、別室へ殿下を誘導し、逆に殿下の方が誰かを引き留めそうになれば別の貴婦人へ話題を振った。
全部、当然のように。
そのたびに王子は少し不満げな顔をし、周囲は「きちんとした婚約者だ」と評した。誰も、なぜそこまで整えなければならないのかには触れない。
夜会の帰り際、父が満足そうに言った。
「今日もよく務めたな。殿下の覚えも悪くないだろう」
「覚え、ですか」
「王家にきちんと仕えるのは、公爵家として当然だ」
「私は殿下の婚約者です」
「だからこそだ。お前は昔から、目立たぬところを固めるのが得意だった」
「……」
「ルシアンは人前に強い。フローラは場を和ませる。お前はこういう詰めをする。それぞれの持ち場があるということだ」
父の言葉に迷いはなかった。娘の未来を語る口調ではなく、家に与えられた駒の置き場を確認する口調だった。
その時カティアは、ようやくはっきり理解した。
父は最初から、自分を王家へ差し出していたのだと。
娘としてではない。軽い三男が大きな失敗をしないよう、黙って整える重しとして。兄のように家の顔にはなれず、妹のように場を和ませもせず、その代わり後ろで全部を支える者として。
それでも彼女は、しばらく何も言わなかった。言っても変わらないことが、もう分かっていた。
断罪の夜会は、春の終わりだった。
大広間はいつもより明るく、音楽も軽やかで、人々の頬には浮き立つような色が乗っていた。何かが起きる前の空気ではなく、何かを期待している空気だった。視線は散っているようで、実のところ一方向を待っている。人は残酷な場を前にすると、たいてい華やかな顔をする。
その中心へ呼ばれた時、カティアは自分の背の後ろに、いくつもの視線が集まるのを感じていた。兄、妹、父母、王家の人々、そして令嬢たち。皆が、自分をもう結論の出た人間として見ている視線だった。
エリアス第三王子はよく通る声で告げた。
「カティア・ヴァルモン。君との婚約を、ここに解消する」
ざわめきが波のように広がる。
「君はあまりにも冷たく、厳格すぎた。周囲を見下し、嫉妬深く、私の交友まで縛ろうとした。もはや私の隣にふさわしくない」
用意された言葉だった。軽い男にしては妙に整っている。誰かが整えたのだろう。王家か、父か、その両方か。あるいは誰かが骨組みだけ作り、そこへ本人が気分よく言えそうな言葉を被せたのかもしれない。
カティアは何も言わなかった。
兄ルシアンが、一歩前へ出る。
「カティア。お前は昔から抱え込みすぎるんだ。もっと肩の力を抜けばよかったのに」
その言葉のあと、少しだけ困ったように笑って見せる。
「俺たちだって、頼ればよかったんだ。お前ならできると思って、つい任せすぎたところはあったかもしれないけれど」
任せすぎた。
その響きの軽さに、胸のどこかが白けていく。任せたのではない。押しつけてきただけだ。その違いも、兄には分からない。
妹フローラは、胸の前で手を組み、震える声で言う。
「お姉様、もうおやめになって……殿下も、ずっとお苦しかったのよ」
母は眉を曇らせ、父は重々しい顔で頷く。
「家の者としても、以前から案じてはいた。カティアは優秀だが、厳しさが過ぎるところがある」
「優秀、ね」
誰かが小さく囁いた。
別の誰かが、聞こえよがしに言う。
「怖い方でしたもの」
「いつも正しいことばかり仰るのよ」
「婚約者としては息が詰まるわ」
「フローラ様のような柔らかさがあれば」
その最後の一言で、カティアはようやく笑いそうになった。
そうか、と彼女は思った。
ここでも結局それなのだ。兄のように華やかではなく、妹のように柔らかくもなく、その代わり正しく、きつく、使い勝手の良い女。比較の中でしか自分を置かれないまま、最後まで来たのだと。
父が口を開いた。
「ルシアンが家を継ぎ、フローラが社交を和ませる。お前は本来、別の形で家を支えるべきだったのだろう。だが、その尖った気質で殿下のお心まで窮屈にさせてしまっては――」
「お父様」
遮ったのはカティアだった。
