戦地の婚約者から届く手紙は、毎回どうでもいい話ばかりだった
戦地にいる婚約者からの手紙は、毎回どうでもいい話ばかりだった。
辺境は思ったより風が強いこと。
配給の黒パンが固すぎて、若い兵が前歯を欠いたこと。
新しく支給された靴がまるで足に合わず、踵の皮が剥けたこと。
愛している、とはあまり書かれていない。
会いたい、ともほとんど書かれていない。
あるのは、天気と食事と、兵舎の毛布の薄さと、眠れない夜の話ばかり。
だから社交の場で笑われるのも、もう慣れていた。
「まあ、なんて味気ないのかしら」
茶会でそう言ったのは、向かいの席に座る伯爵令嬢だった。
彼女は扇で口元を隠しながら、私の手元の封筒をちらりと見た。
「婚約者からのお手紙でしょう? 普通はもう少し、こう……恋しいとか、帰ったら何をしたいとか、そういうことを書くものではなくて?」
周囲の令嬢たちも、くすくすと笑う。
私は紅茶のカップを静かに置いた。
「書いてありますわ」
伯爵令嬢は目を丸くした。
「どこに?」
私は答えなかった。
答える必要がなかったからだ。
彼――アルフレッド・ヴァレントの手紙には、たしかに書いてある。
ただし、誰にでも読める形ではないだけだ。
『君が前に送ってくれた乾燥果実は、若い兵に妙に人気だ』
それは、私が送ったものをきちんと覚えていて、ちゃんと受け取ったということ。
『塩を先に強く振るより、煮る前に少し酒に浸した方が肉がましになる』
それは、以前、屋敷の料理場で私が何気なくこぼした言葉を覚えていて、実際に試したということ。
『今日の見張りは冷えた。君は冷え性だから、冬用の靴下はもう出しておくべきだ』
それは、凍えるような夜の中で、自分のことだけでなく、遠く離れた私の足先を思い出していたということだった。
どうでもいい話ばかり。
でも私は知っている。
人は、本当に大切な相手にこそ毎日の話をする。
今日、何を食べたのか。
どこが痛かったのか。
何に困って、何を見て、何を思ったのか。
明日もまた、その続きを話したい相手にだけ。
だから私は、彼の手紙が好きだった。
戦は長引いていた。
王都に届く報告は、いつだって華々しい。
どこの家の嫡男が敵将を討ったとか、誰それが勲章を授かったとか、そういう話ばかりが飾り立てられて流れてくる。
けれど、辺境で本当に何が起きているのかを知る者は少ない。
そんな中で、アルフレッドの手紙だけは妙に生活の匂いがした。
『水場が一つ凍った』
『補給の豆は虫に食われていた』
『古参兵は皆、具の少ないスープを平気な顔で飲むが、実は底に沈んだ豆を最後まで残している』
『前に君が、固いパンは一晩布で包んでおくと少しだけましになると言っていただろう。あれは本当だった』
私は返事を書くたび、恋文とは言いがたいことばかりを書いた。
くれぐれも足を冷やさないでくださいませ。
湯を沸かせるなら、乾燥した柑橘の皮を少し入れてください。
眠れないなら、無理に寝ようとせず、目を閉じるだけでも違うそうです。
塩蔵肉は、一度水に浸してから火にかける方がましになります。
灰を布で包んで靴に入れると、湿気が少し取れます。
母には苦笑された。
「あなたたち、本当に婚約者同士なの?」
「そうですわ」
「まるで長年連れ添った夫婦のようね」
それも少し嬉しかった。
情熱的な言葉はなくてもいい。
明日も生きるための話を交わせる相手の方が、私にはずっと大事だったから。
冬の終わり、王都で大きな夜会が開かれた。
戦況がやや持ち直したことを祝う席。
けれど実際には、前線から戻ってきた若い貴族たちが、自分の武勇と勲章を見せびらかすための場だった。
私はそこで、子爵家の嫡男ルシアン・フォルメルに声をかけられた。
「まだ待っているのですか。あの辺境騎士を」