父が言葉を止める。広間の視線が、さらに彼女に集中する。彼女が泣くのか、取り乱すのか、弁明するのか。皆がそのどれかを待っている顔だった。
最後まで聞く気にはなれなかった。
カティアは小さく息を吐いた。怒りでも、悲しみでもない。長く張っていた糸が、ようやく音もなく切れたような吐息だった。
「……ああ、もういいわ」
誰へ向けたとも知れない一言が落ちる。
彼女は自分の胸元を覆っていた濃い布を掴んだ。慎みのために重ねていた上布。地味で、堅く、控えめであることを求められ続けてきた長女の衣装。華やかさではなく品を取れと言われ、目立つなと言われ、兄と妹を引き立てる脇の色であれと求められてきた、その象徴のような布だった。
鈍い音を立てて、それが裂ける。
下から現れたのは、本来なら夜会でこそ着るべきだった、身体の線を美しく見せる仕立てのドレスだった。隠されていた首筋、肩の線、胸元の豊かな曲線が一息に露わになる。過度ではない。だが、それまで抑え込まれていた分だけ、場の視線を一瞬で攫った。地味だと思われていた女が地味だったのではなく、地味に押し込められていただけなのだと、誰の目にも分かるほどに。
ざわめきが止んだ。
カティアは卓上のグラスを取り、水を指先に含ませる。鏡も見ず、慣れた手つきで髪を掻き上げ、後ろでまとめた。きっちり押さえ込まれていた輪郭が解かれた途端、その顔立ちは可憐よりも強く、華やかよりも冷ややかな美しさで場を射抜いた。
初めて見たような顔で、皆が彼女を見る。
兄も。妹も。王子も。
そしてカティアは、笑いもせず言った。
「優秀らしい兄と、可憐らしい妹。……ちょうどいいじゃない」
視線を父へ向け、それから王子へ、最後に兄妹へと流す。
「二人にこの家はお任せするわ。私はどうやら、必要なかったみたいですし」
「何を言っている」
「ずっとそうでしょう。お兄様は家の顔。フローラは家の花。私はその後ろで、崩れないように縫っていればよかっただけ」
「カティア」
「殿下もお楽になるでしょう。もう境界を引く者も、後始末をする者もおりませんもの」
「何を」
「何でもありません。殿下は優しい方ですものね。皆さま、そう仰るわ」
王子は、そこで初めて自分の前に立っていた女を見たような顔をした。婚約者として長く隣に置きながら、一度もきちんと見ていなかった男の顔だった。遅すぎる、とカティアは思った。
妹の顔から血の気が引いた。兄は何か言いかけたが、言葉が出ない。父は怒るべきか止めるべきか一瞬判断を誤り、母は呆然と立ち尽くしていた。
その中で、リディア・フェルベール伯爵令嬢がかすかに拍手した。軽い、しかしはっきりした音だった。誰かが追従し、やがて大広間の端で小さな喝采が起こる。
冷たい婚約者が去り、優しい王子が自由になる。そういう空気が確かにあった。
カティアは一度も振り返らず、その場を去った。
屋敷へ戻ったのは深夜だった。
長い廊下を歩き、自室へ入る。侍女たちが慌ててついてこようとしたが、エマが無言で手を上げて下がらせた。部屋にはまだ朝のままの静けさが残っていた。鏡台の上の香水瓶、畳まれた手袋、夜会に出る前に閉じたままの引き出し。ほんの数時間前までは、この部屋がまだヴァルモン公爵家の長女の部屋だったのだと思うと、それが少し滑稽だった。
カティアは鏡を見ず、装身具を外して机に置く。壊した上布の端が手に触れて、そこで初めて指先に力が入らないことに気づいた。
エマが一歩前へ出る。
「お嬢様」
「必要な物だけでいいわ」
「はい」
「ドレスは二、三着。書類は……祖父様に見せる分だけ」
「はい」
「宝飾は最低限で」
「承知いたしました」
「あなたは残ってもいいのよ」
エマの手が止まる。
「残っても、ですか」
「ここで勤め続ける道もあるでしょう。若いし、他の侍女頭の下でもやっていける」
「お嬢様」
エマははっきり言った。
「お嬢様を置いて残る理由がございません」
「私にはもう、公爵家の価値はないわ」
「私にはございます」
「王家にも嫌われたのよ」
「私が仕えてきたのは、王家でも公爵家でもございません」
「……そう」
「カティア様です」
名前で呼ばれたのは、いつ以来だったろうとカティアは思った。主従の場では滅多にないことだった。それが不思議と、不快ではなかった。
「ありがとう」
「その一言では足りません」
「そう」
「はい。もっとお身体を大事にしていただかないと、私の気が済みません」
「今さら、ね」
「今さらでもです」
夜明け前に屋敷を出た時、荷馬車は驚くほど軽かった。ドレスも宝飾も、持ち出そうと思えば持てたはずだ。だがカティアは驚くほど多くのものを置いてきた。それらを惜しいと思う感覚まで、もう薄くなっていた。
捨ててきたものが多すぎたからかもしれない。
道中、彼女はほとんど眠れなかった。目を閉じるたび、大広間の光がまぶたの裏に浮かぶ。裂ける布の音、拍手の音、王子の顔、妹の潤んだ目、父の「ちょうどよい」という声。眠れば余計に鮮やかになる気がして、浅い呼吸のまま夜をやり過ごした。
アストレイア侯爵家の門前へ着いた頃には、初夏の風が少しだけ柔らかくなっていた。
出迎えたのは、白髪をきちんと結い上げた老婦人だった。ヴィオレーヌ・アストレイア。母方の祖母である。
彼女は孫娘を一目見るなり、言葉を失った。
「まあ……」
それだけだった。抱きしめもしない。涙も見せない。ただ目だけが鋭く細められる。
「どうしてこの子を、こんなにしていたの」
誰へ向けたのでもない言葉だった。だが、その静かな怒りは、どんな抱擁よりも深くカティアに届いた。
館の中へ通され、湯を使い、食事が運ばれる。温かい皿がひとつ置かれ、食べ終わらぬうちに次が来る。パンは焼きたてで、スープは薄すぎず濃すぎず、量は多すぎないのに途切れない。カティアは最初、どこまで食べてよいのか分からなかった。自分一人のために温かい皿が二度、三度と替わることに、理由のない居心地の悪さがあった。こんなふうに手間をかけられるほど、自分は何か価値のある人間だっただろうかと、本気で思ってしまった。
ヴィオレーヌは何も言わず、ただ少しずつ皿を替えた。
「無理に詰め込まなくていいのよ」
「はい」
「でも、食べていいの」
「……はい」
食べていい。
その短い言葉に、妙に胸が詰まった。今まで食事を止められたことがあるわけではない。ただ、後回しにして当然だと思わされてきただけだ。その感覚が抜けないまま、彼女はゆっくりスプーンを持った。
エマには別室が用意されたが、彼女は「呼ばれればすぐ伺える場所に」と固辞して控えの間に残った。ヴィオレーヌは一度だけ目を細め、それ以上は何も言わなかった。
先代宰相アルベール・アストレイアに会ったのは、その翌日だった。
老いた男は無駄な挨拶を好まない顔をしていた。だが、カティアの出した文書と、彼女自身の受け答えを一通り見たあと、低く言った。
「教育は足りている」
「ありがとうございます」
「礼法も、書面も、数字の扱いも悪くない。いや、かなり良い」
「公爵家の長女として受けたものです」
「そうだろうな。問題は教育ではない」
アルベールは椅子の肘掛けを軽く叩いた。
「使い方が悪い。家中の雑務で擦らせる人材ではない」
カティアはそこで初めて、息を呑んだ。
褒められたからではない。自分の人生のどこが歪んでいたかを、あまりに正確に言い当てられたからだ。擦らせる。まるで刃を石に無駄に当て続けて摩耗させるような言い方だった。その比喩が、痛いほどしっくりきた。
「お祖父様……」
「泣くな。まだ早い」
「泣いていません」
「ならよろしい。泣く暇があるなら、こちらの書簡を読め」
差し出されたのは、侯爵家宛の対外文書だった。地方税の調整と、港湾使用に関する交渉の下書き。公爵家の後始末とは違う。だが、似ている部分もある。相手に飲ませたい条件があり、そのために顔を立てる順番と逃げ道の用意が要る文書だった。
カティアは目を通し、二箇所で眉を寄せた。
「第三項は先に出すべきではありません」
「理由は」
「先方に譲歩を迫るように見えます。その前に、こちらが何を守りたいのかを明示しないと」
「なるほど」
「あと、結びが強すぎます」