彼は柔らかな笑みを浮かべながら、葡萄酒の入ったグラスを傾けた。
見た目だけなら、たしかに洗練された青年だった。
「君ほどの人が、そんな無骨な男に縛られる必要はないでしょう。聞いた話では、送ってくる手紙も色気のない報告書のようなものだとか」
「報告書ではありませんわ」
「では恋文ですか?」
私は少しだけ考えてから、答えた。
「生存報告です」
ルシアンは、ふっと笑った。
「なるほど。ずいぶん健気な解釈だ」
何人かの令嬢が、それに合わせるように笑う。
「ですが、戦場の男は変わりますよ。欠けて戻るか、戻らないか。そのどちらかでしょう」
「……」
「帰らない方が、思い出は美しいこともある」
あまりにも無神経で、あまりにも軽かった。
けれど私は言い返さなかった。
言い返さずとも、わかる人にはわかる。
わからない人にまで、私たちの手紙の意味を説いてやるつもりはなかったからだ。
その一か月後、辺境の砦が大規模な襲撃を受けたという報せが王都に届いた。
王都は騒然となった。
死者の名簿はまだ届かない。
行方不明者も多い。
増援も遅れている。
貴族たちは戦況を論じ、将軍たちは責任の所在を探り、令嬢たちは青ざめた顔で名簿の到着を待った。
そしてそのついでのように、何人もの人間が私を気遣うふりをした。
「まだ若いのだから」
「万が一に備えて、次の縁談を考えておいた方がいい」
「情だけでは生きていけませんよ」
「そろそろ現実を見るべきだわ」
現実を見るべき。
そんなことは、手紙を受け取っている私の方がよほど知っていた。
現実とは、敵将を討った華やかな武勲より前に、凍えないことだ。
腹を壊さないことだ。
眠れなくても倒れないことだ。
明日の朝まで生き残ることだ。
私は何も言わず、最後に届いた手紙を読み返した。
『昨夜は珍しく静かだった。
静かすぎる夜は嫌いだ。
誰も喋らないと、鍋の煮える音ばかり気になる。
君なら、こういうときほど温かいものを食べろと言うだろうな。
帰れたら、君のところの厨房で、まともなスープを飲みたい』
帰れたら。
たったそれだけの一文で、私は待てた。
ああ、この人はまだ帰るつもりでいるのだとわかったから。
砦の陥落は免れた。
その知らせが届いたのは、さらに十日後のことだった。
けれど安堵する間もなく、今度は王都中が別の熱に包まれた。
凱旋式だ。
砦を守り抜いた将兵が帰還する。
英雄が帰ってくる。
誰が最も大きな功を立てたのか。
貴族たちは色めき立ち、令嬢たちは晴れの日の衣装を選び、噂好きの者たちは次の出世株の名を探った。
私も会場へ向かった。
足が震えていた。
それが恐れなのか期待なのか、自分でもわからなかった。
群衆の向こうに、見慣れた立ち姿があった。
アルフレッドだった。
痩せていた。
日に焼け、頬に薄い傷が増えていた。
軍服も以前よりくたびれて見えた。
それでも、生きていた。
私は駆け出しそうになった。
けれど、その前に壇上へ進み出た王国軍総指揮官が、朗々と声を上げた。
「此度の防衛において、最も大きな功を立てたのは、敵将を討ち取った者ではない」
会場がざわめく。
「砦を守り切るために補給と衛生を整え、凍傷と飢えによる脱落を最小限に抑えた者たちである」
華やかな武勲話を期待していた空気が、一気に変わった。
総指揮官は続けた。
「中でもアルフレッド・ヴァレントは、限られた食糧と物資を用いて兵の状態を保ち続けた。提出された現場記録には、極めて具体的で実用的な工夫が数多く見られる。乾燥果実の活用、塩蔵肉の戻し方、布と灰を用いた簡易乾燥、夜番交代時の温湯の回し方、固いパンを少しでも食べやすくする方法――どれも地味だが、一つでも欠ければ死者は増えていた」
私は息を止めた。
読み上げられる内容は、どれも私が返事に書いたことのあるものだった。