「そうか」
「はい。相手の顔を残す一文を入れませんと、あとで別の席でしこりになります」
「ではどう直す」
「こちらが秩序の維持を優先していると見せ、その上で実務上の調整として出せば、先方も引きやすいかと」
「書けるか」
「……はい」
「なら書け」
紙とペンが置かれる。その自然さに、カティアは一瞬だけ戸惑った。試されているのかとも思ったが、アルベールの顔にそういう含みはなかった。ただ必要だからやらせる。そこに余計な感情も、娘だからとか、傷ついているだろうからとかいう配慮も混ざっていない。
それがかえって、ありがたかった。
書き終えると、アルベールはざっと目を通し、短く笑った。
「やはりな。公爵家は、政務に置くべき子を家政に使っていたらしい」
その日から、カティアは少しずつアストレイア家の文書に触れるようになった。
まずは整理。次に清書。やがて内容の修正。三日もすると、ただの文言の直しではなく、全体の流れそのものを組み替え始める。相手に譲らせたいのならどこを先に持ってくるか。どの一文を捨てれば全体が軽くなるか。どこで理屈を立て、どこで理屈を引っ込めるべきか。そういうことを考える仕事は、彼女にとって苦ではなかった。むしろ、初めて正しい場所に置かれた歯車のように、噛み合う感覚があった。
だが身体は、すぐにはついてこなかった。
夜になると妙に目が冴え、少し物音がすると呼吸が止まりそうになる。温かい食事が三度出るだけで落ち着かず、昼のうちに「休んでいい」と言われると、何もしていない自分が責められているように感じた。ヴィオレーヌが仕立て直した服を持ってきても、似合うと言われることに慣れていないせいで、どこか落ち着かない。
「この色の方がお似合いよ」
「派手ではありませんか」
「目立つのではなく、合っているだけです」
「……似合う、など」
「今まで誰も言わなかったのなら、周囲の目が悪かったのです」
「そんな」
「そんなことがあります。人は見たいようにしか見ませんから」
ヴィオレーヌはそれ以上押しつけなかった。ただ、押さえ込まれていたものを少しずつ正しい位置へ戻していった。髪のまとめ方、胸元の開き、立つ時の肩の置き方、食事の速度。華やかに飾り立てるのではなく、彼女本来の格が見える程度に整える。
エマはその脇で、黙々と支えた。夜中に悪夢で目を覚ました主人に水を出し、祖父母の前では言えない疲弊を代わりに伝え、館の使用人たちに公爵家時代の習慣を説明していく。
「お嬢様は食事を抜く癖がございます」
「癖?」
「いえ。抜く余地があると思わされてきただけです」
「そう」
ヴィオレーヌの目が冷たくなった。
「眠れない夜もございます」
「薬が必要かしら」
「いえ。誰かが後始末をしていないと朝になれないと思っておいでです」
「……そう」
カティアはその会話を聞こえないふりでやり過ごした。けれど本当は、どれも図星だった。
カティアが中央へ呼ばれるようになるのに、長い時間は要らなかった。
先代宰相の館で、妙に切れる娘がいる。名を改めたアストレイア侯爵家の令嬢で、文書ひとつで二つ先の揉め事を消す。相手の面子を折らずに条件だけを通す。そういう噂は、表立って広めなくても勝手に広がる。
やがてその名は、次代の宰相候補セドリック・ヴァレントワの耳にも入った。
最初の対面は、彼の執務室だった。必要以上の装飾はなく、書類の山だけが整然と並んでいる。彼は立ち上がって形式通りの礼を示したが、その仕草に探るようないやらしさはなかった。女を値踏みする男の目でも、落ちぶれた令嬢を眺める顔でもない。ただ仕事をする相手を見る目だった。
「アルベール侯から聞いています。あなたは『助かる』では済まない方だと」
「過分なお言葉です」
「謙遜はいりません。必要なのは結果ですから」
「なら、お話が早いですね」
「ええ。私は、遠慮なく働ける相手を探していました」
それが、あまりにまっすぐな言葉だったので、カティアは一瞬だけ返事を忘れた。