屋敷の料理場で覚えたこと。
使用人から教わったこと。
母から聞いた冬越しの知恵。
何気なく書き送った、日常の延長にある工夫。
それを彼は、戦場で使っていたのだ。
「なお、これらの工夫の多くは、ヴァレント卿が婚約者と交わしていた私信の中で継続的に共有されていたものだと確認されている」
その瞬間、周囲の視線が一斉に私へ向いた。
茶会で笑っていた令嬢たち。
夜会で小馬鹿にしたように笑ったルシアン。
どうでもいい話だと言い切った人たち。
誰も何も言わなかった。
言えなかったのだろう。
彼らが笑っていた手紙は、ただの恋文ではなかった。
あの砦で何十人もの命をつなぎ、兵たちを立たせ、守り切るための糸だったのだから。
総指揮官は最後に、会場を見渡して言った。
「華々しい剣技だけで砦は持たぬ。兵が立てなければ、誰も戦えぬ。戦場に必要なのは英雄譚だけではない。明日の朝まで生き延びるための知恵だ」
その言葉は、会場のあちこちに鋭く刺さった。
ルシアンは青ざめた顔で立ち尽くしていた。
少し前まで、帰らない方が思い出は美しいなどと言っていた男が。
けれどアルフレッドは帰ってきた。
ただ生きて帰っただけではない。
地味だと笑われた手紙の積み重ねで、人を生かして帰ってきた。
式典のあと、アルフレッドはようやく私の前まで来た。
近くで見ると、想像していたよりずっと疲れていた。
それでも、その灰色の瞳はまっすぐに私を見ていた。
「……ただいま」
たった一言で、胸が詰まった。
「おかえりなさいませ」
そう返した途端、張り詰めていたものが少し緩んだ気がした。
彼は困ったように眉を下げた。
「その……手紙。あまり色気のないことばかりで、すまなかった」
私は思わず笑ってしまった。
「本当に」
彼は目に見えて肩を落とした。
「毎回どうでもいいことばかりでしたわ。スープがしょっぱいとか、靴擦れが痛いとか、毛布が薄いとか、豆が固いとか」
「……面目ない」
「ええ、本当にどうでもいいことばかり」
私は胸元の小さなバッグから、一番最初の手紙を取り出した。
何度も読み返して、角の擦れたそれを彼に見せる。
「でも、あなたの手紙には、毎回ちゃんと書いてありました」
「何がだ?」
「明日も生きるつもりだ、ということが」
彼が息を呑むのがわかった。
「私は、それが何より嬉しかったのです。愛していると言われるより、ずっと」
彼はしばらく黙っていた。
戦場ではきっと、誰にも見せなかったのだろう。
そんな顔で、どうしようもなく弱ったように笑った。
「……君には敵わないな」
「知っております」
「次の手紙は、もう少しましなことを書く努力をする」
「では私は、もっとどうでもいい返事を書きますわ」
彼は声を立てて笑った。
その笑い声を聞いた瞬間、ようやく本当に帰ってきたのだと思えた。
春になって、私たちは正式に結婚した。
結婚後も彼は、遠征や視察のたびに手紙を寄越した。
内容は相変わらず大したことがない。
今年の豆は少し固いだとか。
新兵が包丁の使い方を知らないだとか。
寝る前の温湯は思った以上に効くだとか。
厨房の女中に教わった野菜の切り方が意外と便利だっただとか。
そして時々、ほんの少しだけ前より素直になった。
『次は君と食べる食事の話を書きたい』
『君の作るスープが恋しい』
『帰ったら、まず君の顔を見たい』
けれど私は、前の手紙の方も変わらず好きだった。
どうでもいい話ばかりの中に、
今日も無事だったことがあって、
明日も帰ってくるつもりでいることがあって、
帰る場所をちゃんと覚えているという証があったから。
だから今でも私は、戦地の婚約者から届いていた、どうでもいい話ばかりの手紙を宝物のようにしまっている。
あれは恋文だった。
ただ、誰にでも読める形ではなかっただけだ。