必要なのは結果。遠慮なく働ける相手。そこに女としての評価も、重しとしての都合も混ざっていない。可憐でも華やかでもなくてよい。ただ机の向こうに座る、同じ実務の人間として見られている。その感覚に、胸の奥が少しだけ遅れて熱くなった。
「こちらの案を」
セドリックが差し出したのは、地方港湾の再編に関する草案だった。
「三案ございますが、私は二案を推しています。ただ、反対派がどう出るか」
「見ても?」
「もちろんです」
カティアは紙を追った。読みながら、反対派の顔が浮かぶ。守旧派が嫌がる箇所、地方貴族が面子を失う点、逆に通れば誰が得をするか。その整理が頭の中で早く進む。
「二案で進めるなら、先に税率の話を出してはいけません」
「ほう」
「彼らは税そのものより権限の線引きに敏感です。徴収率ではなく、誰が決めるかの話に見えてしまう」
「続けてください」
「先に管理責任の所在を曖昧にしてから、実務上の調整として税率へ落とした方が通りやすいかと。代わりに監査の一文は後ろに置くべきです」
「なぜ」
「先に監査が来ると、彼らは改革ではなく摘発と受け取ります」
「……同感です」
セドリックはすぐに頷いた。
「あなたがいると話が早い」
「そう言っていただけると助かります」
「助かる、では足りません。私は、あなたがいないと組み直しに余計な時間を使う」
「随分とはっきり仰るのですね」
「仕事の話ですから」
「ええ、そうですね」
ふと、笑みがこぼれそうになる。
仕事の言葉だった。だからこそ、変に甘くなくて良かった。彼は彼女を持ち上げるために言っているのではない。ただ必要なものを必要だと言っているだけだ。それがどれほど貴重なことかを、カティアは知っていた。
ヴァルモン公爵家の綻びは、劇的ではなかった。
屋敷はしばらく変わらず立っていた。客も来る。兄はまだ立派に見えた。妹もまだ愛らしく笑えた。父は表向き何も失っていない顔をしていた。失墜というほど大きな音は、最初のうちはしなかった。
ただ、立っていることと、保っていることは違った。
贈答の返礼が遅れる。使用人が辞める。親族の一人が急に距離を置く。地方から上がる報告の齟齬が増える。兄は堂々としているのに、後から誰かが黙って埋めていた穴が埋まらない。妹は気まずくなるたびに涙ぐむが、その涙では帳簿も人心も整わない。
ある夜、ルシアンは書斎でひとり、北部への返書を前にしていたという。
数字は合っている。礼も失してはいない。文面そのものに露骨な瑕疵はない。なのに、三度書き直しても形にならない。相手がどう受け取るかが、どうしても読めない。強く出れば角が立つ。弱く出れば舐められる。その間のどこに置けばよいのかが分からない。
机の上には、かつては朝までに整っていたはずの書類が積まれていた。いつも自分は顔を出していただけで、その裏で誰が何を片づけていたのかを、彼は初めて思い知ったらしい。
その夜、誰も来なかった。
呼んでも、当然のように直してくれる妹はもういない。ルシアンはそこでようやく知った。いつも机の向こうで片づいていたのは、紙ではなく、自分の足りなさだったのだと。
王家の方はもっと露骨だった。
エリアス第三王子は、婚約者を失って自由になったと本気で思っていた。軽さは優しさと勘違いされる。微笑めば令嬢は喜ぶ。少し距離を詰めても、相手は王子を無下にはできない。そういう甘い認識で、彼は婚約の決まった令嬢たちへ次々と手を伸ばした。
最初は贈り物。次に執拗な接触。舞踏会で必要以上に引き留める。私的な文を送る。断れば少し拗ね、受け流せば踏み込む。相手が困っていること自体を、好意ゆえの戸惑い程度にしか思わない。
断罪の夜、軽く手を打っていた令嬢たちの中にも、その対象になった者がいた。
もっとも深く踏み荒らされたのが、リディア・フェルベールだった。
彼女はあの夜、冷たい婚約者が消え、優しい王子が自由になるのだと信じていた。可憐に振る舞えば、自分のような娘にも陽の当たる時が来るのだと思っていた。
だがエリアスにとって、彼女の侯爵家との婚約など重みにならなかった。王子である自分を拒み切れないだろうという甘えの前では、家格も面子も軽かった。微笑みを拒めば冷たいと言われ、逃げれば角が立つ。押し切っても、どうせ大事にはならないと彼は思っていた。
境界を越えたのは、彼だけだった。だが越えさせたのは、彼を止めるものが何もないと信じ込ませていた周囲でもあった。
リディアは無事では済まなかった。
その件が表に漏れた時、王家も宮廷もようやく理解した。
ヴァルモン公爵令嬢は、第三王子を縛っていたのではない。彼が他人の人生を踏み潰さぬよう、境界を何度も引き直していたのだと。優しい王子に冷たい婚約者がついていたのではない。軽い王子に、最低限の線を教える者がいたのだと。
その頃、王都には別の噂が流れていた。
不要とされたヴァルモン公爵家の長女は、隣国でアストレイア侯爵家の令嬢として迎え直され、先代宰相に才を見出され、いまや次代の宰相と目されるセドリック・ヴァレントワの首席補佐官を務めている、と。しかも婚約まで整ったらしい、と。
その噂が誰の耳にどう刺さったかを、カティアは知らない。
知る必要もなかった。
カティア・アストレイアは、隣国の庁舎で新しい書類に目を通していた。
窓から入る光は明るく、机の上の紙はきちんと揃っている。隣の卓ではエマが筆記具を整え、少し離れた場所でセドリックが次の会議の資料に赤を入れていた。誰かの失敗を黙って拭うための机ではない。最初から、その力を使うべき場所へ使うための机だった。
「北部案、第三項を先に出すのは避けましょう」
カティアが言う。
「理由は」
「相手に譲歩を迫るように見えます。その前に、こちらの守りたい線を示した方が良い」
「同感です」
セドリックは即座に頷いた。
「あなたがいると話が早い」
「そう言っていただけると助かります」
「助かる、では足りません。私は、あなたがいないと組み直しに余計な時間を使う」
「随分とはっきり仰るのですね」
「仕事の話ですから」
「ええ、そうですね」
窓ガラスに映る横顔は、もう地味ではなかった。華やかすぎもしない。ただ、正しく整えられた顔だった。首筋も、肩も、視線も、何かを押し殺すためではなく、自分の重さをそのまま支えるためにある。
カティアは静かに紙をめくる。
ヴァルモン公爵家の長女として学んだことは、何ひとつ無駄ではなかった。
ただ、置かれる場所が間違っていただけだ。
比べられるために置かれ、使われるために耐えてきた。けれど今は違う。任せるために呼ばれ、必要だから席がある。
そういう場所へ、ようやく辿り着いたのだと、彼女は思った。
遠い王都ではきっと、今も誰かが彼女の名を噂している。
あの公爵家の長女は、あの時、こんな女だったのか。
あの王子の婚約者は、あれほどの器だったのか。
あの家でいちばん不要ではなかったのは、誰だったのか。
そう思い知る者が増えたとしても、もう彼女には関係がない。
失ってから知る価値など、持ち主の手元には戻らないのだから。
机の上に新しい文書が置かれる。カティアはそれを受け取る。隣でエマがインクを整え、セドリックが次の論点を簡潔に告げる。その流れが、今の彼女にはひどく自然だった。
もう誰かの足りなさを埋めるためだけに、比べられる必要はない。
彼女はただ、自分のいるべき場所で、自分の役目を果たせばいい。
それだけで十分なのだと、ようやく思えた。
このシリーズは、悪役令嬢が「そうなった理由」を別の角度から描く短編です。
前作の「ずっと誰も叱ってくれなかったから」は、放置と見えない虐待の話でした。
「ずっと許されていたから」は、甘やかしと境界線の欠如の話。
そして今回は、ずっと比べられ、人としてではなく“役割”として扱われ続けた長女の話です。
断罪そのものより、そこへ至るまでの毎日の積み重ねと、失ってからようやく分かる重さを、前稿より厚めに書き直しました。
派手なざまぁではありませんが、静かに刺さるものになっていたら嬉しいです。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。




